第七章「狂母」第百二十三話
どのぐらいの時をこのままで過ごしたのだろうか?既に陽はこの部屋から離れ、リウィッラは引き裂かれたストラを抱きしめたまま、脱け殻のように茫然自失の状態でいた。 部屋中には、あらゆる物たちが散々と散らばり、つい先週まで、アグリッピナやジュリア達と朗らかに笑っていた場所が嘘のよう。
「いけない、あの人が帰ってくる…。片づけないと。」
リウィッラは起き上がって、少なくとも自分の愛する夫に心配をかけない為にと思ったのだが、擦れた痛みがヒリヒリと彼女の下腹部を襲うと、思い出したくない罪悪感が襲いかかる。
「ああ、何て事を…。」
心の痛みだけではない。それさえも消し去るあの感覚が自分を苦しめている。悶え苦しんだ中で、自然と絡みついてしまった情けなさ。そうした小さな小さな要因という名の幼虫達が、身体中の幸福感を貪る様に蝕み、彼女の求め得る居場所から遠ざける。ただあの人に、もう一度振り向いて貰いたい。それだけが唯一の望みだったはずなのに。そんなリウィッラの心情を察する事なく、夫のドルスッスは戻ってきた。
「あ、あなた?」
「リウィッラ…。これは一体どういう事だ?!」
「何でも無いの。ただ、手を滑らせてしまって。」
せめて今日の事だけは、どんな形でもいいから、知られたくない。その一心だけで笑顔で取り繕う事にした。
「ただ手を滑らせただけではないだろ?一体、何の騒ぎだ?!」
「違うのあなた、これには理由があるの。」
「お前、また癇癪を起こしたのか…?」
「いいえ!ただ、その…。」
セイヤヌスが来ていたなどとは、口が裂けても言えない。ましてトカゲに辱められたなどと弁解したところで、頭のいいドルスッスは来訪を許した自分を一生許さないだろう。
「ティベリとゲルマは何処だ?」
「え?」
「ゲメッルスの二人だ。」
「え、ええ。奥で召使いが…。ちょっと待って、あなた?一体何を考えているの?!」
「ゲメッルスの二人を預ける。」
「はぁ?!預けるって、どうしてですか?!」
「もういい加減にして欲しいからだ!リウィッラ!君はどうして自分の事を我慢出来ないんだ?!内助の功という言葉を知らないのなら、せめて僕たち家族の前で癇癪を起こさないでくれ!」
だが、何気ないドルスッスの一言は、リウィッラの心を刃物でえぐる。
「僕たち…家族の?って、どういう意味ですか?」
「…。」
「あなた!?私はその家族では無いって事ですか?!」
リウィッラは跪きながら、ドルスッスの体にしがみついて懇願した。見放さないで欲しい。その一点だけが、今の彼女の平常心を取り戻してくれるのだから。だが、ドルスッスの表情は険しく、寛容的ではなかった。
「リウィッラ…。今の君は、まるでモザイク画の一つが気に食わなくて、僕らが必死に作り直したものを全て壊している様だ!」
「そんな…。どうしてそんな酷い事を仰るのですか?!私は何も壊してなんかおりません!」
「君の周りを見たまえ!この部屋に散らばり壊れた器の様に、君を取り囲む人間関係だって壊れかけているじゃないか!」
リウィッラは叩きつけられた。
ひび割れた器だとわかっていたけど、でも、それを何故自分のせいばかりにされなければいけないのか?母親は大人になれといい、夫は自分の心さえも理解しようとしない。
「昔の君はこんな事すらしない、非常に優しい女性だったじゃないか。いつだって笑顔で僕を受け止めてくれて…。いつも元気が良くて、そして大きな心で何事も捉えてくれた。母の様な安らぎを与えてくれた、あの頃の君は、一体何処に行ってしまったんだ?」
だがリウィッラは、己の性分を抑える事は出来なかった。頭の中でセイヤヌスの指摘する言葉が支配し始めていたからだ。
「私だって母親である前に、一人の人間なんです!辛い事や悲しい事だってあります!それをなぜ、分かって下さらないのですか?!」
「度が過ぎるんだよ…。君のは。他人を傷付けている事さえ、気が付いていないんだ。このまま君の情緒不安定が続けば、ゲメッルスの双子の二人だって怪我をするかもしれない。だから、一時的にウィプサニアの所に預けるつもりだ。」
確定的だった。
天から神々が自分の頭部に目掛けて稲妻を落とすかの様に、セイヤヌスの言葉は全てを物語っている。
"それにローマの男はみんなマザコンだって言うじゃないか。ドルスッスの母親の面影を持つウィプサニアの好きにさせていたら、いずれお前の旦那がなびくのも時間の問題だな?"
自分へ惨たらしい辱めを与えた獣以下のトカゲの言葉が、今はまるで世界の真理を物語る主神ユピテルの語る言葉の様に説得力を帯びている。ドルスッスの心は自分から離れ、そして今はウィプサニアへと移ろいでいる。ドルスッスがリウィッラに望む事は母性愛のみ。女としての孤独や苦しみには蓋をしようとしている。
ウィプサニア…。
兄を奪い、母のアントニアを騙し、長女のリヴィアを長男のネロと結婚させ、旦那のドルスッスを惑わし、そして今度はティベリとゲルマのゲメッルスまでも奪おうとしている。私は許さない。決して許さない。あの女が全てを変えてしまったんだ。
「少しの間だけだ、リウィッラ。ゆっくり休んでてくれ。」
「ええ…。」
しかし、既にリウィッラの心の中には、ウィプサニアに対する憎しみが溢れかえっていた。
続く