第三章「母」第十三話
青々とした草達が風のメロディを奏でる頃、私達はようやくヌマ・ポンピリオ広場を抜け丘を登り始める。お父様の馬には静かになったカリグラお兄様が、胴鎧のロリカと軍靴のカリガを履いてちょこんと乗っている。
私はというと、リウィッラ叔母様の許可を得て素敵なストラを着せてもらい、ドルスッス様の馬に乗せてもらった。その横にはネロお兄様とドルススお兄様が一緒に歩きながらついてきてる。
お兄様達はずっと歩きながら、改良版のパルナッソス・ゲームをしていた。パルナッソスとはギリシャにあるアポロとコリキアンのニンフたちを祭っている山で、どれだけ自分が役職、学問、文学の知識を持っているか、それぞれをギリシャ語で100文字以内で説明して勝負するゲーム。ギリシャ語につまったり100文字を超えた場合は当然負けになる。
このゲームを考えたのが、初代ローマ皇帝であるアウグストゥス様の文化補佐であり、新世代の詩人や文学者のパトロンだったガイウス・キルニウス・マエケナス様。マエケナス様は非常に柔軟な考えを持つお方で、子供の頃から政治の仕組みや知識欲を刺激し合えるよう配慮された知的なゲームをいくつも考案されていたのだ。
「ダメだ、ドルススのギリシャ語が聞き取れない!100文字を超えたか分からないよ。」
「そう?僕はネロ兄さんの方が早過ぎて分からないよ。」
するとドルスッス様がニコニコしながら二人に指導してる。
「ゆっくり話して、相手の呼吸に併せて話してごらん。そうしたら互いの発音を理解し合う事ができるし、相手の言葉を耳だけじゃなくて、口を動かして口で覚えるんだよ。」
するとお父様も口を挟んできた。
「ネロ、ドルスス。お父さんはギリシャ語はそれ程得意ではないけれど、でも呼吸を相手に併せるのは分かるぞ。」
「どういう事ですか?」
「戦術でも呼吸法は大切なんだ。戦いになれば相手だって緊張して呼吸が荒くなる。相手を負かそうとして気合が入りすぎると、焦って肝心な所でミスをしてしまうのさ。冷静に状況を判断する余裕を得る為には、何よりも呼吸法を身につけるの一番なのさ。」
「なるほど!さすがお父様。」
「すごい!」
お二人のお兄様達は、お父様の言葉に感激を受けていた。
「それに、女性を相手する時にも、呼吸法は大切なんだ。」
ドルスッス様はびっくりして、お父様へ尋ねた。
「それは本当か?ゲルマニクス。」
「ああ、相手の呼吸に併せて動けば、倍以上の快楽を得られるし、子宝にも恵まれやすいのさ。」
「確かに!お前の所は本当に子宝に恵まれてる。それは良い事を聞いた…。うんうん。」
私は、お父様が何の話をしていたのかを理解したのは、翌年にリウィッラ叔母様がドルスッス様との双子の赤ちゃんを産んだ時だった。
「貴方!子供の面前です!言葉には気を付けてください!」
「すまなかった~!」
お母様の耳は本当に地獄耳。
後ろの、しかも、クラウディウス叔父様とリウィッラ叔母様とご一緒に馬車の中にいるというのに、お父様達が子供の面前で成熟な話をしている事をすぐに感知する。
「全く…"ローマに耳あり"とは、ウィプサニアちゃんの事かもしれん。」
「あっははは。あやつは本当に教育にはうるさいからな。」
丘をようやく超えると、そこには壮大な信じられないような光景が私達家族を待ち受けていた。
「こ、これは!」
「いやはや、すごい数だな?ゲルマニクス。」
「ま、まさか?ドルスッス。お前が?」
「ああ。そのまさかだ。チョロっと二、三人に噂を流したらこの通りだ。」
そこには何万人というローマ市民が、シリア属州へ遠征に行くゲルマニクスお父様の雄姿を一目みようと、何と見送りにやってきていたのだ。
「ローマ市民のみなさん、ありがとう!」
お父様は手綱を左手に持ちながら右手で軽く挨拶をしただけだったのだが、それに対する反応は、まるで山へ訪れた風のうねりのようで、お父様は市民達からの手厚い歓喜の声を独り占めにしてしまう。
「ゲルマニクス…。この人気は本物だ。アウグストゥス様がいずれお前に皇帝継承を願ってらしたのは、この人気をかなり見越してたからこそなんだろうな。」
「びっくりだ。ピソが嫌味の一つを言いに来たのも、この光景をみてしまったら、分からなくもないな。」
「言ったろ?お前はいつでも目立つ男なんだよ。」
その歓声を聞きつけたお母様は、馬車を止め、懐妊している大きなお腹を押さえながら外へ飛び出してきた。
「こ、これはどういう事です?」
「我々家族の為に、彼らはわざわざやってきたんだ。」
「まぁ!」
その光景の壮大さに飲まれたお母様は、お父様へ笑顔をこぼして何度も情熱的な口づけをかわしている。お父様の偉大さや威厳さそして謙虚さに惚れて、お母様は結婚したんだってこのときに感じた。目の前の両親の仲睦まじい姿は、私の一つの目標としてこれからずっと追いかける事になる。
続く