第四章:月の裏側で君を待つ
愛されるという事実は私を狂わせた。彼の愛が深まれば深まるほど、私の心の闇もまた深くなっていく。愛されることへの恐怖は、やがて彼を傷つけたいという醜い破壊衝動へと変わっていった。この幸せな関係を私自身の手で終わらせてしまいたかった。
心理学用語で「自己妨害行動」と呼ばれる現象がある。成功や幸福を目前にして、無意識にそれを台無しにしてしまう行動のことだ。愛着に問題を抱える人は、しばしばこの行動を取る。幸せになることへの罪悪感、そして裏切られることへの恐怖が、先手を打って関係を破綻させようとするのだ。
「智也さんにはもっと素敵な明るい女性が似合いますわ」
ある夜、私は精一杯の冷たい声で言った。その言葉は私の心を刃物で切り裂くように痛んだ。しかし私は止まることができなかった。
「紗月さん、どうして急にそんなことを?」
「私みたいな暗くて面倒な女といてもつまらないでしょう? あなたも本当はそう思ってるんじゃないの?」
智也さんは困惑していた。だが私は彼を傷つけるための最も残酷な言葉を続けた。
「他のお客さんにも同じように言ってるんでしょうね。『愛しています』って。商売だものね。さすがはプロのカウンセラーだわ」
「紗月さん……」
彼の表情が初めて深い悲しみに曇った。それを見て私の胸は張り裂けそうに痛んだ。だが私は止まれなかった。まるで自分の幸福を破壊することが宿命であるかのように。
「所詮私はあなたのたくさんの患者の一人でしかない。特別だなんて思っていた私が馬鹿でした」
「違う!」
彼が初めて声を荒らげた。その声には深い絶望が込められていた。
「君は違う! 君だけは!」
しかし私はもう聞く耳を持たなかった。彼の真実の愛を、私自身の手で踏みにじってしまいたかった。それが私の存在理由であるかのように。
「もうここへは来ません。さようなら」
私は彼の悲痛な顔から目を逸らし、店を飛び出した。追いかけてくる彼の声を振り切って。雨の神楽坂を私はただひたすら走った。涙でぐしゃぐしゃの顔のまま。
これでいいんだ。これで彼は私を諦めるだろう。そう自分に言い聞かせながら。愛なんて最初から存在しないのだと。
しかし現実は違った。智也さんから離れて一ヶ月。私の日常は以前よりもさらに暗く冷たいものになっていた。彼を傷つけてしまった罪悪感。そしてそれでも彼がどうしようもなく恋しいという矛盾した気持ち。その二つに苛まれ、私は眠れない夜を過ごした。
「私はやっぱり最低の人間だ」
彼は本当に私を愛してくれていた。それなのに私はその尊い愛を自分の手で踏みにじってしまった。私は愛される価値のない人間なのだ。その思い込みが再び私を支配し始めていた。
現代の精神医学では、このような状態を「うつ病性認知」と呼ぶ。否定的な思考が自動的に浮かんでしまい、それがさらに抑うつ気分を悪化させるという悪循環に陥る。私はまさにその状態だった。智也さんという光を失い、再び深い闇の中に沈んでいた。
ある雨の夜。私は無意識のうちにあのバーの前に立っていた。階段を下り、扉の前で立ち止まる。中から智也さんの声が聞こえてきた。誰かと電話で話している様子だった。
聞き耳を立てるつもりはなかった。だがその言葉ははっきりと私の耳に届いた。
「ええ、わかっています。彼女がどれほど深い傷を抱えているか。でも僕は待ちます。月の裏側で迷子になっている彼女が必ず光の方へ戻ってくると信じていますから。ええ。愛は決して諦めないものです」
涙が止まらなくなった。あんなに酷いことを言ったのに。彼はまだ私のことを想ってくれていた。待っていてくれていた。
月の裏側。その表現が心に響いた。月は常に同じ面を地球に向けているため、裏側は永遠に見ることができない。かつては「月の暗黒面」と呼ばれていたが、実際には光も当たれば闇もある、ただ見えないだけの世界だ。彼は私の見えない部分、闇の部分も含めて愛してくれていたのだ。
だが私にはその扉を開ける勇気がなかった。また彼を傷つけてしまうかもしれない。その恐怖が私の足を縫い付けていた。愛されることの恐怖は、愛されないことの恐怖よりもはるかに強烈だった。なぜなら愛されてしまえば、それを失う恐怖と向き合わなければならないからだ。
私はそのまま雨の中を歩き続けた。濡れた石畳に自分の足音だけが響く。神楽坂の街灯が雨に滲んで、まるで涙で曇った視界のようだった。私は再び一人になった。しかし今度の孤独は以前とは違っていた。失ったものの重さを知ってしまった孤独。それは耐え難いほど重く、冷たかった。




