第9話 嫌な気持ちだけは無くならないものだ
「んー……ッ」
蓮見達紀は背伸びをした後、ベッドから立ち上がった。
大分、夜遅くに帰宅したのだが、案外早く起きられたのである。
昨日は色々な出来事があり、疲弊していた事もあってベッドに入った瞬間、スマホを触りながら寝落ちしていたらしい。
スマホはベッドの下に落ちていた。
達紀はそれを拾い上げたのだ。
昨日の夜。津城芹那の弟である、津城武尊と遭遇した。
以前、達紀も直接会ったことはあるものの、まともに会話した事はなかったのだ。
元カノの茜を奪った武尊からは忘れられ、余計に腹が立ったことを今も覚えていた。
その上、芹那も辛そうな顔を見せていた事で、達紀はその場から離れるといった手段を取ったのである。
何とか大きな被害を受ける前に逃れられたが、朝起きてからも昨日の事を思い出すと腹立たしく思えてくるのだ。
パジャマ姿の達紀は学校に登校するため、スマホを片手に部屋を後に階段を下って行く。
一階のリビングに向かうと、すでに妹の一夏がいた。
「お兄ちゃん、おはよ」
「おはよう」
「お兄ちゃんって、昨日バイトだったんだよね?」
「そうだよ」
「だから冷蔵庫に、ハンバーグがあるんだね」
「見たのか。じゃあ、一緒に食べる?」
「いいの? じゃあ、食べる!」
パジャマ姿の妹も今から朝食なようで頷いていたのだ。
今、電子レンジの“チン”という音が響く。
達紀は電子レンジから、バイト先から貰ったハンバーグとフライドポテトがのった皿を取り出す。
そのハンバーグを包丁で半分に切り、小さい皿に分けておく。
ついでにフライドポテトも半分にわけ、皿に添えるのだ。
「一夏、出来上がったよ!」
「ありがと、お兄ちゃん。私はご飯とお味噌汁を用意したから」
「ありがと。じゃ、早速朝食にしようか」
ダイニングテーブル上に、朝食の品々が出揃う。
二人はダイニングテーブル前の椅子に座り、向き合うような状態で互いに“いただきます”という言葉を口にする。
「お兄ちゃんって、バイトの調子はどうなの?」
「今のところは慣れてきた感じかな。バイトし始めた時と比べたら、大分マシになったと思うけど」
「バイトって大変なんだよね。私、バイトしたことないけど」
「そうだな。結構大変だよ。覚えないといけないことが沢山あるし。でも、慣れてくれば楽しいとは思うよ」
「へえ、そうなんだ」
一夏は相槌を打ち、箸を持ちながら考え込んだ顔を見せている。
それからハンバーグをおかずに、ご飯を口にしていた。
「ん⁉ このハンバーグ美味しいね。いつも賄いで食べてるの?」
妹は目を輝かせていた。
「いつもじゃないよ。廃棄処分になるモノだけ食べられるんだよ」
達紀もハンバーグの一部を箸で掴んで口にする。
「でも、いいなぁ」
「じゃあ、一夏もバイトでもする?」
「んー、それは無理かも。今は学校の部活に所属したい気分なの」
一夏はご飯茶碗を持ちながら唸っていた。
それからフライドポテトを食べていたのだ。
「そういや、一夏は所属する部活を決められたのか?」
「まだだよ。今週中は見学して、来週から入部しよっかなって。昨日、唯花と会話してて」
「じゃあ、一応部活入る方向性で考えてるのか」
「うん、そうだよ。学生の内しかできない事だしね。バイトは高校を卒業してからでも出来るじゃん?」
「それは確かにな」
一夏が部活をやりたいと言ってるのなら、達紀は引き止める事はしない。
やりたい事と全力で向き合えるのは学生の内しかないからだ。
「ごちそうさま!」
一夏は一足先に朝食を終え、しっかりと手を合わせて言った後、椅子から立ち上がる。
使った食器をキッチンへと持って行き、皿洗いを始めていた。
達紀もスマホ画面の時間を気にしながら朝食を終わらせると、学校へ行くための準備を始める。
達紀も妹同様に食器を洗い、それからパジャマから制服へと着替えた。
仕度を終えると、再び二人は玄関に集まる。それから一緒に自宅を後にするのだった。
今日も晴天であり、通学路を歩き始めた達紀の気分は良くなる。
昨日の出来事は忘れがたい事だが、青空の景色を眺めていると、心が洗礼されていくかのように明るくなるのだ。
芹那さんは大丈夫かな。
達紀は昨日の事を少し振り返り、一抹の不安を抱えてはいた。
「お兄ちゃん、さっきから空ばかり見て何かあるの?」
「いや、なんでもないよ」
達紀は首を横に振る。
妹には面倒な出来事を押し付けたくはなかった。
だから、詳細な話はしない。
「なんでもないならいいけど……困ったらいつでも相談してもいいよ。この前も言ったと思うけど」
「本当に困った時な」
隣を歩いていた一夏が、達紀の前に移動し、笑顔を見せてくる。
「悩みが無いのなら、もう少し明るい顔をした方がいいよ!」
「そんなに暗い顔をしてるのか?」
「そうだよー、天気のいい日なんだから、笑顔でいないとね!」
一夏は、親切な妹だ。
そんな態度を見せられると、余計に心配をかけさせたくないという思いが募っていく。
一夏は再び達紀の隣を歩くのだ。
通学路を移動していると、学校の建物が少しだけ見え始める。
「一夏! おはよう!」
遠くの方から津城唯花の声が聞こえた。
彼女は駆け足で二人がいる場所まで近づいてくる。
「おはよう、唯花」
一夏も笑顔で返答する。
「達紀先輩もおはようございます!」
「おはよう」
唯花は丁寧に、達紀の前で頭を下げていたのだ。
「そうだ、一夏。朝から部活見学できるところもあるんだって。朝練も見に行こうよ」
「いいね。お兄ちゃん、私たち、もう行くね」
「そうか。またあとでな」
「うん」
妹の一夏が、達紀の顔をチラッと見ると、唯花と一緒に手を繋いでその場から走り去って行くのだった。
達紀は一人で学校の昇降口まで移動し、中履きに履き替えると、いつもの教室へと向かう。
教室内はいつも通りに騒がしかった。
達紀が教室に入っても、特に話しかけてくる人はいなかったのだ。
周りにいる人らは友人同士で盛り上がっていた。
達紀は通学用のリュックを机の横にかけ、孤独に朝を過ごす。
「そういや、昨日のカラオケに行ったんだよね」
「そうなんだ」
「ほら、こんな感じ」
教室の後ろから、カラオケに言った発言をする桜井茜と、その友人の話し声が聞こえてくるのだ。
「へえ、いいじゃん。それに茜の彼氏ってイケてる感じじゃん」
友人は茜のスマホの写真を見ていた。
「でしょ」
「今度私も合わせてよ」
「いいよ。でも、浮気とかは無しだからね」
「そんなわかってるし。気にし過ぎだって」
茜と、その友人はふざけ合いながらも楽しく会話していた。
「でも、どこの誰かとは違って、めっちゃいい彼氏なんだよね」
「それ、アイツに聞こえるって。やめときなって」
茜らが、達紀をバカにする声が聞こえる。
けれど、達紀は無視する事にした。
そもそも、茜は、あの男性から遊ばれている。
昨日の夜。あの男性――津城武尊は別の女性と付き合っていたからだ。
今の茜にその事を直接言っても意味はない。
だから、茜がその現実を知った時の表情を妄想しながら、達紀は心の中でニヤニヤとしていたのだった。