第9話:二日酔いと、消えた「やる気」
午前九時二分。
佐藤は、いつも通りの涼しい顔でデスクに座っていた。だが、その瞳の奥には、昨夜飲み干した大ジョッキ三杯分の重みが、うっすらと居座っている。
(……ちょっと、レバーを食べ過ぎたわね。胃が「昨日のはなしにしてください」って訴えてきてるわ)
そんな佐藤の体調など知る由もなく、隣の席では加藤が、ブンブンと尻尾を振る犬のような勢いで話しかけてきた。
「佐藤さん! おはようございます! 昨夜は本当にありがとうございました。あの後、部長、本当に『シュン……』として帰っていったんですよ。あんなに素直な部長、初めて見ました」
「そう。それは良かったわね。で、肝心のシュレッダーの方はどうなったの? まさか、私の給与明細まで粉々になってないでしょうね」
「大丈夫です。部長が捨てたのは、去年の社内アンケートの束と、誰が書いたかわからない『やる気の出る標語』のメモだけでした。……でも、今朝の部長、なんだか様子が変なんですよ」
加藤が視線で示した先には、自席で置物のように固まっている田中部長の姿があった。
昨夜の「効率化の鬼」としての熱狂はどこへやら、今の彼は、まるで電源の抜けた家電製品のように静かだった。
佐藤はため息をつき、重い腰を上げて部長のデスクへと向かった。
「部長。おはようございます。随分と静かですね。シュレッダーの刃が、やる気まで吸い込んじゃいましたか?」
田中部長はゆっくりと顔を上げた。その目は、昨夜の興奮が嘘のように冷め切っている。
「……ああ、佐藤くん。おはよう。……いや、昨夜はすまなかったね。家に帰ってから、カミさんに言われたよ。『そんな夜中にガサガサやって、何が仕事よ。ただの迷惑でしょ』って。……その通りだと思ったよ」
「奥様、賢明ですね。今度、美味しいお酒でも贈っておいてください」
「それでね、佐藤くん。私なりに考えたんだ。君が言う通り、私が『機嫌よく寝ている』ことが現場のためなら、私はもう、余計な指示を出さない方がいいんじゃないかって。……これから私は、ただの『置物』に徹しようと思うんだが、どうだろう」
極端から極端へ。これこそが、真面目すぎるおじさんの抱える最大のバグだった。
「部長、極端すぎます。置物になっていいのは、玄関の招き猫だけです。部長には、部長にしかできない『責任を取る』っていう、一番面倒で一番大事な仕事があるでしょ。余計なことはしなくていいけど、いざって時にハンコを叩く勇気だけは捨てないでください」
「……ハンコを叩く、勇気」
「そうよ。現場がやりたいようにやって、もし失敗した時に『ああ、私がやらせたんだ』って、顔色一つ変えずに言える。それが、寝ていてもできる最高のマネジメントです。昨夜のシュレッダーより、よっぽど効率的ですよ」
田中部長は、しばらくの間、佐藤の言葉を噛みしめるように黙っていたが、やがて、ふっと憑き物が落ちたような笑顔を見せた。
「……そうか。私は、何かを『やってる感』が欲しかっただけなのかもしれないな。わかったよ、佐藤くん。私は今日から、最高の『ハンコ押し機』になるよ。君たちがのびのび働けるように、どっしり構えて寝たふりをしておくことにする」
「……まあ、寝すぎない程度にお願いしますね」
佐藤はデスクに戻り、ようやく本日一杯目のコーヒーを口にした。
昨夜のアルコールが、少しずつ抜けていくのを感じる。
「佐藤さん、また部長を更生させちゃいましたね。……でも、部長が本当に何もしなくなったら、今度は僕らがダレちゃうんじゃないですか?」
加藤の問いに、佐藤は冷めた視線を向けた。
「加藤くん、甘いわね。上が何もしないっていうのはね、それだけ『自分たちの実力が試される』ってことなの。自由っていうのは、責任という名の重りがないと、ただの空中分解よ。……さて、部長が寝てる間に、サクッとこの仕様書、終わらせるわよ。今夜は、昨日食べ損ねた『ホッケの開き』が私を待ってるんだから」
佐藤の指が、キーボードの上を軽やかに踊り始める。
嵐は去り、凪が来た。だが、その凪を維持するために、彼女は今日も人知れず舵を取り続ける。
二日酔いの頭痛さえも、心地よい「生きてる証」に変えて。
おっさん女子・佐藤の日常は、今日も誰にも邪魔させない。




