表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
担当新卒がおっさん女子だった件  作者: 五平


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/9

第7話:定時という名の「見えない壁」

 繁忙期のピークが過ぎ、プロジェクトも一息ついたはずの火曜日。

 午後六時ジャスト。佐藤は、もはや儀式とも言える滑らかな動作でPCをシャットダウンした。カバンを肩にかけ、デスクの上の消しゴムのカスをさっと払い落とす。


 あとは、この静まり返ったフロアを横切ってエレベーターに乗るだけだ。

 しかし、彼女の視界には、一つの「障害」が入っていた。


「……はぁ」


 隣の席で、加藤がわざとらしいほど大きなため息をついた。

 彼の画面には、すでに仕事とは関係のないニュースサイトが開かれている。ブラウザを閉じる音だけはやたらと威勢がいいが、肝心の腰が椅子から一向に浮き上がらない。


「加藤くん。ため息を吐くと、幸せと一緒に『今日食べるはずの晩飯の鮮度』も逃げていくわよ。さっさと帰りなさい」


「……いや、佐藤さん。帰れるわけないじゃないですか。見てくださいよ、あの光景」


 加藤が視線で示した先には、田中部長がいた。

 部長は、自分のデスクで腕を組み、険しい顔で一点を見つめている。だが、その手元に資料はない。ただ「そこに居る」という重圧だけを、フロア全体に撒き散らしていた。


 周囲の社員たちも、それに当てられたかのように、終わったはずの資料を読み返したり、無意味にフォルダを整理したりして、「まだ忙しいフリ」をしている。これが、繁忙期が終わった直後のオフィスに発生する、最も不毛な「付き合い残業」という名の構造的欠陥だった。


「部長が帰らないから、みんな帰れない。この空気、佐藤さんだって感じてるでしょ? 今ここで席を立ったら、『あいつは喉元過ぎれば熱さを忘れる薄情な奴だ』って思われる……そんな無言の圧力が充満してるんですよ」


「……バカバカしい」

 佐藤は、呆れたように鼻を鳴らした。


「加藤くん。いい? 私たちが売っているのは『労働力と成果』であって、『部長と一緒に居る時間』じゃないの。そんな空気の読み合いをして、誰が得をするっていうのよ。会社の電気代が無駄になるだけだわ」


「理屈はそうですけど! でも、日本社会の、こう、奥ゆかしさっていうか……」


「それは奥ゆかしさじゃない。ただの『同調圧力という名の思考停止』よ。いい、私が手本を見せてあげるから、よく見ておきなさい」


 佐藤は、カバンを握り直し、堂々たる歩調で田中部長のデスクへと向かった。

 加藤が「あ、死ににいく!」と言わんばかりの顔で固まる。


「部長、お疲れ様です」


 佐藤の涼やかな声が、澱んだフロアに響く。

 田中部長はゆっくりと顔を上げた。その目は、どこか手持ち無沙汰な寂しさを湛えていた。


「おお、佐藤くんか。……どうした、何か問題でも起きたか?」


「いえ、問題はありません。むしろ、問題がないことが確認できたので、私は今から帰ります。部長、まだ何か『物理的に私の手助けが必要な、緊急のタスク』は残っていますか?」


「……いや、特にはないが。まあ、みんなまだ頑張っているようだし……」


「それなら、部長も早く帰られた方がいいですよ。部長がそこに居座っているせいで、加藤くんが『帰りたいけど帰れない、せっかく買ったスーパーの刺身が傷んでしまう』って、泣きそうな顔でモニターを睨んでますから」


「えっ!?」

 加藤が椅子から転げ落ちそうになる。


 佐藤は構わず続けた。

「上が残っていることが、下の効率を下げている。それはマネジメント上の失策ですよ。部長がさっさと帰って、ビールの一杯でも飲んでくれないと、このフロアの空気は一生入れ替わりません」


 田中部長は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後、ふっと肩の力を抜いた。


「……はは、そうか。私が居るのが邪魔だったか。いや、すまない。何というか、繁忙期の癖で、つい会社にいないと落ち着かなくなっていてね。……よし、わかった。帰るよ、私も。今夜は家でゆっくり、カミさんの作った飯でも食うことにするよ」


 部長が立ち上がり、上着を手に取ると、フロア全体に目に見えない「許可」が下りた。

 あちこちで、堰を切ったようにシャットダウンの音が響き始める。


「佐藤さん……! あなた、魔王か何かですか? あの部長を言葉だけで動かすなんて」

 駆け寄ってきた加藤に、佐藤は平然と言い放った。


「魔王じゃないわよ。ただの『晩酌を愛する一市民』よ。いい? 加藤くん。空気を読む力は、空気を壊すために使いなさい。誰かが勇気を持って扉を開けない限り、誰も出口を見つけられないんだから」


 佐藤はエレベーターのボタンを押した。

 フロアに残された「不毛な気遣い」を、閉まるドアの向こうに放り投げて。


「さて。今夜は、部長に勧めたビールを、私自身が真っ先に実行させてもらうわ。……あ、加藤くん。刺身、まだ間に合うわよ」


 夕闇の街に踏み出した佐藤の背中は、どんな時よりも軽やかだった。

 彼女にとって、定時とは守るべき境界線であり、それを超えようとする「空気」こそが、排除すべき最大のバグなのだから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