第二章「父」第十話
「では、ドルスッス様。私は、この辺で…。」
「うむ、父上には宜しく頼むぞ、ピソ師匠。」
「承知いたしました。」
深々と頭を下げて立ち去ろうとするピソだが、何かを思い出したように立ち止まり、お父様へ一つの提案をする。
「ゲルマニクス。レスヴォス島へ着いてからは、シリア属州の習俗など分かりにくい事もあろう。互いに戦いを共にする身として、正餐を一席もうけるのはいかがかな?」
お父様は少しだけ沈黙されて答えなかったが、笑顔を絶やさないドルスッス様に促される。
「いいじゃないかゲルマニクス。父上より年上のピソ師匠が、ああやって謙って年下のお前に懇願しているんだ。」
「そうだな…。」
「結構。では、くれぐれも道中は気をつけて…。」
そう言うと、再び何かを企んでるような嫌らしいにやけ面を見せながら退散していく。お父様はジッとピソに頭を下げずにいた。不安を募らせて見つめていたお母様は、ピソがしっかりと立ち去った事を確認した後お父様へすぐさま心配そうに駆け寄った。
「貴方、どうしてピソ様にあんな無礼な態度を?」
「ピソ"様"だと?あいつに"様"などと呼ぶ必要はない!」
「しかし、かりにもあの人は元老院議員でもありますよ?」
「ふっははは!全くだゲルマニクス。お前のカミさんであるウィプサニアちゃんの言う通りだ。馬鹿の一つ覚えみたいにご老体を睨むんじゃないっつーの!」
「フン!ワシは、あやつの…」
「『あやつの打算的なところが、気に食わない。』だろ?」
「そうだ…。」
「どうせ年寄りの老いぼれなんだ。今更、下手な事などできやしないさ。」
「そうか?年寄りほど腹黒い心は掴みにくいと言うじゃないか。」
「確かにお前は正論だよ。ただなゲルマニクス。お前は何をやってもローマでは目立つ男なんだから、くれぐれも自重しないと。」
「ワシがか?」
「ああ!立ちションしても"あの、ゲルマニクスが!"って言われちまう時世なんだぜ。あの剣闘士試合を開催した後、二人でローマの郊外で立ちションした時もそうだったの、忘れたわけではあるまいな?」
ドルスッス様はイタズラっぽい笑顔で同意を求めてる。お母様は驚いて、目を白黒させてる。
「お二人でそんな事をされたんですか?!」
「そうそう。最後までションベンのキレが悪かったのは、こいつ。ゲルマニクスの方だったよ、ウィプサニアちゃん。」
「まあ!はしたない。ドルスッス様?子供達の面前ですことよ。」
「おっと、これは!失礼失礼!あっはっはっは!」
「あっはっはっは!お前の人気は下がる一方だ、ドルスッス。」
ようやくお父様の緊張が解れてきた。私も子供ながら朗らかな気分になってきた。カリグラお兄様はドルスッス様の言葉に反応した。
「えっへへへ~。お父様たちが立ちションだって~。」
「男の連れションって言うんだ、ガイウスくん。」
「がっはっはっは!そうだ、ガイウス。」
「全くもう!ドルスッス様ったら。ガイウスに変な事を教えないでくださいね?この子はすぐ真似するんですから。」
「お母様、ガイウスお兄様でしたら真似しなくても十分なさってますわ。」
「うん?どうしてだい、ユリアちゃん?」
私がそう言うと、ドルスッス様はちゃんとしゃがんで私の目線になって頭を撫でてくれた。
「だってね、ドルスッス叔父様。お兄様はいっつも寝ながらされてますもん。オネショ。」
カリグラお兄様は私の言葉で目と口を大きく見開いて赤面した。ドルスッス様とお父様は顔を見合わせて腹から大きな声で大笑いしている。
「ユリア!いい加減になさい!」
お母様の厳しい叱責の声が響く中、カリグラお兄様は赤面しながら口をアヒルのように尖らせた。と思ったら今度は顔を思いっきりクシャクシャにして、ついにはとうとう泣き出してしまったのだ。
「うわーーーーーん!」
「あっはっはっは!悪い悪いガイウスくん。」
「どれどれ、よしよしガイウス。父さんが抱っこしてあげるぞ。」
お父様はカリグラお兄様を抱っこして、外へ出て行ってしまった。
「ユリア!あんた!お母さんがあれほど言ったのに、まだ分かってないの?!」
「まぁまぁ、ウィプサニアちゃん。怒らないで。」
「いいえ、ドルスッス様。ユリアには今日という今日は、キツくお仕置きをしないとダメなんです。こっちへいらっしゃい!」
私はカリグラお兄様の本当の事を言ったまでなのに…。何でお仕置きされないといけないの?なんだか、私も口をアヒルのように尖らせて、だんだん泣き出してしまった。
「うわーーーーーん!」
「泣いたってダメですからね!こっちへいらっしゃい!」
