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担当新卒がおっさん女子だった件  作者: 五平


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8/9

第8話:休息という名の「緊急事態」

 午後六時四十五分。

 佐藤は、自宅から徒歩三分にある行きつけの赤提灯『のんき』のカウンターにいた。

 目の前には、表面に細かい水滴を纏った、キンキンに冷えた大ジョッキ。そして、食欲をそそる焦げたタレの匂いを振りまく、焼き立てのねぎまとレバー。


「……これよ。これのために、今日一日、仏のような顔して耐えてきたのよ」


 一口、黄金色の液体を喉に流し込む。喉を焼くような炭酸の刺激と、その後に来るホップの苦味。仕事のノイズが、アルコールという名の洗浄液でするりと洗い流されていく。

 佐藤は、おっさん女子としての至福の時を噛みしめていた。


 しかし、その静寂は、カバンの中で震え出したスマートフォンの振動によって、無惨にぶち壊された。


(……無視。絶対に無視。今の私はただの『佐藤』。働いてる方の佐藤は、もうオフィスのシュレッダーにでも放り込んできたはずだわ)


 だが、振動は止まらない。一度、二度、三度。執拗なまでの連打。

 佐藤は大きな溜息をつき、レバーを一気にかじってから、嫌々スマホを取り出した。画面には、案の定『加藤』の二文字が点滅している。


「……もしもし、加藤くん。今、私の幸せがピークを迎えようとしてるんだけど。それを邪魔するってことは、明日、君のデスクがなくなっていても文句は言わないっていう理解でいいのよね?」


『さ、佐藤さん! 脅してる場合じゃないんです! 助けてください!』

 受話器越しの加藤の声は、半泣きの悲鳴だった。


『部長が……部長が、さっき帰ったはずなのに、また会社に戻ってきちゃったんです! しかも、さっきの佐藤さんの言葉に感動しすぎたみたいで、「よし、これからは無駄を省くぞ! 手始めに、いらない資料を今夜中に全部捨ててやる!」って、変なスイッチが入っちゃって……!』


「はぁ?」

 佐藤は思わず、持っていた箸を落としそうになった。

「何よそれ。早く帰れって言ったのは私だけど、なんでそれが『深夜の大掃除』に化けるわけ? あの人の頭、どういう配線になってるのよ」


『わかりませんよ! 「佐藤くんが言った通り、上が動かないと下は変わらない。だから私は、今夜、身をもって鬼になる!」とか言って、もう腕まくりしてシュレッダーの前に陣取ってます。このままだと、明日使う大事な資料まで粉々にされます! 止めてください!』


 佐藤は天を仰いだ。

 良かれと思って放った「さっさと帰れ」というアドバイスが、相手のクソ真面目さと絶妙に混ざり合い、最も面倒な形の「やる気」として跳ね返ってきたのだ。これこそ、計算外の事故。


「……わかった。そこに居なさい。私がなんとかするから」


『えっ、会社に来てくれるんですか!?』


「行くわけないでしょ。今、私の前にはレバー様がいるのよ。……スピーカーにして、部長に代わって」


 数秒のノイズの後、部長の声が聞こえてきた。

『おお、佐藤くんか! 見ていてくれ、私は今、生まれ変わったぞ! この山の不毛な書類を捨て去り、明日にはスッキリした部署にして……』


「部長。ストップ。今すぐそのシュレッダーのコンセントを抜いてください」


『な、なんだね急に。やる気に水を差さないでくれ』


「部長、いいですか。夜中に勢いで書いたメールが翌朝見ると死ぬほど恥ずかしいように、夜中に勢いで捨てた書類は、翌朝、死ぬほど必要になるんです。今の部長は、ただの『深夜テンションで暴れてるおじさん』です」


『……しかし、君が「上が動け」と……』


「『早く帰れ』と言ったんです。部長、いいですか。本当に仕事のこと考えるなら、今すぐスマホを置いて、奥さんの作った飯を食べて、さっさと寝ること。リーダーが『よく寝て、機嫌が良い』。これ以上に現場を助ける秘策なんて、この世にないんです。不機嫌で寝不足のリーダーが夜中に書類を整理してるなんて、部下からすればホラー以外の何物でもないですよ」


 電話の向こうで、沈黙が流れた。

 店内のテレビでは、どうでもいいバラエティ番組が笑い声を上げている。


『……佐藤くん。君は、いつも正しいな』

 部長の声が、ふっと小さくなった。

『確かに、少し舞い上がっていたようだ。……シュレッダーの音で、何かをやってる気になっていただけかもしれん』


「気づけたなら、加藤くんを解放してあげてください。明日、スッキリした顔で『おはよう』って言い合う。それが、部長が明日やるべき最初の仕事です」


『……わかった。今度こそ、帰るよ。加藤くん、すまなかった。……あ、佐藤くん。君も、あまり飲みすぎるなよ』


「それは私の自由です。お疲れ様でした」


 電話を切ると、佐藤は深く、深いため息をついた。

 冷めかけたねぎまを口に放り込む。


「……全く。人を動かすっていうのは、キーボード叩くよりよっぽどバグが出るわね」


 佐藤は再びジョッキを掴んだ。

 せっかくの休息に仕事の話が混ざってしまったが、これもまた、彼女の選んだ生き方の「おまけ」なのかもしれない。


 数分後。加藤から『部長、今度こそ帰りました! ありがとうございます、魔王……じゃなくて女神!』というメッセージが届いたが、佐藤はそれを既読スルーして、店主に「おかわり」を注文した。


 夜はまだ始まったばかり。

 嵐を鎮めた「おっさん女子」の本当の休息が、今、ようやく再開された。


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