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デジャブ

作者: 中島一文
掲載日:2023/06/09

タイムスリップした先は、3年前の違う世界だった。

第1部


山頂に向かう登山道は、昨夜の雨で少し荒れている。途中、馬の背と呼ばれる尾根を越えて雲海が谷に流れ込み、滝雲になっていた。ひときわ切り立ったピークの斜面から朝陽が放射して、対面する山肌や樹木を照らし、あたりはすっかり深紅に染まっていた。何もかもが真っ新な状態に戻され、今まさに新しい世界の幕開けを告げるような瞬間のようであった。これ程のコンディションには、そう簡単にめぐりあえるものではない。貴志は、あたりに神秘的な、そして、神聖な気配を感じていた。

そんな時、貴志は夕子と初めて出会った。女性が一人で登山して来ることも最近ではそれほど珍しいことではないが、そんなに見かけるものではない。いつもなら女の人に声をかけるなんて到底できない貴志であったが、この時は、この光景が気持ちを大きくしてくれたのか自然に声をかけることができた。

「素晴らしい景色ですね。天気が晴れて本当に良かったです。頑張って登ってきた甲斐がありました。」と貴志が話しかけると、「ええ、素晴らしい景色ですね。私もこれまで何度か挑戦してきたのですが、今回やっとこの絶景に恵まれることができました。」と、少し興奮気味に夕子が応えてくれた。

貴志は、ふとこの感じにどこかで出会ったような気がした。デジャヴと言うものかもしれない。だとするとこれは未来で体験したことなのだろうか。さて、この後はどうなるのだったか。貴志は精一杯思い出そう、感じようとした。すると、山頂を目指して、突風にでも煽られたのか、登山道から滑落する自分の姿が見えたような気がした。

陽(太陽)はあっという間に朝空を昇り、滝雲もすっかり消えて山の稜線がくっきりと現れていた。

「これからどうされますか?。」

貴志は、まだ山頂に登頂する途中であったが、夕子がこれで下山するというので、自分もいっしょに下山することにした。先ほど思い浮かんだ描写が気になったのと、何よりももう少しこの人と一緒にいたいと思ったからである。貴志が先を歩き、登山道を登山口まで下りてきたところで後ろを振り返ってみると、登山道は一本道であったにも関わらず、そこには一緒だったはずの夕子の姿はなかった。

貴志は、登山口近くの駐車場に車を止めていた。そこでしばらく待ってみたが誰も下山してくる気配はなく、あたりの様子も特に変わったところはない。仕方ないので貴志は、汗をかいたウェアを着替え、登山用具の片付けを済ませると帰路につくことにした。どういうことなんだろうか。幻でもみたのか?。

 帰路の途中、高速道路を走行中にそれまで快晴だった空模様がにわかに嵐の様相を呈してきた。雷雲でまわりが真っ暗になったかと思うと激しい雨が車のボディーを打ち付け、稲光がフロントガラスを走った。風と雨そして雷の領域、まるで自分の車に落雷があったような衝撃を受けたかと思った瞬間、視界は、さっきまでの快晴を取り戻していた。

自分の部屋に帰り着いた貴志は、何かいつもと様子が違うと感じた。貴志は一人で暮らしているのだが、部屋には人の気配がある。 なんと、そこには山で初めて出会ったはずの夕子の姿があった。


貴志は、ワクチンなどを製造する企業の研究所に勤めているのだが、数日前に担当していた研究開発から下ろされていた。

「斉藤君。君には、この研究から離れてもらう。理由は分かるね...。代わりは前山君にやってもらうことにしたので、十分な引き継ぎを頼むよ。」と上司に言い渡された。

この研究とは、貴志がその頃流行り始めたウィルス感染症のワクチン開発の中で閃いたもので、当初は誰に言うでもなく一人で本務の合間を縫って仕事場には内緒で行っていたものだが、ある時、ウィルス研究の第一人者である塚原教授に助言をもらおうと相談したことがきっかけとなり、研究所の最重要研究課題として位置づけられ、有力プロジェクトの一つになったという経緯がある。

「やられた」と貴志は思った。前山には、この研究を完成させる能力も意欲もない。上層部は、この研究を無かったことにして、闇に葬り去ろうとしている。この研究を中止させようとする上層部の方針によって圧力がかかったのに違いない。