「お母様ーーー!私は、わーーん!本当の事を言っただけなんですーーー!」
「いいからいらっしゃい!」
そう言うと右手を引っ張られて、あの『お仕置き』台所の隅に連れてかれた。お母様はトゥニカのスカート思いっきり捲り上げて、私のお尻に思いっきり十回赤い手形がつくほど叩かれた。ローマ市内に響くんではないかってほど強烈な音を響かせて。
「ユリア!分かったわね?!」
「グスン…。はい…。お母様。」
「全くもう!」
お母様は、置いておいたブドウや果物を再び持って、外へ出て行ってしまった。
「やれやれ。痛かった?ユリアちゃん。」
「グスン…。はい。」
ドルスッス様は笑顔でニコニコしている。でも、私はドルスッス様に私のお尻にお仕置きをされてる姿を見られた事の方が、もっと泣きたいくらい恥ずかしかった。だって、お父様の次に大好きな方だったから。
続く
【ユリウス家】
<ユリア・アグリッピナ(15年-59年)>
主人公。後の暴君皇帝ネロの母。
<ゲルマニクス(紀元前15年-19年)年の差+30歳年上>
アグリッピナの父
<ウィプサニア(紀元前14年-33年)年の差+29歳年上>
アグリッピナの母
<長男ネロ(6年-31年)年の差+9歳年上>
アグリッピナから見て、一番上の兄
<次男ドルスス(7年-33年)年の差+8歳年上>
アグリッピナから見て、二番目の兄
<三男ガイウス=カリグラ(12年-41年)年の差+3歳年上>
アグリッピナから見て、三番目の兄
<次女ドルシッラ(16年-38年)年の差-1歳年下>
アグリッピナから見て、一番目の妹
<三女リウィッラ(18年-42年)年の差-3歳年下>
アグリッピナから見て、二番目の妹
【アントニウス家系 父方】
<アントニア(紀元前36年-37年)年の差+51歳年上>
アグリッピナから見て、父方の祖母
<リウィッラ・ユリア(紀元前13年-31年)年の差+28歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔母
<クラウディウス(紀元前10年-54年)年の差+25歳年上>
アグリッピナから見て、父方の叔父
【アントニウス家系の解放奴隷、使用人および奴隷】
<ナルキッスス(1年-54年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<パッラス(1年-63年)年の差+14歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<フェリックス(12年-62年)年の差+3歳年上>
父方の祖母アントニア及びクラウディウスの解放奴隷
<アクィリア(17年-19年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<シッラ(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<リッラ(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<クッルス(紀元前15年-59年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セリウス(紀元前15年-60年)年の差+30歳年上>
父ゲルマニクスの親友
<セルテス(紀元前12年-63年)年の差+27歳年上>
父方の祖母アントニアの解放奴隷
<ぺロ(17年-30年)年の差-2歳年下>
父方の祖母アントニアの飼い犬
【クラウディウス氏族】
<リウィア大母后(紀元前58年-29年)年の差+73歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の母親。初代皇帝アウグストゥスの後妻
<ティベリウス皇帝(紀元前42年-37年)年の差+57歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟。初代皇帝アウグストゥスの養子、リウィア大母后の長男
<ドルスッス(紀元前14年-23年)年の差+29歳年上>
アグリッピナから見て、父方祖父の兄弟の息子。二代目皇帝ティベリウスの長男
【ティベリウス皇帝 関係】
<セイヤヌス(紀元前20年–31年)年の差+35歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの右腕。親衛隊長官
<ピソ(紀元前44年-20年)年の差+59歳年上>
二代目皇帝ティベリウスの親友。シリア属州の総督。