第六章:魂の最深部で
美咲さんとの出会いから三日後、私はついに「LUNA」の扉を開けた。手は震え、足はふらついていたが、もう後戻りはできなかった。
カウンターの中でグラスを磨いていた智也さんは、私を見ると一瞬驚いた表情を見せた。だがすぐに、あの優しい笑顔を浮かべた。しかし私には気づいた。その笑顔の奥に隠された深い疲労と悲しみを。私が彼にどれほどの痛みを与えたかを。
「お帰りなさい、紗月さん」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが崩れ落ちた。しかし今度は涙ではなく、言葉が溢れ出した。
「智也さん、私……私は……」
声が震えて、うまく言葉にならない。智也さんは静かに私を見つめ、じっと待っていてくれた。
「私は最低です。あなたがこんなに愛してくれているのに、その愛を踏みにじって、あなたを傷つけて……」
「紗月さん……」
「でも! でも、どうしても怖いんです! 愛されることが、こんなにも怖いなんて知らなかった! あなたを失うくらいなら、最初から愛されない方がマシだって思ってしまう。そんな自分が嫌で、そんな自分を愛してくれるあなたが理解できなくて……」
私は自分の醜い本音を全て吐き出した。愛への恐怖、幸福への罪悪感、そして何より、愛される価値がないという根深い自己否定。
智也さんは黙って聞いていた。そして私が全て話し終えた時、静かに口を開いた。
「紗月さん、あなたは『愛される価値がない』と思っているんですね」
「……はい」
「では聞かせてください。誰がそれを決めたんですか?」
私は言葉に詰まった。
「あなたのお母さんですか? お父さんですか? それとも施設の人たちですか?」
智也さんの声は静かだったが、そこには深い怒りが込められていた。しかしその怒りは私に向けられたものではなく、私を傷つけた全ての人々に向けられたものだった。
「どんな人間にも、愛される権利があります。生まれた瞬間から、無条件に。それを奪う権利は誰にもない。あなたのご両親にも、この社会にも」
彼は立ち上がり、カウンターから出て私の前に立った。
「紗月さん、あなたは美しい。あなたの優しさ、あなたの繊細さ、あなたの強さ。そして何より、傷ついてもなお人を愛そうとするその心が」
「でも私は……あなたを傷つけました」
「ええ、傷つきました」
智也さんは正直に答えた。
「とても深く。でもそれでも私の愛は変わりません。なぜなら愛とは感情ではなく、意志だから。あなたを愛すると決めた意志は、どんなことがあっても変わりません」
私は愕然とした。愛が感情ではなく意志だなんて考えたこともなかった。
「紗月さん、あなたは『また私を捨てるのではないか』と恐れている。でもそれは、あなたが今まで出会った人たちが、愛を理解していなかったからです。本当の愛は、相手の全てを受け入れます。光も影も、美しい部分も醜い部分も」
智也さんは私の手を取った。
「私はあなたの過去を知っています。あなたの傷を知っています。あなたの恐怖も、破壊衝動も、全て知った上で愛しているんです」
「でも……もし私がまた……」
「また私を傷つけることがあるかもしれませんね。でもそれでも私は愛し続けます。なぜなら、あなたが私を傷つけるのは、あなたが悪い人だからではなく、あなたが深く傷ついているからだと知っているから」
智也さんの言葉の一つひとつが、私の心の奥深くまで響いていく。
「愛着障害という言葉を聞いたことがありますか?」
私は頷いた。
「それは病気ではありません。あなたが弱いからでもありません。それは、あなたが愛を知らずに育ったという、この社会の犯罪の証拠です」
智也さんの目に涙が浮かんでいた。
「五歳の紗月ちゃんが『生まれてこなければよかった』と言われた時、誰が彼女を守ってくれましたか? 七歳の紗月ちゃんが両親に拒絶された時、誰が『大丈夫だよ』と言ってくれましたか? 十歳の紗月ちゃんが施設に置き去りにされた時、誰が『君は愛される価値がある』と教えてくれましたか?」
私は声を上げて泣いた。幼い頃の自分への憐れみ、そして長い間一人で戦ってきた自分への労いの涙。
「紗月さん、もう一人で戦わなくていいんです。私があなたの味方になります。あなたの傷を一緒に癒していきましょう」
智也さんは私を抱きしめた。それは恋人の抱擁ではなく、まるで母親が傷ついた子どもを包み込むような、無償の愛に満ちた抱擁だった。
「私には……愛し方がわからない」
「大丈夫。一緒に学んでいきましょう。愛することも、愛されることも」
「もし私が……また逃げ出したくなったら?」
「その時は逃げてもいい。でも私は待っています。何度でも、何年でも」
その時、私の心の一番奥深くで、何かが音を立てて溶けていくのを感じた。それは長い間、私の心を凍らせてきた氷の壁だった。
「智也さん……」
私は震える声で言った。
「私、愛し方を学びたい。あなたと一緒に」
「ありがとう、紗月さん。その言葉を聞けて、僕は本当に幸せです」
それは告白でも愛の言葉でもなかった。でもそれは、私の人生で最も重要な瞬間だった。愛を受け入れる、という人生最大の決断をした瞬間だった。




