第七章「狂母」第百二十五話
この私、クラウディウスは、実の姉であるリウィッラ・ユリアによる夫毒殺の功罪について記述している。「功罪」と書けば、カエサルの血を引くユリウス家や、当時ウィプサニアを支援していた共和制支持者である元老院からも非難を浴びる事は覚悟の上。私自身、姉の夫であるドルスッス様とは、身内として仲良くさせてもらっていたので、姉がそのような愚かな行為に走っていたなどという事は、一個人として許せない気持ちでいっぱいだった。
だが、私は歴史研究家である。それもエトルリア史に関しては、ローマ人としてではなく、全ての歴史を網羅する一人の人間として、関わらなければいけない使命がある。例え、セイヤヌス自身が「記憶の抹消刑」であるダムナティオ・メモリアエの刑に課せられたとしても、歴史は華やかな輝きや自分の都合の良い部分を眺め為にあるのではないと感じる。セイヤヌスには彼なりの正義と思想があったのだ。エトルリア人による王政ローマの復活という途方もない夢が。つまり、彼の野望を正義とみる者からすれば、姉の犯した皇帝継承者である夫のドルスッス毒殺という行為は、王政ローマ復活への暁だったのかもしれない。その事については、後ほどセイヤヌスの狂乱の時に、詳しく記述しよう。
さて、時として歴史とは残酷な生き物である。特に自分の身内同士が争う姿を目の当たりにした時、いずれ結果が訪れる事を覚悟しなければならない。姉はきっと自分の力だけで、本当はドルスッス様の心を取り戻したかったのだろう。そしてセイヤヌスに差し出された秘薬の効果など、始めは信じてはいなかったのかもしれない。だが、理解が概ね願望である事を忘れた時、人は自分以外の力に頼りたくなる物である。少なくとも、兄の長女であるアグリッピナは、幼い頃から大母后リウィア様よりその事を教わってきたようだ。自分の母親ウィプサニアとのすれ違いを幼い頃から感じながらも、母親と衝突することなくそれらを一切口に出さずに我慢していた。きっと姉に足りなかったのは、その我慢だったのかもしれない。事実、姉が思うほど、ドルスッス様はウィプサニアと親密な関係では無かった。先ず第一に、戦友であり親友である兄のゲルマニクスに対する不義になるからだ。そして、現実的に考えても、セイヤヌスと牽制しあう消耗する日々の中で、ウィプサニアと不義をはたらくほど彼は暇では無かった。それに何よりもドルスッス様が常に気にかけていたのは、自分の子供達と妻であったのだからだ。それはドルスッス様の名誉の為にも、私自身が彼と会話した事を記述しておこう。
それは、ある晩の事だった。
「クラウディウスさん…。」
「ドルスッス様、どうなされたんですか?こんな夜に。」
「悪いが、うちのチビ達をしばらく預かってくれないだろうか?」
「チビ達?」
ドルスッスの後ろについてきたのは、召使いに抱えられたティベリとゲルマのゲメッルス双子であった。
「こ、これは?」
「ええ。お恥ずかしいながら、家内がまたもや癇癪を起こしてしまって…。」
「姉さんが?またですか…。」
「今までは、お義母さんのアントニア様と癇癪を起こす事が常だったのだが、今日は違ったのです。私のいない所、それも寝室で一人だけで…。」
「一人…だけで?」
「はい。」
この時、私は不思議な違和感を感じた。勿論、セイヤヌスがいたという事実は後になってから知ったのだが、それにしても姉が一人だけで癇癪を起こすなど、今まで一度も無かったからだ。むしろ、一人の時の姉は穏やかで、いつも葡萄酒を片手に透視図法を考えたり空想に耽っている。母親のアントニアでさえも、姉と口喧嘩した後には、暫く姉を一人にさせてなさい、そうすればケロっと元気になるから、という決まり文句を言うくらいだった。
「部屋はめちゃくちゃで荒れ放題。一生懸命取り繕ってはいたけど、どうやら相当病んでいたらしい。」
「そうですか…。分かりました、暫く双子のゲメッルスを預かりましょう。ナルキッスス!」
「はい。」
「二人をレピダの所へ。」
ドルスッス様には悪いが、血の繋がる弟しては信じられない思いである。だが、姉の癇癪に耐え切れる人間も数少ないのは事実。特に、ドルスッス様のような元来生真面目で陽気な方には酷であろう。
「クラウディウスさん、妻のリウィッラはどうしたら元に戻ってくれるのだろうか?」
「元に?」
「ええ。最近のあいつを見ていると、どうもウィプサニアに対して嫌悪感があるようにしか思えなくて。ゲルマニクスが生きていた時には、あんなに二人は仲が良かったのに、今では二人が揃うと緊張感を強いられます。」
「確かに…。」
「私はただ、元気で優しくて、大きな心で私を受け止めてくれていた、あの頃のリウィッラに戻って欲しいだけなんです…。」
「…。」
私は何も言えなかった。
少なくとも私達家族のバランスが、たった一人の死によって崩れたのは確かだったから。そう、兄ゲルマニクスの死によって。これほどまで、死してもなお、私達に影響を与え続ける兄の存在は、見方を変えれば呪いにさえ感じる。太陽を失った我々が、自分たちの足でこの闇から脱却するには、まだまだ時間が掛かるのかもしれない。
「だから、本当はウィプサニアに双子のゲメッルスを預けるつもりだったのですが、リウィッラの様子が更におかしくなったので、急遽、クラウディウスさんに頼ったというわけです。」
「ドルスッス様、あなたはとても賢明なお方だ。やはり、兄と張り合った仲だけある。姉の性格から言って、もし双子のゲメッルスを本当にウィプサニアへ預けたら、大変な事になっていたでしょう。」
「やはり…。」
「ええ。」
ドルスッス様は頭を抱えて悩んでらした。
「とにかく、暫く私が責任をもって預かりますが、ドルスッス様も余り悩まず、姉と接して頂けるとありがたいです。」
「え?」
「母親の口癖ではありませんが、姉は暫く一人になると、ケロっと元気になるので、その時には今まで通りに接してやるのが一番の特効薬でしょう。」
「今まで通りに…か。」
「ええ。人は、特別扱いされる事よりも、意外に普通の扱いをされた方が、安心するものですよ。」
「確かに…。」
「ドルスッス様が、姉に元の元気な姿を求められるなら、尚更普通に接してやってください。」
「分かりました、クラウディウスさん。」
「姉には私から伝えておきます。」
「ありがとう。私もひょっとしたら、リウィッラの望んでいた自分を見せてなかったかもしれない。」
「仕方ありませんよ、最近は身内の葬儀が多かったですからね。」
「これ以上、増えないで欲しいものだ。」
「ええ。」
だが、次の身内の葬儀は、この年から三年後のドルスッス様ご本人であった。それも姉リウィッラによる毒殺という、歴史の皮肉に隠されながら。
続く