貴志が行っていた研究とは、簡単に言ってしまえば、癌治療にウィルスを用いるというもので、ウィルスの中には癌細胞を破壊する能力を持った種類のものがいるのではないかとの発想から始まっている。

それは、ワクチンの開発の実験中に起こった。手違いで健康なマウスではなく、癌細胞を移植したマウスに開発途中のワクチンを投与してしまったことによる。このマウスには残念ながらワクチンの効果が無く、このウイルスによりマウスは発病し、死んでしまったのだが、この時、マウスの癌細胞が減少しているのではないかということに貴志は気がついた。それからいくつもの検証を繰り返し、核心に至った貴志は、このウィルスの正常な細胞への感染を無効化し、癌細胞にのみ感染して、これを破壊する能力のみ有効にすることができないかとその方法を模索していた。 ただ、このウィルスは大変凶暴で、感染するとその5割が重傷化し、そのうち9割が死に至るという肺炎を引き起こすものであった。 感染力が比較的弱かったため、市中においては、それほど爆発的な感染は起こっていなかったが、それでもワクチンの開発は急がれていた。貴志の研究は、ワクチンの開発に優先するものではないが、このウィルスの病原性を無効化することができるということは、言い換えれば、ワクチンの開発にも応用することができるということで作業は並行して進められていた。同時に、他部署においては、このウィルスにより発症した肺炎が重傷化した患者でも、それを完治させることができる特効薬の開発が進められており、高岡浩二は、当研究所のその開発のチーフであった。

ところがある時、ワクチンの開発とウィルス研究過程で事故が起きてしまう。なぜか突然、さらに凶暴化したこのウィルスに研究員の一人が感染し、あっという間に死亡してしまったのである。この突然変異したウィルスは、より病原性が強力になっており、感染力も大変強いものに進化していた。さらに、それまでのものと比べものにならないくらい病気の進行速度が早かった。この時、死亡した研究員により突然変異したウィルスが市中に拡散している可能性が心配されたが、感染した研究員が死亡するまで短時間であり、それほど多くの人と接触していなかったことから、ウィルスは拡散しなかったように思えた。しかし、市中への流出がなかったかどうかは、検証されていない。少なくとも研究員の家族は濃厚接触者であるということで、直ちに隔離され、感染が拡大するのを阻止しようと試みられたが、その後、家族も発症し全員が死に至っている。

研究所の上層部は、この事実を隠蔽した。

この事故に関し貴志は、ウィルスの病原性を進化させるような処置は行っていない。ウィルス自身が何らかの理由で進化したと考えており、その原因を究明しなければならないと思っていたが、そんな矢先、貴志は実験のミスによりウィルスの病原性を進化させたとの濡れ衣を着せられ、研究開発から下ろされることになったのである。これにより厳重に管理されていたはずのウィルスが、なぜこれ程までに病原性が強いウィルスに進化してしまったのかを貴志が知る術は無くなってしまった。

その後、貴志は趣味の登山中、崖から滑落して死亡してしまうことになるが、それ程険しくもない山で登山上級者の貴志がなぜ滑落してしまったかは謎である。


高岡は、貴志が塚原教授に好感を待たれていることが気に入らなかった。塚原教授の後ろ盾があれば、この研究所では誰からも一目置かれ、将来的にも有利であった。

高岡は、自分は他の研究員とは格が違う。貴志がいなければ、自分が塚原教授に目をかけてもらえるはずなのにと常々思っていた。

これまで塚原教授に気に入られるために毎日小間使いのように従ってきた。なのに自分は特効薬づくりを担当させられ、自身の研究を任せてもらえない。最優先研究課題に挙げられた貴志の研究が羨ましかった。

高岡は、密かに貴志の研究を盗むことを考えていた。そして、それまでの貴志の研究成果を土産に他の研究機関に移籍し、研究を完成させられれば、貴志を出し抜くことができる。まずは、どうにかして貴志が研究中のウィルスと研究データを入手(盗み出す)しなければならない。

ある夜、研究所に忍びこんだ高岡は、とうとうウィルスの持ち出しに成功した。その後は、自分の研究室で貴志の研究資料をもとに検証を繰り返した。

 その過程で高岡は他社が開発済みのこのウィルスにより発症する肺炎を完治させることができる特効薬に対し、耐性を持ったものに進化させてしまったのである。それ同時にこのウィルスの病原性をより強力なものに変化させてしまった可能性がある。そのことに気づいた高岡は、そのウィルスを貴志が研究中のウィルスに混入させた。これで斉藤の研究は失敗だ。

