第三章「母」第十二話
ユリア・ウィプサニア・アグリッピナ
私の母。
幼い頃は私と同じようにお転婆で、後先の事も考えないような勝気で、しかもかなりのワガママな女の子だったらしい。しかしお父様との劇的な恋愛結婚が、彼女のこれまでの価値観を覆すキッカケとなった。
とてもお父様に忠実な方。どんなときでも男性を引き立てる心得を常に持ち、男性を引き立てられない女性はローマ人にあらず、と考えるほど変わった。また教育と躾には人一倍厳しく、そして何よりもその有り余る子煩悩さが、時折心配性な母親のイメージを醸し出してもいたらしい。けれど決して常識を逸脱したり、野心や妬みの炎に自ら焦がすような女性ではなかった。少なくとも、お父様のゲルマニクスが亡くなるまでは…。
「クラウディウス、よく来たな。」
「いえいえ、今日はゲルマニクス兄さんのシリアへの旅立ちの日…。ご挨拶せねばと思い、こうやって足を運びました。」
「ありがとう…弟よ。リウィッラ、今日はわざわざありがとうな。」
「ゲルマニクスお兄様。お元気そうで、何よりです。あら?ガイウスちゃん?まぁ!可愛い胴鎧のロリカ!軍靴のカリガはどうしたの?」
「タッハハ、ちょっとな。」
カリグラお兄様ったら、まだお父様の中で甘えて親指を舐めてる。もう!リウィッラ叔母様がいらしてるのに恥ずかしい…。
「あらーー!ユリアちゃん?大きくなって、更に可愛くなって!」
「リウィッラ叔母様、お久しぶりでございます。」
「お久しぶりね。」
そう言ってくださると、やっぱりドルスッス様と同じように私の目線に合わせてしゃがんでくださり、頭を撫でながら話しかけて下さった。
「あら?御守りのブルラ?」
「はい。お母様から頂きました。」
「うちのユリアはお転婆で男勝りでしょ?木登りばっかりするから、念の為に持たせてるのよ。」
「フフフ、やっぱり!ウィプサニア姉さんが考えそうな事だわ。」
「まぁ?フフフ、どういう意味よ、リウィッラ。」
「ゲルマニクス兄さんからも、うちの旦那からも、姉さんは人一倍心配性だって…。」
「まぁ!お二人とも。男性なのに、おしゃべりなんだから…。」
「悪い悪いウィプサニアちゃん。」
するとスタイルの良いリウィッラ叔母様は立ち上がって、お母様にご自分の外衣であるパルラを見せつけるように少しだけ靡かせる。
「あら?リウィッラ。貴女、また新し外衣のパルラを買ってもらったの?」
「ええ…。うちの旦那が、自分へのご褒美をしなさいって。」
「とってもいい生地ね?」
「でしょう?コス島の物をわざわざ取り寄せたの!」
「ええ!あのコス島の!?貴女って本当に贅沢ね。」
「そう言われると思って、お姉様の分も買ってきたの。」
「まぁ!私の分も!?」
「今日は、ゲルマニクスお兄様と、ご一緒に旅立ちの日でしょ?ですから。」
「まぁリウィッラったら…。ありがとう。」
「本当は素敵なストラを見つけたんですけど、きっとお姉様はお腹が大きくなってるとでしょうから、パルラの方が良いかと思いまして。」
「貴女って本当に優しいのね。お気遣い…ありがとう。」
その後は、私は妹のドルシッラをあやしながら、お母様と叔母様のお話にジッと耳を傾けていた。やっぱりお二人のお話は、女性の美容や洋服のお話に尽きている。いくらお転婆な私でも興味が無いわけではない。
「ええ?ミョウバンって、結構髪を傷めるの?!」
「ええ…。特にお姉さんの髪は、緩やかなウェーブがかかってらっしゃるでしょ?酢と混ぜて使うのは、頭皮も傷めるから、気をつけないと。やっぱりブナの木を灰にして、ハトのあれとまぶした方がいいみたい。」
「やっぱり…。お隣の方もそう仰ってたの。でも、最近はハトのあれがなかなか手に入りにくいじゃない。」
ハトの"あれ"とは、"糞"の事。
私が若い頃は、まだまだ髪の毛を脱色する為にハトの"あれ"を使うのが効果的と思われていたっけ。
「今日は、姉さんの為に美容クリームも持ってきたのよ。」
「ええ?!どうして?」
「もう!お姉さんは本当に気をつけないと。レスヴォス島は、夏になると日ざしが強くなって乾燥しやすいのよ。お肌を守るには、モリンガの樹脂が入ったコレが一番!」
「モリンガって、スーダンやエジプトでしか取れないじゃない。」
「そうよ、舶来品なんだから。ちゃんとロバの乳で洗った後に、顔に染み込ませるように、大切に使ってね。」
本当にリウィッラ叔母様は、お化粧や美容に関してとっても贅沢にされてるお方。でも、それはドルスッス様とご結婚前に若くして以前の旦那様を亡くされていたので、せめて、心の癒しになるようドルスッス様が配慮されている優しさでもあった。
「ところで、お姉さんはお腹の子供、名前は決めてあるの?」
「いいえ…。男の子だったら、きっとあの人が決めるでしょうから。」
「あら、まだ男の子とは決まってないのだから、お姉さんも色々と考えてみたら?」
「そうね…。」
「ひょっとしたら、女の子かもしれないし。」
お母様は優しくお腹をさすって、優しい眼差しで見つめていた。
「もし女の子だったら…。リウィッラ、貴女の名前にするわ。」
「ええ?!私の名前を?」
「ええ、ユリウス家を表すユリアに、貴女のリウィッラで…ユリア・リウィッラにするわ。」
「フフフ、きっと綺麗な子が産まれるわ。」
「貴女みたいに、化粧に贅沢な?フフフ。」
お二人の上品な笑い声は、のどかな午前中の陽射しに輝きと安らぎをもたらせてくれる。私もいつか、このお二人のように素敵な淑女になりたい…。幼いながらそう願っていた。
続く