第七章「狂母」第百三話
「ドルスッス様!」
「おめでとうございます、ドルスッス様!」
父ゲルマニクスの葬儀によって、長い間延期されていた、ドルスッス叔父様のイリリクムでの偉業に対する、略式凱旋式がようやく挙行された。
「本当に凛々しいお姿であられて…。」
「ゲルマニクス様亡き後は、やはりドルスッス様が次期皇帝継承となりうるお方です。」
「以前の陽気さもだいぶ取り戻されたご様子かしら?」
「いいや、幾分引き締まって、力強くなられたな。」
人々は、久しぶりに訪れたローマの華やかさに、心を和ませていた。略式とはいっても凱旋式なのだから。この場にお父様がいたら、きっとご自分の事のように喜んだかもしれない。はしゃいで、クッルスやセリウス、ドルスッス様と一緒に明け方迄、インスラにある食堂のタヴェルナで飲み明かしたのかもしれない。でも、お父様はもういない。
「ユリア、ドルスッス様、本当にかっこいいな。」
「ええ、ガイウスお兄様。」
「僕もいつか凱旋式をやるぞ!もっと華やかに、そして豪華に!その時はユリア、お前とドルシッラとリウィッラの妹達も一緒だ。」
「本当に?!私達もガイウスお兄様の後に?!」
「ああ、僕が二輪の戦車に乗ってアポロ様になり、お前達は籠にいるんだ。きっとみんなローマ中が大騒ぎさ!」
「うわ!楽しそう!」
カリグラ兄さんとは、いつも口喧嘩ばかりだけど、こういった派手で豪華絢爛な所が好きなのは共通していたかもしれない。事実、ギリシャ文化や神話の殆どは、カリグラ兄さんから丹念に教えてもらっていた。もちろん彼の演劇台詞付きで。
「アキレウスにヘクトルを討ち取られたトロイアは士気消失していた。そこへ颯爽と、十二名の最強のアマゾネス女戦士軍団が現れた!彼女達を率いているリーダの女王は…。」
「ペンテシレイア!」
「そう!あったり~!ユーピテル様とユーノー様の間に生まれた軍神マールス様の子供さ!彼女は贖罪の為にトロイアへ加勢しにきたんだ。」
「食材?って食べ物が欲しかったから?」
「馬鹿!違うよ、贖罪。罪滅ぼしだよ。」
「罪滅ぼし?なんで?」
カリグラ兄さんは得意げになって、吟遊詩人のように両手を広げ、たいそう大げさな言い回しでトロイア戦争を謳いだした。
「"その昔、ペンテシレイア若かりし頃、彼女は己の妹を誤って弓矢で殺してしまった。その罪の意識に苛まれ、彼女は己の罪を清めるため、トロイア王プリアモスへ会いに行く。彼女はプリアモス王から自らの罪を清めてもらい、トロイアが滅亡の危機に瀕している今こそ、その時の恩に報いるべく立ちあがったのであった~。"」
カリグラ兄さんは木の枝を剣に見立てて、ぶんぶん振り回しながら派手に動き回っている。私は長い木の枝を持たされ、槍を振り回すように立ちまわれと命令された。
「ガイウス兄さん、なんでアマゾネスって言うの?」
私は長い木の枝をぶん!と振り回すと、お兄様はうまく立ち回って剣で交わす。
「色々な説があるけど、ギリシャ語で『胸がひとつしかない』という意味の「a-mazos」から派生したらしい。アマゾネス達は弓を引くときに大きな胸があると邪魔だから、幼い頃から片胸を切り落としてるんだってさ。」
「ひえーーー。」
けれど、トロイア戦争のアキレウスとペンテシレイアごっこはいつも私が負けなくてはいけなくてつまらなかった。その代わりにパリスとアキレウスごっこでは、私がカリグラ兄さんを弓矢で倒すので楽しかった事は覚えてる。この時はカリグラ兄さんも踵を抑えながら、英雄の死を讃えるように地面へ倒れて行く。私は迫真の演技を見せてくれるカリグラ兄さんに大きな拍手喝采をいつも浴びせた。だが、喜びもつかの間だった。
