第七章「狂母」第百三十一話
「アグリッピナ?!」
「ドルススお兄様!」
「お前、そんな所に登って何してるんだよ?!」
「消防隊員がどうやら野次馬のせいで現場まで辿り着けないようなんです!だからリウィア様からポルティコを通じて呼びに行くよう言われたのです!」
「本当か?!分かった!僕も手伝うよ!」
「私もだ!クッルスは野次馬を出来るだけ散らばせてくれ!」
「セリウス、分かった!」
私は途中で合流したドルスス兄さんとセリウスで、二手に分かれて第六分団の消防隊員を誘導した。
「こっちへ!」
「あの先の、カエサル神殿横ですか?」
「そうです!」
日頃の鬱憤を晴らすかの様に、私はポルティコの上を何度も飛び跳ねて、駆けずり回っていった。途中で奴隷のパッラスとフェリックスも参加して、梯子を掛けて迂回路を作ったりもした。
「こっちの梯子から登れるぞ!」
「注水台車を下から通すんだ!」
「牛腸製のホースはまだか?!」
「こっちです!」
クッルスはリウィア様の指示に従って、群がっていた野次馬全員を消化活動への参加を呼びかける。あまりの名演説だった事に、人々は父ゲルマニクスの面影を見たのか、積極的に参加するものが増えていく。
「アグリッピナ!こっちで一緒に手伝おう!」
「はい!お兄様!」
「パッラス、そのオケでアクア様を持ってきてくれ!」
「はい!フェリックス!水だ!とにかく水をみんなで運ぶぞ!」
「うん!」
戻った私達も一緒に、ローマ水道橋の様な陣を組んで、火災現場までアクア・リレーで水を送ったりした。けれど、炎はレギア・ドムスの屋根をついに壊し始め、屋根の瓦が焼け焦げて雪のように降り注いでくる。そのススで近くにいた人は真黒になっていった。
「このままではダメだ!クッルス、レギアの壁を壊せ!」
「セリウス、分かった!」
その間も勇敢だったのはクッルスだった。大きな体を武器に、木の大きなハンマーを片手に持って、全身に水を被り、隣のウェスタの神殿へ火が移らないように、勢いよく反対側の壁を叩き壊していった。クッルスの動作と合わせるかの様に、私達も掛け声を合わせながら応援し、その間に何度も何度もアクア・リレーで水を送っていく。自然とそれが一つのテンポやリズムへとなっていった。
「いいわよ!だいぶ火の手は弱まってきたわ!ウェスタの礼拝堂後ろからホースを辿らせて、注水台車から水を組み上げなさい!」
「礼拝堂に登っていいのでしょうか?」
「何をバカな事を言っているの?当たり前でしょう?!」
「しかし…。」
消防隊の殆どは解放奴隷だった。その為ローマの信仰に対し、後で自分達が穢したと訴えられる事に躊躇する消防隊員も少なくはない。私は居ても立ってもいられず屋根に登り、後ろ手からホースを持ってくるよう指示した。
「こっちから持ってきてください!」
「わ、分かりました!」
「アグリッピナ!」
「リウィア様、私なら礼拝堂の上に登っても大丈夫ですよね?」
「ええ!アグリッピナ、決してウェスタ神殿には水がかからない様に気をつけるのよ!『最後の良心』を絶やしてはダメよ!」
「はい!」
「兄さん!こっちのホース手伝ってください!」
「分かった!待ってろ!」
セリウスとパッラスチームはカエサル神殿から注水を開始し、私達はウェスタの神殿と礼拝堂を経由して、挟み撃ちで火の手に水を浴びせた。すると、驚くほど鎮火して行き、辺りが段々と頼りない紫煙だらけになっていく。野次馬達全員によるアクア・リレーも大詰めを迎え、火の手が消える音が聞こえ始めてきた。
「鎮火したぞ!!!」
「やったー~~!」
クッルスの太い右腕に掲げられた木のハンマーに感化され、関わった全員が歓喜の声を上げて喜んでいる。私もドルスス兄さんと抱き合ってはしゃいだ。リウィア様はようやくホッとして、神殿の階段に腰掛けてる。私は兄さんと一緒に礼拝堂の屋根から降りて、リウィア様の元へ駆け寄った。
