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担当新卒がおっさん女子だった件  作者: 五平


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5/12

第5話:繁忙期っていうか、もう無理。

 午後六時三分。

 オフィスの空気は、じわじわと嫌な温度で沸騰し始めていた。あちこちで「チッ」という舌打ちが重なり、キーボードを叩く音はもはや打楽器の乱れ打ちだ。繁忙期。その言葉を聞くだけで、胃の奥がキュッと縮むような、あの嫌な季節がやってきた。


 プロジェクトリーダーの佐藤は、デスクトップの時計をチラリと見た。そして、一分の猶予もなく、使い古したカバンをひっ掴んで席を立った。


「あ、佐藤さん! どこ行くんですか! 今、クライアントのA社から『緊急で話したいことがある』って、鬼みたいな形相で電話が……!」


 後輩の加藤が、血走った目で叫ぶ。彼のデスクには、食べかけの冷え切ったおにぎりと、赤く点滅し続ける未読メールの山。その光景は、もはや戦場というより、ただの「事故現場」だった。


「加藤くん。悪いけど、私は今から『帰る』。それ以上の優先順位なんて、この世に存在しないわ」

「正気ですか!? 今、現場は火の海ですよ! 担当者が『もっとキュンとする感じに、今すぐ直せ!』って、受話器越しに唾飛ばしてくる勢いなんですよ!」


 佐藤は足を止め、ゆっくりと振り返った。その顔は驚くほど平然としている。嵐のど真ん中にいながら、一人だけ銭湯上がりのような、妙に落ち着いた雰囲気を纏っていた。


「いい、加藤くん。よく聞きなさい」

 佐藤は加藤の肩に、ポンと手を置いた。


「深夜二時に、ヤケクソでモンスターエナジー流し込んで、真っ赤な目で打ったコードなんてね、翌朝見たら全部ゴミなのよ。そんなもんでクライアントを『キュン』とさせようなんて、寝言は寝てから言いなさい」

「……それはそうですけど。でも、今やらないと、あの人たち納得しませんよ!」


「『今やらないと終わらない』なんて、ただの呪文よ。そんなのに耳を貸してたら、一生家には帰れないわ。いい? 誰かが無理なスケジュールを立てて、誰かがそれを放置した。それは単なる『誰かのミス』であって、私たちの『人生を削る理由』にはならないの」


 佐藤は、加藤のモニタに映る、無茶苦茶な要求が並んだメールを鼻で笑った。


「このメール、今は無視していいわ。変に即レスしたら、『あ、この人たちは夜中に殴っても文句を言わないサンドバッグなんだ』って思われるだけ。私たちはエンジニアであって、二十四時間戦えますなんていう化石じゃないの。……じゃ、私はスーパーのタイムセールがあるから。お疲れ様」


「え、ええええ!?」


 加藤の絶叫を背中で受け流し、佐藤は軽やかな足取りでエレベーターへ向かった。

 外に出ると、夕暮れの風が火照った顔に心地よい。

 佐藤の頭の中にあるのは、納期の計算じゃない。近所のスーパーで半額になっているであろう「カツオの叩き」と、キンキンに冷えた「第三のビール」の、完璧な晩酌のシミュレーションだ。


 翌朝。

 午前九時ジャスト。

 佐藤が出社すると、そこには泥のように疲れ果ててデスクで気絶している加藤と、ネクタイを頭に巻きそうな勢いで呆然としている田中部長がいた。


「佐藤くん……。君が帰った後、本当に大変だったんだぞ……。クライアントが、ログイン画面の背景を『実家のカレーの画像』にしろなんて、もうわけのわからないことを……」


 佐藤はデスクに座るやいなや、淀みない動作でパソコンを起動した。一晩しっかり寝て、美味いもんを食べた彼女の指先には、迷いがない。


「部長、お疲れ様です。その『カレー』の件も含めて、今から私が、その散らかった地獄を『なかったこと』にして掃除してきますから」


 佐藤はメールソフトを開き、迷いなく返信を打ち込んだ。


『A社様。昨晩のご提案、非常に熱意を感じました。ですが、ログイン画面にカレーの画像を合成する件については、現在のサーバーの処理能力と、何より御社のシュッとしたブランドイメージを考えると、ちょっと……いや、かなり「冒険」が過ぎるかと存じます。ここは一つ、カレーではなく、ユーザーがサクサク動いて気持ちいいと感じる「動作の軽さ」で勝負しませんか? それこそが、真の「キュン」だと私は思います』


 送信ボタンを、ポチッとな。

 数分後。クライアントから、拍子抜けするほどあっさりした返信が届いた。

『……確かに。カレーはちょっとやりすぎでした。佐藤さんのおっしゃる通り、軽さ優先でお願いします』


「……え、終わり? 嘘でしょ?」

 目を覚ました加藤が、乾いた笑い声を漏らす。

「僕たちが一晩中、『ルーの照り具合』について激論を交わした、あの地獄の時間は何だったんですか?」


「加藤くん。繁忙期を乗り切るコツはね、『相手の言いなりになること』じゃないのよ。相手が熱に浮かされて変なことを言い出した時に、いかに涼しい顔で『それはダサいですよ』と教えてあげるか。それがプロの優しさってもんでしょ」


 佐藤は、お気に入りのマグカップに淹れたてのコーヒーを注いだ。

 彼女の戦場には、深夜の残業も、無意味な根性論もない。

 あるのは、自分自身の生活と、ほんの少しの「図太さ」だけだった。


「さ、残った本物の仕事を、定時までに片付けるわよ。今夜は、昨日買い損ねた『焼き鳥の皮』を狙ってるんだから」


 佐藤の背中は、今日も揺るぎない。

 地獄のど真ん中で踊るより、地獄の門を閉めてさっさと晩酌。それこそが、おっさん女子・佐藤の生きる道なのだ。


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