第12話:年度末という名の「総決算」
三月末。
オフィスのカレンダーは、いよいよ最後の一枚になろうとしていた。
窓から見える桜の蕾は、もうすぐ爆発しそうなほど膨らんでいるが、フロアの空気はそれとは真逆の「お通夜」に近い。年度末の予算消化、未完了タスクの掃き出し、そして誰もが口に出したくない「人事異動」の足音が近づいていた。
プロジェクトリーダーとしての1年目を走りきった佐藤は、相変わらず冷静だった。デスクの整理整頓は、今この瞬間に会社が爆発しても「忘れ物はありません」と言い切れるレベルで完璧だ。
「……佐藤さん。本当に、このまま終わっちゃうんですかね」
加藤が、力なく呟いた。彼のデスクには、結局河村さんに捕まって撮影させられた「オシャレを意識しすぎて失敗したエンジニア」としての掲載記事が、虚しく飾られている。
「何がよ。仕事に終わりなんてないわ。あるのは『区切り』と『諦め』だけよ。加藤くん、君もさっさとその思い出の詰まった(使い古した)メモ帳をシュレッダーにかけてきなさい。未練はバグの元よ」
「冷たいなあ……。僕ら、この1年で結構いいコンビになったと思いません? カレー騒動とか、消灯事件とか、いろいろ乗り越えて……」
「……コンビじゃなくて、ただの『共犯者』よ。私が定時で帰るために、君を盾に使っただけ」
佐藤はそう突き放しながらも、一瞬だけキーボードを叩く手を止め、自分の指先を見つめた。
この1年、守り抜いてきた「定時」と「晩酌」。それは彼女にとって、ただのワガママではなく、自分という人間が壊れないための、ギリギリの境界線だった。
そこへ、田中部長が重厚な足取りでやってきた。
手には、一通の青い封筒。
「佐藤くん。……少し、いいかな」
「部長。その封筒の色、私の不吉な予感レーダーが最大値を指してるんですけど」
部長は、黙って応接スペースを指差した。
二人きりになると、部長は珍しく、佐藤の顔をじっと見つめてから口を開いた。
「佐藤くん。君がこの1年、現場で何をしてきたか……私は見ていたつもりだ。君は、誰よりも早く帰り、誰よりも理屈っぽく、そして、誰よりも現場に『無理』をさせなかった」
「……褒め言葉として受け取っておきます」
「それでだ。来期、君にはプロジェクトリーダーではなく、マネージャー……つまり、私の下で、この部署全体の『働き方』をコントロールする立場に回ってほしいという話が出ている」
佐藤の動きが、凍りついた。
マネージャー。それは、自分だけが逃げるのではなく、全員を逃がすための責任を負う立場。
「お断りします。私は、一兵卒として戦場の隅っこでビールを夢見ていたいんです。人の人生を背負うなんて、重すぎて腰が抜けます」
「……だがね、佐藤くん。君がいないと、また第2、第3の『カレー地獄』が生まれる。君が自分を守るために築き上げたあの『図太いロジック』は、今やこの部署全体の救いになっているんだよ。……君が望むなら、管理職手当は全額、君の『晩酌資金』に充ててもいい。……どうかな」
佐藤は、窓の外を眺めた。
そこには、疲れ果てた顔でモニターに向かう若手たちの背中が見える。
自分が「おっさん女子」として守ってきた聖域。それを広げる時期が来たのかもしれない。
「……条件があります。部長」
佐藤は、真っ直ぐに部長を見返した。
「週に二日は、私が責任を持って『強制消灯』を断行すること。それから、私のデスクに『飲酒を促す置物』を置くことを許可してください。……あと、加藤くんの教育係も継続します。あの子を一人にすると、また変なフィルターを人生にかけそうだから」
田中部長は、今日一番の笑顔で頷いた。
「……もちろんだ。君が魔王として君臨してくれるなら、私は安心して隠居……いや、ハンコ押し機に専念できるよ」
応接室を出た佐藤は、何食わぬ顔で自席に戻った。
「佐藤さん、何を話してたんですか? 深刻な顔して」
加藤が不安そうに尋ねる。
「……何でもないわよ。ただ、来期からは私の『定時退社命令』が、もっと強制力の強いものになるっていう予告よ。覚悟しておきなさい」
「えっ、それって……!」
午後六時。
佐藤は、1年目の最後を締めくくるように、力強くカバンを掴んだ。
明日からは、また新しい「歪み」との戦いが始まる。
だが、どんな立場になろうとも、彼女の芯にあるものは変わらない。
「……さあ、行くわよ加藤くん。今日は1年間の『毒出し』よ。一番濃いハイボールを出す店、予約してあるから」
「やった! ついていきますよ、佐藤さん!」
春の夜風に吹かれながら、二人は夜の街へと消えていった。
おっさん女子・佐藤。
彼女の戦いと晩酌は、これからも、もっと図太く、もっと賑やかに続いていく。
「……さて。来期は、もう少し高いビール、飲めるようになるかしらね」
夜桜の下、彼女の笑い声が、少しだけ誇らしげに響いた。




