第七章「狂母」第百二話
お母様は毎日毎朝毎晩、食事時になると、同じ話の繰り返しをしていた。
「もうそろそろ、ネロの成人式ね。」
「はい、お母様。」
「お前は本当に逞しくなって。きっと死に追いやられたお父さんも喜んでる事でしょう…。」
「は…い。」
「お父さんの名に恥ぬ、立派な男性になるのですよ。」
「はい、お母様。」
そうやってネロお兄様へ優しく微笑むと、今度は厳しく険しい表情で私達を躾ける。
「いいですか、お前達。これからのユリウス家に甘えは禁物です。あれ程ローマ国家へ人生の全てを費やしたと言っても過言ではない、貴方達の誇るべきお父様が、聞くも無残な話で裏切られ、死に追いやられ、果ては平民以下の扱いで葬儀をされたのです。」
これが教育と言えるものだったのか、それはお母様にしかわからない事。だが、一番幼い妹リウィッラも含め、お母様がお話ししている時は、一切の遮断も戯れも失言も許されなかった。もしもお話の腰を折るような事があれば、容赦無く頬を叩かれる。
「本質を見極めなさい。そして、決して惑わされては駄目です。信じられる事は、今は貴方達の目の前にいる、お前達の母親でしかありません。生きる為に、生き抜く為に、用心して、そして代々受け継がれている高貴な血脈を、大切にするのです。」
アントニア様がお戻りになられてから、私達はいつしか別の部屋で食事を取るようになった。その理由にはお母様の毎度の躾ける言動が原因。アントニア様は実の息子を失った痛手から徐々に回復され、裁判の結果には納得のいくものだったが、お母様のお話で神経をすり減らすのには勘弁とでも言いたげ。お母様とアントニア様では、身内の死の捉え方が違うのかもしれない。
「アントニア様?」
「なに?アグリッピナ。」
「あの…その…。」
「どうしたの?」
「大母后様は…お元気でしょうか?」
「ええ、相変わらずよ。」
私はどうしてもリウィア大母后様に会いたかったが、お母様の厳しい監視下の中では到底大母后様へ会いに行く事など不可能。話すらあからさまな嫌悪感と咳払いをしてくる。
「ウィプサニア?ウィプサニア?」
「はい、アントニアお義母さん。」
「貴方にお客様よ。」
「あ、ありがとうございます。」
一体、お母様は何をされているのかしら?あの裁判以来から更に貴族達の奥方らが、お母様の元へわざわざ挨拶しにくるようになった。
「ウィプサニア様、この度はお招きありがとうございます。」
「いえいえ、どうぞごゆるりと。」
「ウィプサニア様!お子さん達は元気?」
「ええ、とても元気よ。」
「私達も連れてきたからね!」
昼から夜にかけて、お母様達はずっと女性同士で座談会のようなものをしていた。私達子供は、彼女達の連れてくる子供達と遊ぶ事しばしば。大体が、一歳から五歳までの幼児の組と、六歳以上から十歳までの児童の組、そしてそれ以上を青年の組みに分かれていた。アントニア様も、各属州の王国の王子や王女等を頻繁に預かるようになっていったので、この頃の私達は、それはそれで楽しかった。
「つまりです、うちの旦那も含めて皆さんが仰るように、クラウディウス皇族派には十分気を付けなければなりません。」
「あの方達が今のローマを牛耳っているのは明白な事実ですわ。このままではウィプサニア様のお母様やお姉様のように…。」
「これ!ウィプサニア様の前では過激な発言です事よ。」
お母様はいたって冷静にお聞きになられていた。
「いいえ構いません、皆さんのご承知の通りなのですから。私の母は私の父である軍神アグリッパ亡き後、初代アウグストゥスの命でティベリウスと再婚させられました。しかし、クラウディウス氏族の皇族派の連中は、元首への内乱を謀ったとして姦通罪で断罪したのです。その頃、ロードス島へ逃げ隠れていたティベリウスは、何もすることなく静観しておりました。」
周りの貴族の奥方は、それはそれは非常に辛い表情をされて聞いている。
「私の姉にしてもそうです。12年前、まるで私の母がそうであったからと言わんばかりに、なにも考慮せず、ユニウス・シラヌスと共に初代皇帝へ陰謀を企てたとして姦通罪で訴えたのです。なぜ、元首の娘である私の母が、そしてその娘が、内乱を謀る必要性があるのでしょうか?」
聴き入る奥方達の顔は険しくなり、お母様は彼らから一心の同情を買っていた。
「最も悲惨なのは、兄達ガイウスやルキウス、そして私の可愛い可愛い弟のポストゥムスです。彼らはクラウディウス氏族の皇族派の連中によって、次々と死を迎えさせられました。」
中には顔を背けて涙を流す方もいらっしゃった。
「そして、次は私の愛する夫までも…。彼らローマの魔物達は、どこまで他人の命を奪えば気が済むのでしょうか?!」
すると奥方達は力強くうなづきはじめた。
「いいですか皆さん、これは決して他人事ではないのです。ちょっとした平和の隙間に、彼らは同情する様な素振りで虫の様に身をかがめながら入り込み、気が付くと寄生を始め、跡形も無く食い漁って不幸へ陥れてしまうのです。」
私の母ウィプサニアの根底にある、クラウディウス氏族に対する怨念や恨みは、幼い頃から隣り合わせだった悲劇の繰り返しで培ってきたものなんだと感じた。
「ウィプサニアの言う通りです。私達は断固クラウディウス氏族のみによる圧政を許す訳にはいけませんわ。これは私達の夫達に関わる問題なのですから!」
「そうですわ!」
「冗談ではありません!許してはいけません!」
「しかし、そうなってくるとこれから如何すれば良いのか…。」
「相手がこちらを侵食する前に、私達から侵食すればよいのでは?」
「でもどうやって?」
するとお母様が立ち上がって笑みを浮かべた。
「わが子長男ネロが、もうすぐ成人式を迎えます。先ずは、あの子に元老院の議席を与えるよう働きかけ、相手の出方をみて見ましょう。」
「ウィプサニア!それはいくらなんでも早すぎません事?」
「彼らがそれを拒否すれば、彼らの意図が明確になるでしょうけど、長男ネロが議席獲得を拒否された場合、民衆は黙ってはいないでしょう。」
「確かに…。」
「ならば、尚更ウィプサニアの為にも、私達の夫達に根回しをしてもらいましょう。」
「打倒、クラウディウス氏族による圧政ですわ!」
「ええ!」
最初は、ちょっとした主婦達の単なる集まりだったと記憶している。でも、お母様を動かしている怨念は、徐々に私達家族を蝕み始めてきた。そしてなによりも、そのお母様自身でさえも、この時既に、クラウディウス氏族とは違った別の虫達によって、ご自分の人生が寄生され始めている事に全く気が付いてはいなかったのである。
続く