第1話:新人配属、あるいは「完成されたベテラン」の登場
四月の空気は、どうしてこうも落ち着かないのだろう。
窓の外では、まだ頼りなげな桜の花びらが、都心のビル風に煽られて必死にしがみついている。その姿は、今日からこの会社という荒波に放り込まれる新卒たちの姿そのもののようにも見えた。
中堅商社、総務部。俺、佐々木は、課長から言い渡された「指導係」という大役に、朝から胃のあたりが少し重かった。
「佐々木くん、今日からの新人は期待していいわよ。なんたって倍率百倍を勝ち抜いてきた逸材なんだから」
課長の言葉に、俺は適当な愛想笑いを返しながら、自分のデスクを少しだけ整えた。
新しい風。若さゆえの無謀さと、眩しいほどの情熱。おそらく最初は、電話の取り方一つ、コピーの取り方一つに戸惑い、瞳を潤ませながら「頑張ります!」なんて言うのだろう。俺はそんな彼女を、兄貴分のような顔で「まあ、最初から上手くはいかないさ」と励ます準備を整えていた。
しかし、その予想は、彼女が部署の入り口に現れた瞬間に、音を立てて崩れ去った。
「失礼します。本日付で配属されました、佐藤です。……あ、お構いなく。位置は把握してますんで」
現れたのは、確かに二十二歳の、どこに出しても恥ずかしくない清楚な雰囲気の女性だった。
だが、何かが決定的に違っていた。
新卒特有の、あの「どこを見ていいか分からず泳いでしまう視線」がない。彼女の瞳は、まるで十年来の戦場に戻ってきた老兵のように、オフィス全体の動線、コピー機の位置、そして上司たちのデスク配置を、瞬時に、かつ正確にスキャンしていた。
「佐藤……さん、だね? 俺が教育係の佐々木だ。よろしく」
「あ、佐々木さん。お疲れ様です。……あ、握手とかはいいんで。それより、私のデスク、ここっすよね?」
彼女は、俺が差し出した手を視線だけで丁重に固辞すると、割り当てられたデスクへ直行した。
そして、驚くべき光景が展開された。
彼女が鞄から最初に取り出したのは、筆記用具でもメモ帳でもなかった。
ずっしりと重量感のある、低反発の円座クッション。それも、お洒落なインテリアショップで売っているようなものではなく、医療用カタログに載っていそうな、実用性一点張りの黒いやつだ。
「……佐藤さん、それは?」
「これっすか? いや、オフィスチェアの標準仕様って、だいたい腰にくるんすよ。若いうちからメンテナンスしとかないと、三十過ぎてから『あ、これ詰んだわ』ってなりますから」
彼女は手際よくクッションを椅子に設置し、深く腰を下ろした。その際、スカートのシワを気にする素振りも見せず、あろうことか両膝をわずかに開き、どっしりと構えたのだ。その重心の低さは、もはや新卒のそれではない。数々の決算期を越えてきたベテラン係長の風格だった。
「……さて。じゃあ、まずは社内の案内を――」
「あ、佐々木さん。その前に一ついいっすか。この部署、加湿器の配置、甘くないっすか? あそこにあるやつ、フィルターの掃除いつしました? さっきから喉がイガイガするんすよね。これじゃ午後には集中力削られますよ」
彼女は、デスクの引き出しからマイ加湿器(USB給電式)を取り出しながら、静かに、しかし断固とした口調で指摘した。
俺は絶句した。
彼女の脳内にあるのは「どう思われるか」という新卒の不安ではない。「いかにしてこの八時間を快適に、かつ省エネで完遂するか」という、極めて合理的な生存戦略だった。
午前中のオリエンテーションの間も、彼女の「おっさん」っぷりは留まるところを知らなかった。
会社の沿革や理念を説明する俺の横で、彼女は「あー、その精神論はいいっす。それより、福利厚生の『有給取得奨励日』の実績って、実際どうなんすか? 形だけじゃないっすよね?」と、最も踏み込んだ、しかし誰もが聞きづらい質問を平然とぶつけてくる。
「いや、それは、もちろん取得は推奨されているけど……」
「『推奨』って言葉は、『やらなくてもいい』の裏返しですからね。私、寝るのが趣味なんで。睡眠不足はバグの元っすよ」
彼女は、俺が渡した社内規定の冊子に目を通しながら、時折「ほう……」「なるほど……」と、おっさん特有の重い相槌を漏らす。その声のトーンは、二十二歳の女性から出ているとは思えないほど、低く、落ち着き払っていた。
そして、迎えた昼休憩。
俺はせっかくだからと、彼女を洒落たイタリアンにでも誘おうとした。
「佐藤さん、ランチだけど、駅前に人気のパスタ屋があって――」
