第七章「狂母」第百二十二話
ここに、クラウディウス叔父様の遺した記録書がある。ちょうど、ご長男のダルサスを亡くした後の記述に、ご自分の姉リウィッラ叔母様の事が書かれている。叔父様は最後までリウィッラ叔母様の味方だった。私も同じ想いだった。けれど、後世のローマ市民感情では、決して許されない罪を犯した『毒婦』として、リウィッラ叔母様は語り継がれている。それは、英雄ゲルマニクスお父様の後を引き継いだ、ご自分の夫であるドルスッス様を毒殺されたから。
毒婦というあだ名でいえば、今の私も同じ。自分の息子を帝位させる為に、様々な人間を毒殺してきたとローマ市民から噂されている。私の真相は後に語るとして、今は、身近で毒婦と呼ばれてしまったリウィッラ叔母様の起因を、クラウディウス叔父様が残された記録書と、私が見てきた事実を元に書いてみようと思う。
もちろん、クラウディウス叔父様は、なぜリウィッラ叔母様が最も嫌悪していたセイヤヌスと共謀したのか、その真相は理解されてはいない。だが、私は知っている。そして、リウィッラ叔母様の名誉の為にも、自分の夫を毒殺したという意識が始めは無かった事を、ここで改めて伝えたい。リウィッラ叔母様は私と違って心優しく、そして本当はとっても寂しがりやなのだから…。
クラウディウス叔父様の記録書から。
この私、クラウディウスは、姉クラウディア・リウィッラ・ユリアの功罪について、何故自分の夫であるドルスッス様の毒殺に至ったのか、その起因に触れたいと思う。リウィッラ姉さんと私の共通の母アントニアは、非常にざっくばらんな言動でありながらも、考えは実に古風で、結局一度も再婚をせずに自分の貞操を守り通した。そのような母親からしてみれば、二度の結婚の上に、セイヤヌスとの不貞を重ね、実の夫であるドルスッス様を毒殺したリウィッラ姉さんは、家族とあっても許され無かったのだろう。姉は最後まで身の潔白を母に訴えたが、母は姉に死刑を求めた。ひょっとしたら、母アントニアは親よりも女性である事を最優先にしたのかもしれない。いや、ひょっとしたら、親として家族の恥を自らの手で葬り去ったのかもしれない。その真相は母親アントニアにしか分からない。
初めて姉さんとセイヤヌスが親密な関係になったのは、我が息子ダルサスを喪った一週間後の事だったらしい。思い出せば、勢力を伸ばしつつあったセイヤヌスの長女ジュリアを、我が息子ダルサスの婚約者に勧めてきたのは姉のリウィッラだった。もちろんジュリアの存在はセイヤヌスの存在を抜きに考えれば、非常に心地の良い時間が流れていたと言っても過言ではない。そして、この頃の姉は情緒が不安定で、事あるごとに母アントニアとは口論になっていた。また、夫であるドルスッス様のお母様が死去された事により、兄ゲルマニクスの未亡人であるウィプサニアが、ドルスッス様を変に気遣う様になったのも、あの姉を孤独に追い込んだ原因かもしれない。しかし、それだからといって、私はあの姉が短絡的に自分の実の夫の毒殺をするとは、到底思えないのである。歴史研究家として、思い込みは危険。そしてあらゆる仮定を立てた上で、感情に流されず考察する事は大切な事であろう。ここに、姉が最後まで自分の無罪を主張した理由を示す証拠がある。それを元に、一体何が起きたのか?筆を進めてみよう。
我が息子ダルサスとジュリアが婚約した事で、セイヤヌスは我々の家族と親密な関係を築けると睨んでいた。しかし、ダルサスの悲劇により、物事はセイヤヌスの望む方向とはずれて行った。ドルスッス様が不在の時を見計らって、セイヤヌスは姉のリウィッラの元へ怒鳴り込んできたという。
「一体どういう事なんだ?!」
「…。」
「お前達ユリウス家は、あああん?!この、この!私を侮辱しているのか?!?!!」
しかしリウィッラは葡萄酒を飲みながら、冷静に対処している。
「仕方ないでしょ?事故だったのだから。」
「し、仕方ない?!そんなことでは済まされんぞ!お陰であのジュリアは、もう誰とも結婚などしたくないと言い出してる!」
「当然でしょ?婚約者のダルサスが亡くなったのだから。」
セイヤヌスは恐ろしい勢いでリウィッラの首元を締め上げた。
「ウッグググ…。」
「貴様!エトルリア人を見下しているのか?!」
「や、やめて!苦しい!」
「そんなに?!エトルリア人がローマを狂わせた事が憎いのか?!」
激情に駆られたセイヤヌスは、リウィッラの口元から垂れたよだれに気が付き、失っていた我を取り戻した。首元を締め上げられていたリウィッラは、苦しそうに咳き込んでいる。
「は!私は…なんて事を…。」
「ゴホ!ゴホッ!」
「リウィッラ…。」
「帰って…。」
「何?」
「旦那の…ドルスッスが…言っていた事は、本当だったわ…。あなたは…自分の事しか考えられない…畜生以下よ!冥界の神プルートーに呪われるがいいわ!帰って!!!」
自分の本性に驚きを隠せないセイヤヌス。目の前で自分を罵倒するこの女を、何故今まで恐れて首を締めなかったのか。カエサルの血を引くというだけで、恐れていたのかもしれない。だが、所詮人間だ。神ではない。
「このまま私が帰れば、リウィッラ…お前はその口を生涯噤んでくれる保証は何処にも無い、そうだろう?」
「当然じゃない!あなたを告訴するわ!」
「ならば、貴様の言う通り、冥界の神プルートーに呪われよう…。賽は投げられた。」
「?!」
「冥神プルートーは何故、処女神ケレースを略奪して冥府へ連れて行ったのか知っているか?それは主神ユピテル様から、こう助言されたからだ。」
セイヤヌスは不敵な笑いでリウィッラを見下ろしながら、いやらしく舌を動き回し、そして両指をまるでトカゲの足のように動かして、肉欲を露わにしながら近づいていく。
「『女は強引な男に惚れる』っとな…。」
「いや!!」
部屋中にありとあらゆる物たちが叩きつけられ、リウィッラのセイヤヌスを拒む声が、粉々に砕け散る音と共に広がる。だがついに、彼女のストラを引き裂く音が空を切ると、口を抑えられて悶え続ける叫びが何度もこだました。救いを求めるその悲痛の声は、何度も肉欲の奴隷になった男の勇ましい鼻息で掻き消されていく。そして、セイヤヌスが果てた後も、雑草の様にリウィッラは小さく体を丸め、小さな声で泣いていた。
続く