 亡くなった研究員は、高岡が進化させたそのウィルスに感染してしまったのである。この凶暴化したウィルスは、その後、市中で爆発的に感染し、多くの死者を出すことになる。

他社からこのウィルスに効果がある改良された特効薬が開発されるまで、死者の数は爆発的に増えていくが、その後、ワクチンの開発も完了し、感染者は次第に減って行き、終息に向かっていった。


貴志は、混乱していた。なぜ、自分はこの世界に来てしまったのだろう。自分が今まで生きていると思っていた世界はどこに行ってしまったんだ。そもそもそんなものはなくてこれが現実なのか。いや、そんなはずはない。確かにこれまではこことは違う世界にいた。どうしてこんなことになってしまったんだろう。頭がおかしくなりそうだ。

ふとカレンダーが目に入ると、日付はなんと3年前を示していた。自分は、3年前の世界に来てしまったのか。でも、この世界は、それまで自分が生きてきた3年前の世界とは違う。全く別の人生だ。

人生とは、選択の連続だが、ある時に別の道を選択していたなら、その後の人生はまた違ったものになっているだろう。もしかするとそうした分かれ道で別の選択をした人生に遷移してしまったのかもしれない。しかも、その3年前にタイムスリップしてしまったということか。本当にそんなことが起こりうるのだろうか。でも、現実はこのとおりだし何がどうして起きたのかは分からないが元いた世界には戻ることはできるのか。いや、きっとこれまでの世界はもう存在しないに違いない。昔流行った映画ではないが、何かのせいで時空がねじれて、別の世界が出現してしまったんだ。とりあえずは、とにかくこの人生を生きていかなければならないんだ。貴志は自分にそう言い聞かせた。でも考えようによっては、3年前から人生をやり直せる。もしこの先以前いた世界と同じようなことが起こるとしたら、先読みすることもできる。例のウイルス事故の原因も分かるかも知れない。何より綺麗な夕子がそばにいる。考えようによっては、それほど悪いことでもないかと貴志は思わないでもなかった。


「ねえ、どうしたの落ち着かない感じでなんか変だよ。ぼーっとしてるし、何か心配事でもあるの?。」っと夕子に言われてハッとしてしまった。

 「今日はね、この間テレビを見てて食べたいって言っていたカサゴの唐揚げを作ってみたんだよ。珍しくスーパーで見かけたから、ネットで調べて作ってみたの。悪戦苦闘したけど、結構同じようにできたと思うんだ。ねえ、なんとか言ってよ。どこか具合が悪いんじゃないの?。」

「いや、ちょっと疲れちゃってね。ごめんごめん。うん、うまそうだなー。」と貴志は慌てて対応したが、貴志の顔は引きつっていた。確かに、カサゴの唐揚げは貴志の大好物ではあった。

貴志は、できるだけ夕子に不審に思われないように振る舞った。その夜は、彼女が求めてきたので初めて彼女とした。彼女はとてもスタイル抜群で、貴志はとても興奮して、全てを忘れてしまうほど無我夢中だった。

「どうしたの。初めての時みたいに激しかったね。」と夕子がにっこりとしていた。

貴志は、「何てスゴイことになったんだ。こっちの人生の方が全然いい。」とても気持ちが高ぶっているのを感じた。

それにしても、今の貴志には、この新たな人生の中での貴志が現在に至るまでの記憶がない。これから過ごしていく中でそれは絶対に必要なことになる。まずは、どこまでの記憶が正しく、どこで違った人生になったのか。そして、その後をここまでどのように生きてきたのかを知る必要がある。そして、夕子とはどのように知り合ったのか。なぜ、あの時山で出会ったのかも気になる。貴志は、自分自身の過去を調べなければならないと思った。しかし、どうやって調べたらいいだろう。あからさまに接する人に自分のことについて聞いて回ったのでは、気が変になったと思われかねない。調査は、慎重に十分注意してやっていかなければならない。その過程でどうして違った人生に来てしまったのか、その理由も分かるといいのだが...。