「おい!ガイウス、ユリア!今すぐドムスへ戻るんだ!」
「ど、どうしたの?ネロお兄様?!」
「ドルスッス叔父様のお母様が…!」
ドルスッス叔父様の実のお母様が、略式凱旋式のわずか三日後、この世を去られてしまった。とても安らかな最後であったとの事。後にティベリウス皇帝陛下が最も愛していた女性と語っていた。しかし、初代皇帝アウグストゥス様に世継ぎ問題で無理やり離縁させられた経緯がある。葬儀には、私達家族、祖母のアントニア様、ドルスッス叔父様はもちろんの事、奥様のリウィッラ叔母様、その娘で高慢ちきのリヴィラ。やはり大母后リウィア様とティベリウス皇帝陛下は不参加。
「アントニア様、父はやはり来てくれませんね…。」
「私も大母后様から頼んでみたのですけど、公務がお忙しいらしく…。」
「やはり…。」
「お力になれなくて、ごめんなさいね。」
「いいえ。ただ、時々父には流れるべく赤い血があるのだろうか、と考えてしまう事があります。ロードス島へ引きこもって、帰って来た時も素っ気ない態度。ゲルマニクスの国葬も辞退。裁判は冷徹に静観。昔の父は何処へ行ってしまったのでしょうか?」
ドルスッス叔父様の嘆きは、今のお母様に対する私の気持ちと同じ。お父様が死去し、それ以来すっかり変わってしまった。いいえ、表面上はお母様なのだけど、内面的な何かが違う。
「きっと、皇帝陛下にはご自分のお考えがあるのでしょうね。私達には計り知れない何かが。」
「そうなのでしょうか…。」
ドルスッス叔父様は本当に私達の父親代わりをしてくれていた。親身にお母様の心を気遣い、時には援助もしていてくれた。
「ドルスッス様…。」
「ウィプサニア!」
お母様はドルスッス様をまるで聖母のように抱擁し、心を痛めているドルスッス様の為に涙を流している。アントニア様は微笑みを残したまま、少し顔を背けながらその場を後にした。幼い私にはその意図が見えなかったが、どうやら未亡人である母ウィプサニアに対してやり過ぎという思いが芽生えていたらしい。事実、この後にあるいざこざが起きるのだが…。
「どうかお気を鎮めください、ドルスッス様。」
「僕は、大丈夫だよ、ありがとう。」
「いいえ、どうかご自分に無理をなさらないでくださいという意味です。」
「自分に…無理?」
「ええ。わたくしごとながら、幼い頃から身内の死を体験してきた者として、心にその悲しみを閉じ込めておく方々のお気持ちは痛いほど分かるつもりです。しかし、それこそが危険な行為でございます。イデアを見つめるように、ご自分の感情を解き放ってください。せめて、ドルスッス様のお母様と私は、同姓同名なのだから…。」
「ウィプサニア…。」
ひょっとしたら、ドルスッス叔父様は母ウィプサニアの大らかな憐れむような微笑みに、ご自分の母親の母性や面影を見つけてしまったのかもしれない。クラウディウス叔父様も、母ウィプサニアとドルスッス叔父様のお母様は、名前だけでなく顔も雰囲気もとても似ていたと語っていた。
「母さん…。」
「ドルスッス…。」
「うっぐううう。」
「もう大丈夫よ、ドルスッス。」
ドルスッス叔父様は物陰に隠れ、母ウィプサニアに抱かれながら涙を流している。
「あ、あなた?!」
「え?」
「ウィプ…サニア?!うちの旦那に何してるのよ?!」
運命は常に皮肉が付きまとう。リウィッラ叔母様が偶然通りかかり、母とドルスッス叔父様が抱擁している姿を見つけてしまったのだった。
続く