第4話:お局様と「おっさん女子」の奇妙な共闘
職場には、不可侵領域というものがある。
総務部においてそれは、勤続二十五年のベテラン、中島さんが支配する「給湯室」と「備品庫」の運用ルールだった。新人が不用意に備品を多めに持ち出そうものなら、翌朝のデスクには「節約」と書かれた付箋が地雷のように貼り付けられる。それがこの部署の、暗黙の規律だった。
「佐々木さん、予備の腰痛クッション、備品庫に発注しといていいっすか? 私のだけじゃなく、あそこでお茶淹れてるお姉様方の分も合わせて」
デスクでキーボードを叩きながら、佐藤がボソリと言った。
俺は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「おい、佐藤さん。中島さんに断りもなく備品を動かすのは……それも『お姉様』なんて呼び方、あの中島さんが聞いたら……」
「大丈夫っすよ。あの人たち、本質的には『理解者』を求めてるだけですから」
彼女はどっしりと椅子に深く腰掛け、首をポキリと鳴らすと、迷いのない足取りで給湯室へと向かった。
俺は最悪の事態――新卒がベテランに泣かされる、あるいは職場の空気が氷点下になる瞬間――を覚悟して、影から様子を伺った。
給湯室では、中島さんが後輩のミスについて、低く、重い声で説教を垂れているところだった。
「最近の子は、ホチキスの針一つにしても無頓着なのよね。コスト意識っていうのが欠落してるっていうか……」
そこへ、佐藤がヌッと入っていった。
「中島さん。そのホチキスの話、分かります。無駄にパチパチ打つの、指の関節に響くんすよね。腱鞘炎の予備軍っすよ、あれ」
お局様たちの会話に、正面から、しかも「指の健康」という全く別の角度から割り込んだ。
中島さんが獲物を見つけた鷹のような目で佐藤を睨む。
「……佐藤さん。あなた、まだ自分の仕事も覚えてないうちに口を出すの?」
「いや、仕事は定時までに終わるよう段取り組んでるんで大丈夫っす。それより中島さん、さっきから腰、庇ってません? その立ち方、左側に重心寄ってますよ。……あー、やっぱり。昨日の雨で冷えたんすね」
佐藤は、お局様の威圧感を完全にスルーし、中島さんの腰のあたりを熟練の整体師のような目つきで観察した。
「……えっ? あ、まあ、そうなのよ。今朝からなんだか、ズキズキしちゃって」
「これ、私が使ってるドイツ製の消炎鎮痛剤っす。匂いは完全におっさんですけど、効き目はガチですよ。一枚貼ります? ついでに、中島さんのデスクの椅子の高さ、五ミリ上げときましょうか。その方が膝への負担、分散されるんで」
佐藤は、慣れた手つきで「おっさん御用達」の茶色い湿布を差し出した。
中島さんは呆気に取られていたが、佐藤の「媚び」のない、しかし「身体への配慮」に満ちた態度に、毒気を抜かれたようだった。
「あなた……意外と細かいところに気がつくのね」
「細かいっていうか、自分が楽をしたいだけっす。周りが不機嫌だと、仕事の依頼一つするのも気を使って、脳のメモリ消費するじゃないっすか。中島さんが快適なら、部署のフローも円滑。私の睡眠時間も守られる。Win-Winっすよ」
佐藤は、お局様を「恐ろしい上司」としてではなく、「メンテナンスが必要な精密機械」あるいは「共通の不調を抱える戦友」として扱った。
そこには、若さを武器にした甘えも、新卒らしい卑屈さも一切ない。
あるのは、おっさんが喫煙所で「最近どうっすか、腰の方は」と情報交換するような、平熱の連帯感だった。
十分後。
給湯室から戻ってきた佐藤は、中島さんから譲り受けたという「とっておきの高級茶葉」をマイボトルに入れ、満足げに自席についた。
「佐々木さん。中島さん、実はいい人っすよ。おすすめの整骨院の情報と引き換えに、備品の発注権、半分もらってきました」
「……半分って、お前……」
その日の午後、備品庫の整理をしていた中島さんと佐藤が、仲良く「段ボールの効率的な解体方法」について談笑している姿を、部署の全員が驚愕の面持ちで眺めていた。
お局様という「構造上の壁」を、おっさん特有の「実益と健康」というロジックで突破した彼女。
「頑張って敵を作るより、同じ悩みを持つ『おっさん仲間』として認定しちゃう方が、生存確率は上がるんすよ」
佐藤は、中島さんからもらった黒飴を頬張りながら、モニターに向かった。
その背中は、もはや新卒のそれではなく、数々の派閥抗争を生き抜いてきた名誉顧問の風格を帯び始めていた。




