第10話:全社定時退社日という名の「嫌がらせ」
その日は、朝からオフィスに変な緊張感が漂っていた。
壁の掲示板や社内チャットには、真っ赤な文字でこう躍っている。
『本日、全社一斉定時退社日。午後六時をもって完全消灯。残業は原則禁止!』
いわゆる「働き方改革」の旗印の下、会社が強引に設定した記念日だ。
佐藤は、その通知を鼻で笑いながら、いつも通り淡々とキーボードを叩いていた。
「……佐藤さん、これ、僕らにとってはご褒美ですよね。堂々と帰れるんですから」
加藤が、ウキウキとした様子でカバンの中身を整理している。
「加藤くん、甘いわね。こういう『強制的な優しさ』ほど、裏があるものよ。いい? 会社が『帰れ』と命令する日は、決まって『帰れない理由』がセットで降ってくるものなの」
佐藤の予感は、その一時間後に的中した。
午後五時十五分。あと四十五分で強制消灯というそのタイミングで、フロアに響き渡る怒号。
「何だと!? A社のサーバーが止まった!? ログインできない!?」
田中部長の悲鳴だった。
フロア全体が凍りつく。よりによって、このタイミングで、最も面倒なクライアントのシステム障害。
「佐藤くん! 加藤くん! 大変だ、すぐに対応してくれ! でも、あと四十五分で電気が消える! どうすればいいんだ!」
加藤が真っ青な顔で立ち上がる。
「さ、佐藤さん、どうします!? 今すぐ原因究明しないと……でも電気消されるし、明日になったらA社に殺される……!」
佐藤は、一瞬だけ目を閉じた。
そして、ゆっくりと目を開けると、驚くほど冷静な手つきで、自分のデスクにある私物のモバイルバッテリーと、ポケットWi-Fiを机に置いた。
「加藤くん。騒がない。部長も、その情けない声でパニックを煽らないで。……まず、原因はサーバーじゃないわ。さっきのデプロイで、ログイン画面に『隠し機能』として残ってた例のカレー画像が、古いキャッシュと衝突してるだけよ。コードを一行消せば終わる」
「えっ、わかるんですか!?」
「昨夜の部長のシュレッダー騒動を見てて、嫌な予感がしたからバックアップを取っておいたのよ。……いい、加藤くん。今から私が修正プログラムを流す。君は、その間に『定時退社日なので、システムの自動メンテナンスが作動しました』という、もっともらしい報告書を書きなさい。一分でも遅れたら、暗闇の中でお化けと仕事することになるわよ」
佐藤の指が、光の速さでキーボードを叩き始めた。
午後五時五十分。修正完了。
午後五時五十五分。加藤の「もっともらしい言い訳」メールが送信された。
「……間に合った……」
加藤が、デスクに突っ伏す。
「よし、加藤くん。カバンを持って。部長、あんたもよ」
午後六時ちょうど。
バチン、という音と共に、フロアの明かりが一斉に消えた。
真っ暗闇の中、佐藤は非常口の緑色の光に照らされながら、涼しい顔で立っていた。
「……完璧ね。障害は解決、報告も完了。そして、私たちは一秒の残業もせず、定時にこの場を去る。これこそが、大人の『働き方改革』よ」
「佐藤さん……あなた、やっぱり人間じゃないですよ。なんであの状況で、あんなに冷静に……」
「……ただ、早くビールが飲みたかっただけよ。暗闇の中で飲むビールなんて、美味しくないもの」
三人は、真っ暗なオフィスを抜けてエレベーターに乗った。
一階のロビーに出ると、そこには夕焼け空が広がっていた。
会社が決めたルールに従ったのではない。自分の意志で、自分の時間を勝ち取ったのだ。
「佐藤くん、本当にすまなかった。……お礼に、今夜は私が一杯……」
「部長。それは結構です。さっきも言ったでしょ。部長は早く帰って、奥様と美味しいご飯を食べるのが仕事です。……加藤くん、あんたもよ。今日はお疲れ様」
佐藤は二人を駅の改札で切り離すと、いつもの赤提灯へと足早に向かった。
カウンターに座り、「いつもの」を注文する。
「……ふう。やっぱり、自分のペースで飲む酒が一番だわ」
ジョッキの泡を見つめながら、佐藤は小さく笑った。
どんなに無茶なルールが降ってきても、どんなに不測の事態が起きても。
彼女の「おっさん女子」としての聖域は、今日も誰にも侵されない。
明日はまた、新しいトラブルが降ってくるかもしれない。
でも、今この瞬間、彼女の目の前にあるのは、黄金色に輝く最高のご褒美だけだった。




