第7話:定時という名の「見えない壁」
繁忙期のピークが過ぎ、プロジェクトも一息ついたはずの火曜日。
午後六時ジャスト。佐藤は、もはや儀式とも言える滑らかな動作でPCをシャットダウンした。カバンを肩にかけ、デスクの上の消しゴムのカスをさっと払い落とす。
あとは、この静まり返ったフロアを横切ってエレベーターに乗るだけだ。
しかし、彼女の視界には、一つの「障害」が入っていた。
「……はぁ」
隣の席で、加藤がわざとらしいほど大きなため息をついた。
彼の画面には、すでに仕事とは関係のないニュースサイトが開かれている。ブラウザを閉じる音だけはやたらと威勢がいいが、肝心の腰が椅子から一向に浮き上がらない。
「加藤くん。ため息を吐くと、幸せと一緒に『今日食べるはずの晩飯の鮮度』も逃げていくわよ。さっさと帰りなさい」
「……いや、佐藤さん。帰れるわけないじゃないですか。見てくださいよ、あの光景」
加藤が視線で示した先には、田中部長がいた。
部長は、自分のデスクで腕を組み、険しい顔で一点を見つめている。だが、その手元に資料はない。ただ「そこに居る」という重圧だけを、フロア全体に撒き散らしていた。
周囲の社員たちも、それに当てられたかのように、終わったはずの資料を読み返したり、無意味にフォルダを整理したりして、「まだ忙しいフリ」をしている。これが、繁忙期が終わった直後のオフィスに発生する、最も不毛な「付き合い残業」という名の構造的欠陥だった。
「部長が帰らないから、みんな帰れない。この空気、佐藤さんだって感じてるでしょ? 今ここで席を立ったら、『あいつは喉元過ぎれば熱さを忘れる薄情な奴だ』って思われる……そんな無言の圧力が充満してるんですよ」
「……バカバカしい」
佐藤は、呆れたように鼻を鳴らした。
「加藤くん。いい? 私たちが売っているのは『労働力と成果』であって、『部長と一緒に居る時間』じゃないの。そんな空気の読み合いをして、誰が得をするっていうのよ。会社の電気代が無駄になるだけだわ」
「理屈はそうですけど! でも、日本社会の、こう、奥ゆかしさっていうか……」
「それは奥ゆかしさじゃない。ただの『同調圧力という名の思考停止』よ。いい、私が手本を見せてあげるから、よく見ておきなさい」
佐藤は、カバンを握り直し、堂々たる歩調で田中部長のデスクへと向かった。
加藤が「あ、死ににいく!」と言わんばかりの顔で固まる。
「部長、お疲れ様です」
佐藤の涼やかな声が、澱んだフロアに響く。
田中部長はゆっくりと顔を上げた。その目は、どこか手持ち無沙汰な寂しさを湛えていた。
「おお、佐藤くんか。……どうした、何か問題でも起きたか?」
「いえ、問題はありません。むしろ、問題がないことが確認できたので、私は今から帰ります。部長、まだ何か『物理的に私の手助けが必要な、緊急のタスク』は残っていますか?」
「……いや、特にはないが。まあ、みんなまだ頑張っているようだし……」
「それなら、部長も早く帰られた方がいいですよ。部長がそこに居座っているせいで、加藤くんが『帰りたいけど帰れない、せっかく買ったスーパーの刺身が傷んでしまう』って、泣きそうな顔でモニターを睨んでますから」
「えっ!?」
加藤が椅子から転げ落ちそうになる。
佐藤は構わず続けた。
「上が残っていることが、下の効率を下げている。それはマネジメント上の失策ですよ。部長がさっさと帰って、ビールの一杯でも飲んでくれないと、このフロアの空気は一生入れ替わりません」
田中部長は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後、ふっと肩の力を抜いた。
「……はは、そうか。私が居るのが邪魔だったか。いや、すまない。何というか、繁忙期の癖で、つい会社にいないと落ち着かなくなっていてね。……よし、わかった。帰るよ、私も。今夜は家でゆっくり、カミさんの作った飯でも食うことにするよ」
部長が立ち上がり、上着を手に取ると、フロア全体に目に見えない「許可」が下りた。
あちこちで、堰を切ったようにシャットダウンの音が響き始める。
「佐藤さん……! あなた、魔王か何かですか? あの部長を言葉だけで動かすなんて」
駆け寄ってきた加藤に、佐藤は平然と言い放った。
「魔王じゃないわよ。ただの『晩酌を愛する一市民』よ。いい? 加藤くん。空気を読む力は、空気を壊すために使いなさい。誰かが勇気を持って扉を開けない限り、誰も出口を見つけられないんだから」
佐藤はエレベーターのボタンを押した。
フロアに残された「不毛な気遣い」を、閉まるドアの向こうに放り投げて。
「さて。今夜は、部長に勧めたビールを、私自身が真っ先に実行させてもらうわ。……あ、加藤くん。刺身、まだ間に合うわよ」
夕闇の街に踏み出した佐藤の背中は、どんな時よりも軽やかだった。
彼女にとって、定時とは守るべき境界線であり、それを超えようとする「空気」こそが、排除すべき最大のバグなのだから。