「パスタっすか。いや、今日は朝から身体が『塩分と出汁』を求めてるんすよ。あそこの立ち食いそば屋、春菊天あります?」
彼女が指差したのは、駅のガード下にある、おじさんたちの聖地。
二十二歳の新卒女子が、ヒールを鳴らして入るような場所ではない。
「あそこは……ちょっと、女の子一人じゃ入りづらいんじゃ……」
「何言ってるんすか。あそこは提供スピード、回転率、そしてあの出汁の香り。三拍子揃った『最適解』じゃないっすか。行きましょう、佐々木さん。もたもたしてると、午後の始業に響きますよ」
結局、俺は彼女に引きずられるようにして、カウンターだけのそば屋に並んだ。
彼女は流れるような手つきで食券を購入し、迷いなく「そば、春菊天、生卵」のコンボを注文した。
隣でスーツのおじさんが驚いた顔をしているのも気にせず、彼女は膝を少し曲げてカウンターに肘をつき、ずずず、と豪快にそばを啜る。
「……ふぅ。染みる。やっぱりこれっすね。午後の戦いには、この塩分が必要なんすよ」
額に滲んだ汗を、彼女は鞄から取り出した「おしぼり(わざわざ家から持ってきた使い捨てじゃないやつ)」で、おじさんのように豪快に拭った。その横顔には、新卒の初々しさなど微塵もなかった。あるのは、一仕事を終えて午後への英気を養う、熟練の労働者の満足感だけだ。
午後。
部署に戻ると、早速「新人への洗礼」と言わんばかりに、課長から大量のデータ入力作業が言い渡された。
「これ、明日の朝までにまとめておいてくれるかしら? 佐藤さんなら、頑張ればできるわよね?」
課長は、新人のやる気を試すような、少し意地悪な笑みを浮かべていた。
俺はフォローしようとした。
「あ、課長。これはさすがに量が多いので、俺も手伝い――」
「あ、大丈夫っす。課長、これ『頑張る』必要ないんで。十七時半までには終わらせますね」
佐藤は、そう言い放つと、キーボードに向き直った。
彼女の指が、驚異的な速度で動き始める。
だが、それは単なるタイピングの速さではなかった。彼女は作業を開始する前の数分間、じっと画面を見つめ、無駄な工程を削ぎ落とすための「構造のデバッグ」を行っていたのだ。
「佐々木さん、このフォーマット、無駄な入力項目多すぎっすよ。ここ、VLOOKUPで飛ばせるように直しておきましたから。あと、このマクロ、流用していいっすよね?」
「……え、あ、ああ。いいけど」
彼女は、作業そのものを「頑張る」のではない。
「頑張らなくて済む仕組み」を、瞬時に構築したのだ。
周囲が溜息を吐きながら残業を覚悟し、コーヒーを淹れに行く中、彼女だけが一点を見つめて作業を完遂していく。その集中力は、まるで定時退社という「絶対的なゴール」に向けて放たれた矢のようだった。
そして。
十七時三十分。
終業を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間。
佐藤は、音もなく立ち上がった。
「あ、お疲れ様でした。例のデータ、共有フォルダに入れておきました。課長、確認お願いします。あ、間違いはないはずなんで、チェックは明日の朝でいいっすよね」
唖然とする課長を置き去りにして、彼女は鞄を掴んだ。
その中には、朝一番で設置した円座クッションが、既に行儀よく収められている。
「佐藤さん、もう帰るのか?」
「はい。私、夜は家でゆっくりお漬物漬ける予定があるんで。……佐々木さん、お疲れ様です。あんまり根詰めて残業してると、血圧上がりますよ。ほどほどに」
彼女は、俺の肩をポンと一回、まるでおっさんが後輩を労うような絶妙な力加減で叩くと、風のように去っていった。
残されたオフィスには、彼女が残した「圧倒的な効率の跡」と、加湿器から漂う清涼な空気だけが漂っていた。
「……あいつ、本当に新卒か?」
課長の呟きに、俺はただ首を振ることしかできなかった。
駅のホーム。
ふと視線を落とすと、そこには夕焼けを背に浴びて、悠然と歩く彼女の後ろ姿があった。
ヒールを履いているはずなのに、その歩幅は広く、重心は微塵もブレていない。
彼女が向かったのは、人気のカフェでも、ショッピングモールでもなかった。
駅ビルの地下、タイムセールのシールが貼られた「春菊天」を、彼女は迷いなく手に取った。
頑張らないために、最初だけ本気で整える。
それが彼女の、おっさん女子としての生存戦略。
俺たちのブラック気味な職場は、この「完成されたベテラン新人」の手によって、なし崩し的に書き換えられようとしていた。




