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第一章:渇望のクレーター

 「お前なんか、生まれてこなければよかったのに」


 母のその言葉は呪いとなって、今も私の心の一番深い場所にこびりついている。それは五歳の誕生日だった。いや、私に誕生日などなかった。ただ、私がこの世に生まれてしまった忌まわしい一日があっただけだ。


 現代の発達心理学では、愛着理論という概念がある。幼少期に主たる養育者との間に築かれる情緒的絆のことで、これが人間の基本的信頼感の土台となる。私の場合、その土台は最初から存在しなかった。父は酒に溺れ、母は男に走った。私はそのどちらからも愛されることのない、ただ邪魔なだけの存在だった。


 七歳で両親が離婚した時、どちらも私を引き取りたがらなかった。まるで不用品を押し付け合うように、私を罵り合っていたあの二人の醜い顔。子どもにとって、親から拒絶されるということは、自分の存在そのものが否定されることと同義である。私の自己肯定感は、その瞬間に完全に破綻した。


 叔父の家に預けられた時、叔母は露骨に嫌な顔をした。「なんで私たちがこんな暗い子の面倒を見なきゃいけないの」。祖母の家に送られた時、祖母は溜息をついた。「あんたのせいで私のなけなしの年金が減るじゃないか」。十歳で児童養護施設に送られた日、祖母は一度も振り返らずに去っていった。


 私は誰からも必要とされていなかった。愛していると言われたことも、ただ黙って抱きしめられたことも一度もなかった。施設では他の子供たちが次々と新しい家族に引き取られていくのを窓から見ているだけだった。私はいつも選ばれなかった。


 心理学者のジョン・ボウルビィは、愛着障害について「内的作業モデル」という概念を提唱した。幼児期の体験が、その後の人間関係のテンプレートとなってしまうのだ。私の内的作業モデルは明確だった。「私は愛される価値がない」「愛は必ず裏切られる」「人は必ず私を見捨てる」。


 だから二十四歳になった私、月城紗月は、愛というものを信じることができない。それは物語の中にしか存在しない甘美な毒薬。あるいは人々が自らの孤独を紛らわすために作り出した集団幻想。私の心はひどく渇いていた。まるで大気のない月の表面のように、無数のクレーターだけが広がる不毛の荒野。


 その夜、私は神楽坂の石畳の路地をあてもなく彷徨っていた。神楽坂は江戸時代から続く花街の名残を色濃く残す街である。坂の名前の由来は諸説あるが、津久戸町の賀久留神社で神楽を奏でていたからという説が有力だ。今では洒落たレストランやバーが軒を連ねる大人の街として知られている。


 金曜の夜。楽しそうなカップルたちの笑い声が私の孤独を抉る。私だけがこの世界の部外者。死んでしまいたいと思った。いや、死ぬことさえも面倒だった。ただこのまま消えてなくなりたかった。


 その時、私は黒い蔦の絡まる古いビルの地下へと続く小さな階段を見つけた。看板にはただ銀色の三日月のプレートがかかっているだけ。会員制のバー。私には縁のない世界。そう思いながらも、私の足はまるで見えない引力に引かれるように、その階段を下りていた。


 重い樫の扉を開ける。そこは薄暗く、そしてどこまでも静かな空間だった。カウンターの中には誰もいない。奥のテーブルで一人の男性がタロットカードを並べていた。


 「……いらっしゃいませ」


 顔を上げた男性は三十代半ばくらいだろうか。深い夜の空のような色のシャツ。どこか神秘的な雰囲気を纏っている。その瞬間、私は奇妙な既視感を覚えた。まるでどこかで会ったことがあるような、懐かしさとも呼べる感覚。


 「……あの、会員制ですよね。すみません、間違えて……」


 「お一人ですか?」


 男性は私の慌てぶりを気にも留めず、静かな声で聞いた。その声には不思議な響きがあった。まるでチベットの鐘の音のように、心の奥深くまで浸透してくる。


 「……はい」


 「では今宵は、あなたがたった一人の特別なお客様ということで。マスターの天宮智也です」


 そう言って彼は微笑んだ。それは普通の笑顔ではなかった。まるで私の心の一番奥深くにある渇いたクレーターの底までを見透かしているかのような、静かで慈悲深い微笑みだった。カール・ユングの分析心理学でいうところの「影」の部分まで受け入れてくれるような、包容力を感じた。


 「……紗月です」


 なぜか私は本名を名乗っていた。偽名を使うつもりだったのに、彼の前では嘘をつくことができなかった。


 「紗月さん。美しいお名前ですね。まるで月の砂漠に舞い降りた女神のようだ」


 智也さんはカウンターの奥に入り、シェイカーを手にした。その手つきは職人のそれだった。バーテンダーという職業は、ただ酒を作るだけではない。客の心の状態を読み取り、その人に最適な一杯を処方する、言わば心の医師でもあるのだ。


 「何かひどく辛いことがおありになったようですね」


 「なぜそう思うんですか?」


 「あなたの瞳にそう書いてありますから。深い孤独と、誰にも理解されない魂の渇きが」


 初対面の人間にこんなにも簡単に見抜かれるなんて。私は動揺を隠せなかった。しかし彼の眼差しには、精神科医のような冷たい分析的な視線はなかった。それは限りなく温かく、慈悲に満ちていた。


 「これをどうぞ」


 差し出されたカクテルは乳白色の柔らかな光を放っていた。まるで月長石ムーンストーンのようだった。月長石は長石の一種で、青白い光の帯が浮き出る現象をアデュラレッセンスと呼ぶ。古代から月の女神の石として珍重され、感情を安定させ、直感力を高める効果があるとされている。


 「"サイレント・ティアーズ"。月の女神の涙と言われています。孤独な夜に寄り添うお酒ですよ」


 一口含む。優しい甘さとほんの少しの塩味が私の乾いた喉を潤していく。ベースはおそらくウォッカとクリーム・デ・カカオ、そしてほんの少しの塩。その絶妙なバランスが心を落ち着かせる。アロマテラピーの理論では、香りは大脳辺縁系に直接作用し、感情や記憶に深く影響を与えるという。このカクテルからも、ラベンダーとサンダルウッドの微かな香りが立ち上がっていた。


 不思議と心が落ち着いた。


 「美味しいです」


 「紗月さん、もしよろしければ占いなどいかがですか? 今宵は特別に無料で」


 智也さんはタロットカードを手にした。私は興味がないと言おうとした。だが私の口からこぼれたのは全く違う言葉だった。


 「お願いします」



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