第七章「狂母」第百三十話
「ドルスス様、アグリッピナ様。私共がお供しましょう!」
「セリウス!クッルス!」
大母后リウィア様からアントニア様に派兵されている二人が、私達の護衛をしてくれる事になった。
「既に火事の現場へは、アントニア様も向かわれています。こちらです、ドルスス様。」
「ありがとう、クッルス。」
「セリウス、アントニア様はいつから?」
「はい、アグリッピナ様。火が上がった時から直ぐに駆け付けました。きっと、たとえ政敵の長女であっても、他人の子を預かる身としては、その責任は重いでしょう。」
だがクッルスは、さらに意味深い事を口にした。
「いや、むしろ、政敵だからこそな、セリウス…。」
「だな?クッルス。」
彼らはとても冷静だった。
確かに二人はお父様の親友だけれども、政治の局面を感情的な判断だけで動いたりはしていなかった。そういった部分は、ドルスス兄さんが徐々に学んでいくところだったのかもしれない。火事の現場は、カエサル神殿そばのレギア・ドムスからだった。
「これは酷い!」
「スゴイ炎だ!」
レギアとは王政ローマ時期の第二代目ローマ王、ヌマ・ポンピリウスによって建築された当時の王宮。現在は大神官の公邸となり、ウェスタ神殿のすぐ横にある。火の粉は今にもウェスタの神殿と礼拝堂へと掛かりそうだった。
「ジュリア!」
「ジュリアさーん!」
「ジュリアー!何処にいるの?!」
野次馬も多く、既にごった返しになってる為、どんなに大声で探してもかき消されてしまう。
「ドルスス兄さん、私はもっと近くまでいってみる。」
「おい!アグリッピナ!危ないって!」
私はドルスス兄さんの声を振り切って、更に野次馬の足元を四つん這いで潜り、何度もジュリアの名前を叫んだ。すると、火事の現場から、大きな声で指示を出す女性の声が聞こえてきた。
「よいですか!決してウェスタの神殿へ火を近づけてはなりません!あなた達はローマ国家における勇敢な兵士なのです!何があっても食い止めるのです!」
大母后リウィア様だ!
消化活動をする兵士や民間人を、必死に自ら先陣を切って励ましてる。私は、その並ならぬ気迫に舌を巻いた。野次馬の話によると、誰よりも先に現場へ到着し、消化活動の指揮を取られていたらしい。
"ウェスタの後は頼んだわよ、リウィア。"
"ええ、オキア様。"
そうだ…。
確かウェスタのオキア神官長が引退される時、大母后リウィア様へウェスタの巫女達を守るように約束されていたっけ。
「あなた達!そこでぼうっと突っ立ってないで手伝いなさい!」
「は、はい!」
「はい!」
「うん?」
つい癖で手を挙げて返事をしてしまった。よく見ると、私と同じように手を挙げてるジュリアが左隣にいた。
「ジュリア!」
「アグリッピナ様?!」
私は堪らず駆け寄ってジュリアを抱き締めた。ジュリアも喜んでジャンプしている。
「アグリッピナ様?!どうしてここに?」
「火事があったから、心配してドルスス兄さんと駆け付けてきたの!」
「わーん、ありがとうございますー!グスン…嬉しくて涙が!」
私もほんのり涙が滲んだ。
それでも虚勢を張って、ジュリアの背中をポンポンと軽く叩き、滑らかなおかっぱの髪を撫でながら落ち着かせた。
「ジュリアとの喜びの対面は、十分に満喫したかしら?アグリッピナ。」
大母后リウィア様は微笑んでらした。そしてこっちへいっらっしゃいと手招きされた。
「はい!」
私はジュリアと手を繋いで、大母后リウィア様の所へ駆け寄った。リウィア様はわざわざしゃがんで、私達二人をヒシっと抱き締めてくれる。そして、すかさず緊張感のある声で私達に協力を求めてきた。
「ジュリア、貴女は編み物が得意だったわよね?」
「は、はい。」
「そこに牛腸製のホースがあるのだけれど、所々が切れて水がこぼれてしまっているの。すぐに編んでくれるかしら?」
「はい!リウィア様!」
「アグリッピナ。貴女は木登りが得意だったわよね?」
「は、はい!」
「あたしの旦那アウグストゥスの神殿下にある消防隊第六分団の宿舎から、消防隊の増員を要請しているのだけれど、彼らがまだ全然やってこないの。ひょっとしたら野次馬に阻まれて来れないのかもしれない。」
「…。」
「そこで、木登りが得意な貴女だったら、神殿のポルティコの上に登って彼らを誘導できるはず。危険だけど、やってくれないかしら?」
「はい!お任せください、リウィア様!」
「ありがとう、ジュリア、アグリッピナ。」
するとリウィア様は立ち上がり、燃え続ける炎を目の前にし、私達の肩に手を添えて決意を口にされた。
「いい?二人とも。火床の女神ウェスタが与えし聖なる炎は、ローマにとって『最後の良心』。その絶やしてはならない炎を、ローマ市民の命を奪う炎『最悪の邪心』へと変えさせるわけにいきません!なんとしてでも、みんなでウェスタの神殿を守るのです!」
「はい!」
「はい!」
悪魔のような雄叫びを上げる炎を見ながら、私とジュリアは大母后リウィア様の指示の元、生まれて初めての消化活動を経験する事になった。
続く