「ありがとう、アグリッピナ。」
「大母后様…。」
ご自慢の髪は乱れ、全身ススと水でビショビショだったけど、リウィア様の満面の笑みはとても美しかった。ご自分のストラを軽く手ぬぐい程度に引き裂くと、しゃがんで私のススだらけの顔を拭いてくれた。
「ジュリアー?!」
「アントニア様~!ここです。」
「ああ、ジュリア…。良かった!」
アントニア様は、しっかりとしゃがんでジュリアを抱き締める。私も大母后リウィア様も、微笑みながら眺めていると、アントニア様はようやくこっちに気が付いた。
「まぁー?!リウィアお義母さん?!アグリッピナまで!」
「アントニア、あんた一体今まで何処にいたのよ?」
「ずっと、ジュリアを探していました。」
「ジュリアは一生懸命手伝ってくれたのよ、貴女も自分の事ばかりでなく、少しは見習いなさい。」
「はい…。」
大母后リウィア様はこういう人だ。
本当は私達はリウィア様に言われて手伝っただけなのに、その事には触れずに、まるで自発的に協力したかのように仰って、年下から学ぶように催促する。これが『国家の母』として責務を常に感じているお姿だ。私はリウィア様から両肩に手を添えられて、消化活動に携わった全ての人へ感謝の意を述べられた。
「皆さん、今回は本当に迅速で協力的な消化活動により、甚大な災害になる事から無事に回避が出来た事に感謝します。お陰様でウェスタの神殿も礼拝堂も無事ですし、『最後の良心』である火床の女神ウェスタが与えし聖なる炎を消さずに済みました。これは本当に皆さんの協力あっての事です。」
大母后リウィア様は私の頭を撫でながら、さらに話を続ける。
「さらに、こんな小さな女の子からも、私達はローマに住む者としての勇気を教わりました。時として、災害の時には神に祈る事も不可欠でしょうが、自分達の身の回りでできるはずの小さな勇気が、これ程多くの人達の心を動かし、そして私達を現実的に対処できる知恵へと導いてくれるはずです。」
多くの人達はリウィア様の語る言葉に、耳を傾けざるを得なかった。
「この火災までの私達は、ひょっとしたら自分たちだけの事を考えて、堂々と聖道であるヴィラ・サクラを歩いていたかもしれません。いや、堂々と憧れを抱いた神君カエサルを自分にダブらせていただけかもしれません。ですが、今夜、私達は災害においても、見知らぬ者同士が謙虚に協力し合って助け合う事が出来ました。この美徳を決して忘れないようにしましょう。本当にありがとう!」
私はすぐさまリウィア様の為に拍手をすると、多くの人々が我先に拍手喝采をした。奇跡的に一人の死傷者も出す事なく、そしてウェスタの神殿も守る事が出来たのだから、みんな誇らしげに思ったのかもしれない。この喝采はひょっとしたら今まで陰鬱で疑心暗鬼に陥りやすかったローマ市民の自分達へのものだったのかもしれない。
「アグリッピナ。私達のローマは、私達ローマ市民の手で守るのです。」
「はい。」
それから、数日後。
突如として大母后リウィア様のお姿は、公然に出る事が全くと言っていい程なくなってしまった。あれ程迅速な消化活動を指揮されたのにも関わらず、ティベリウス皇帝及びその側近からは、まるで火の粉を消し去った様に、あの夜のご活躍については触れられなかった。一説によれば、この一件以来、皇帝派の氏族と母后派の氏族での派閥争いが勃発し、敢えてリウィア様は沈黙を守られているようだった。
「アグリッピナ…。」
「ドルススお兄様。」
「大丈夫だよ、きっとまたリウィア様は、あの時の様に元気なお姿を見せてくれるさ。」
「本当に?」
「ああ!」
けれど、兄ドルススの言葉が現実になる事はなく、再び私が大母后リウィア様にお会い出来るのは、今から八年後の母ウィプサニアが追放された年、つまり、リウィア様が亡くなる前年であった。
続く