第6話:凪のあとの「忘れ物」
嵐のあとのオフィスには、妙に白々しい静寂が漂っていた。
つい昨日まで、フロア全体が焦げ付いた電子機器のような熱気を帯びていたのが嘘のようだ。窓の外には抜けるような青空が広がり、平和そのものの昼下がりである。
佐藤は、定時を少し過ぎたばかりのデスクで、お気に入りのマグカップを傾けていた。中身は、家から持参したほうじ茶だ。
「……終わったんですね、本当に」
隣の席で、加藤が抜け殻のような顔をして呟いた。
彼のデスクは、数日ぶりに「地層」が発掘され、木目が見えるまで片付いている。深夜に彼を苦しめた「実家のカレー画像」も、佐藤の一通のメールによって、今では社内の共有サーバーの深い闇に葬り去られていた。
「終わったわよ。正確には、私たちが『終わらせた』んだけどね」
「佐藤さんのあのメール、後でこっそり読み返しましたよ。……『カレーは冒険が過ぎる』って。よくあんな、相手のプライドを絶妙に逆なでしないギリギリの言葉、選べますね」
「言葉なんてね、選ぶんじゃないのよ。相手が勝手に『あ、自分、変なこと言ったかも』って気づくための、小さな鏡を置いてあげるだけ。それを人は『気遣い』とか『交渉術』なんて呼ぶけど、私に言わせりゃただの『護身術』よ」
佐藤はほうじ茶を一口すすり、ふう、と深く息を吐いた。
繁忙期のピークが過ぎると、人間は二種類に分かれる。一つは、解放感に浸って仕事の精度をガタ落ちさせるタイプ。もう一つは、燃え尽きてしまい、自分が何をしていたのかすら思い出せなくなるタイプ。
そして佐藤は、そのどちらでもない。彼女は、嵐の中でも外でも、常に「一定の温度」でそこにいた。
そこへ、田中部長がのそのそと近づいてきた。
今日はネクタイも真っ直ぐだし、ボタンも正しく掛けられている。しかし、その表情にはどこか、バツの悪そうな色が混じっていた。
「……佐藤くん、ちょっといいかな」
「はい、部長。何でしょう。また『キュン』とする新案件ですか?」
「いや、そうじゃない。……実は、A社の担当者から連絡があってね。今回のログイン画面、すごく評判がいいんだ。『シンプルで使いやすい、こういうのを待っていた』って、大絶賛で」
「それは良かったですね。カレーを背景にするより、よっぽどユーザーの食欲……じゃなくて、購買意欲を削がずに済んだってことでしょう」
「……それでだね。担当者が、ぜひ今回の『成功の功労者』である君に、直接お礼がしたいって言ってるんだ。今夜、軽く食事でもどうかって」
加藤が、横で「うわっ」という顔をした。
接待。あるいは、それに近い何か。
昨晩の無茶振りを「なかったこと」にされた腹いせか、あるいは本当に感謝しているのかは分からないが、どちらにせよ佐藤にとっては、カツオの叩きよりも優先すべき理由が見当たらない案件だった。
佐藤は、一秒の迷いもなく微笑んだ。
「部長、お言葉ですが、私は『仕事ができる女』として感謝されるより、『定時に帰る謎の女』として恐れられたいんです。お礼なら、メールで十分ですよ。あ、もしどうしても形にしたいっておっしゃるなら、次回の保守費用の見積もりを、一割上乗せして通していただくようお伝えください」
「……相変わらず、可愛げがないなあ」
部長は苦笑いしながら、それでもどこか安心したように去っていった。
「断っちゃうんですか。A社の接待って、結構いい店連れてってくれるらしいですよ」
加藤が、羨ましそうに言う。
「加藤くん、よく聞きなさい。タダ飯ほど、高くつくものはないの。豪華なディナーの席で、『ところで、あのカレーの件なんだけど……』なんて蒸し返されたら、せっかくのフォアグラも砂の味よ。私はね、自分の金で、自分の好きな時に、誰の顔色もうかがわずに食べるコロッケの方が、百万倍美味いと思うのよ」
佐藤はカバンを掴み、椅子を引いた。
今日もまた、オフィスに夜の帳が下りる前に、彼女の仕事は完結する。
「……さて。今夜は、スーパーの惣菜コーナーで『肉厚メンチカツ』が私を呼んでいる気がするわ。加藤くん、君も早く帰りなさい。昨日失った睡眠は、今日中に取り戻さないと、顔がどんどん化石になっていくわよ」
「……はい。僕も今日は、死んだように寝ます」
佐藤は、夕闇に染まり始めた街へと踏み出した。
騒々しい日常、理不尽な要求、そしてそれを華麗にかわした自分。
それらすべてを「忘れ物」としてオフィスに置いて、彼女は一人の「おっさん女子」に戻る。
駅へ向かう道すがら、ふと、コンビニのカレーパンの匂いが鼻をかすめた。
「……カレーねえ。次は、家で一から煮込んでみるか。隠し味に、昨日捨てたはずの『情念』でも混ぜて」
佐藤は一人で小さく笑い、雑踏の中へと消えていった。
彼女の歩幅は、今日も明日も、決して乱れることはない。




