第2話:名刺交換より大事な「給湯室の人間関係」
新卒が配属されて二日目。通常、この時期の新人というのは、借りてきた猫のように大人しく、先輩たちの顔色を伺いながら「何かお手伝いすることはありませんか?」と、健気に、そして少々うざったいほどに付きまとってくるものだ。
だが、俺の担当である佐藤は違った。
「佐々木さん。ちょっと他部署に挨拶回り、行ってきますね。顔を売るっていうより、動線の確認っす」
午前十時。デスクの整頓を終えた彼女は、名刺入れをポケットに放り込むと、案内しようとした俺を置いてスタスタと歩き出した。その歩き方は、やはり重心が低い。二十二歳の女性が履くパンプスの音ではなく、現場監督が安全靴で床を踏みしめるような、妙に説得力のある足音だった。
「おい、佐藤さん! 挨拶は各課の課長から順番に……」
「あー、それ、効率悪いっす。まずは現場の『ハブ』を押さえないと。失礼します」
彼女が最初に向かったのは、営業部のフロアでも、役員室でもなかった。
給湯室だ。
そこには、我が社の「情報の集積地」であり、同時に「若手女子の墓場」とも呼ばれるベテラン女性社員――通称、お局様たちが数名、茶器を洗いながら鋭い視線を交わしていた。
俺は血の気が引いた。あそこは、不用意に近づけば新卒など一瞬で「礼儀がなっていない」と、言葉の針のむしろにされる魔境だ。
「……あ、お疲れ様っす。そこ、ちょっといいっすか。この給湯器、三番のボタンの反応、悪くないっすか? 接触不良っすね」
佐藤は、お局様たちの冷ややかな視線を浴びながらも、動じるどころか、まるで長年連れ添った修理業者のような口調で話しかけた。
お局様の一人、勤続二十五年の中島さんが、眉をひそめて彼女を睨む。
「……あなた、新卒の佐藤さん? 挨拶もなしに、いきなり給湯器の話?」
「あ、すんません。総務の佐藤っす。挨拶は後でしっかりやるんで。それより中島さん、その首筋の凝り、低気圧のせいっすか? 私も今朝、膝が笑ってて『あ、これ午後から降るな』って確信したんすよ。大変っすよね、この湿気」
その瞬間、給湯室に走っていた緊張の糸が、ふっと緩んだ。
中島さんの表情が、驚きから共感へと塗り替えられていく。
「……え、あなた、分かるの? そうなのよ、今朝から右の肩甲骨のあたりが重くて……」
「やっぱり。この建物の空調、古いから冷気が足元に溜まるんすよ。これ、私が使ってる湿布、一枚どうぞ。匂いキツくないやつっすから。……あ、お姉様方も、腰とかきてませんか? 総務に予備のクッション、いくつか手配しとくんで、必要なら言ってくださいね」
佐藤は、ポケットから手慣れた様子で湿布を取り出すと、中島さんの手に握らせた。
お局様を「女子」として扱うのではなく、同じ「加齢と不調に抗う戦友」として認定したのだ。
俺が半年かけて築こうとしていた信頼関係を、彼女は「関節痛」という共通言語だけで、わずか二分で構築してしまった。
「佐々木さん、次行きましょう。次は電算室っす。あそこの主任、腰痛持ちって噂っすから。仲良くなっとけば、システムエラーの時に優先的に回してくれるはずっす」
彼女は、給湯室を出る際にお局様たちから「佐藤ちゃん、また後でね」と、娘どころか「飲み仲間」のような見送りを受けていた。
その後の挨拶回りも、彼女の手法は一貫していた。
部長クラスには「飲み過ぎによる尿酸値」の話題を振り、現場の男性社員には「最近の椅子のリクライニング性能」への不満を共有する。
彼女は、新卒としての「可愛げ」を一切捨て去り、その代わりに「おっさん特有の共感力」をフル活用して、社内に自分にとって都合の良い、つまり「楽ができる」ネットワークを構築していった。
昼時、俺は彼女に尋ねた。
「……佐藤さん。君、名刺交換の時、相手の肩書きとか全然見てなかっただろ」
「肩書きで仕事は回らないっすよ、佐々木さん。大事なのは、誰が実務の『鍵』を握ってるか。そして、その人が何を欲してるか。……だいたい、おっさんの悩みなんて、健康か、金か、面倒ごとの回避、この三つに集約されるんすよ。そこを突けば、話は早いっす」
彼女は、昨日と同じ立ち食いそば屋で、今日は「いか天」を追加しながら、淡々と語った。
「私、頑張りたくないんすよ。だから、周りを味方につけて、何かあった時に『佐藤ならしょうがないな』って言ってもらえる環境を、最初に作っておく。これが一番コストのかからない仕事術っす」
彼女は、割り箸をパチンと割ると、器から立ち上る湯気を浴びながら、幸せそうに目を細めた。
その姿は、新卒というキラキラした言葉からは最も遠く、しかし社会という荒波を最も賢く生き抜く、一人の老練な船乗りのようだった。
「……さて。午後は、経理のオヤジさんに『美味しい漬物屋』の情報、流しに行ってきます。あそこの承認フロー、私にだけショートカットさせてもらうのが、今日の目標っす」
彼女は、最後の一滴まで汁を飲み干すと、満足げに腹を叩いた。
俺は確信した。
この会社で、誰よりも長く、そして誰よりも楽に生き残るのは、この「おっさん女子」に違いない。