翌日、貴志が研究所に出勤してみると、当然だがまだ貴志のあの研究は始まっていなかった。何よりも例のウィルス自体がまだこの世界には存在していない。確か、あのウィルスが発生したのは、2年前、つまり、この世界では1年後ということになるのか。現在、自分はワクチンの開発ではなく新薬の開発をやっているらしい。それ以外、同僚の顔ぶれも研究所の職場環境もほとんど変わりは無い。貴志は、周りの研究員に違和感を持たれないよう会話には十分気をつけるようにしたが、それは思ったよりも難しく同僚が不審な顔をしているのをたびたび感じることになった。

貴志は、自身の個人的に使用しているPCに残っている情報を調べてみることにした。幸いPCのパスワードは、貴志が思っているものであっており、無事PCを立ち上げることができた。とりあえず写真を探してみようと思った。人に話を聞かなくても写真を見れば少しはその時の状況が分かるかもしれない。写真からは日付なども分かるから、当時の状況を推理することができかもしれない。さすがに職場の素行に関する有益な情報などはなかった。本当は、日記のようなものがあれば、なお推理を正しく検証できるのだが、貴志は日記をつけるようなタイプではなく、それは自分でも分かっている。日記をつける習慣があれば良かったのにとつくづく思ったが、なんとPCにはその日記が存在していた。日記は、3年前から始まっている。こうなることを予感して日記をつけ始めたのだろうか。それ以前の記録はない。3年前のこの日に何かがあったのだろう。きっとここで人生が変わったのに違いない。


(日記)2009年4月20日(火曜日) 今日から日記をつけることにする。妙な話だが昨夜夢に出てきて誰かに、日記をつけるよう強く勧められた気がする。未来の自分のために日記を書いておいた方がいいと言う。未来の自分のためとは変な話だが、なぜか頭に引っかかって離れない。何年かして読み返してみた時に何かの役に立つということか。それは抜きにしても自身の記録を書くのもいいかもしれないと思っていたところでもある。

というのは、今日は、この4月に就職した研究所での配属が決まった。幸運にも希望していた製薬開発部門に配属されることになったのだ。いよいよ始まる僕の仕事人生。その記念すべき日。いつかは、何か画期的な新薬、例えば癌を完治する薬とかを開発して、人々に賞賛されるような成果を上げたい。その時まで自分の人生の足跡を記録しておこうと思う。


今の自分のために日記は書き始められたのだろうか。そして、今の自分はワクチン開発部門ではなく製薬開発部門に配属されている。きっと、ここで違う人生に道が分かれたんだ。でも、どうやら今の自分は、製薬開発部門でもそれなりに仕事をこなしてるようだ...。

貴志は、昔から何をやってもある一線を越えることができないタイプで、根は真面目で努力も人一倍できるのだが、いつも中途半端で結果が出ない。最初は、情熱を持って熱心に頑張れるのだが、結局スランプに陥って徐々に意欲が鈍り、行き詰まって挫折してしまう。これまでそんなことの連続であった。でもここではなんとか頑張っている。


(日記)2010年5月16日(日曜日) 今日は、他の部署の研究員と合同で秋川渓谷にバーベキューに出かけた。それぞれ家族を同伴したりして、大勢でわいわいガヤガヤととても楽しい一日だった。自分は一人で、はじめはちょっと寂しかったが、何より良かったことは、先輩研究員の伊藤さんが連れてきた妹さんと知り会えたことだ。伊藤夕子さんという綺麗な女性。話をしていてとてもどきどきした。登山が趣味らしい。とても気が合いそうだし、こんな人が彼女になってくれたら本当にうれしいと思う。今度、この先輩研究員に夕子さんを紹介してくれるよう頼んでみよう。でも、兄というのは、妹を誰かに紹介するというのは、どうなんだろう。


この時夕子と知り合ったのか。でも、よくバーベキュー大会に参加したものだ。自分は、こういうことが苦手な方なのに珍しい。何かの知らせだったのだろうか。

 そうか。夕子は、先輩研究員の妹だったのか。きっと、このあと事態はうまく運んで今があるのだろう。やるな自分、上出来だ。何をやっても結局ダメな自分がどうやって夕子と恋人同士になったかは分からないが、とにかく自分を褒めてあげたい。

 いや、待てよ。この先輩研究員は、あの時の事故で亡くなってしまった人ではなかったか。突然変異したウィルスに感染し、あっという間に死んでしまったあの研究員だ。確か、その後、家族も感染し全員が亡くなっているはずだ。すると夕子もその時死んでしまったのではないだろうか。それでは、あの時、山で出会った夕子は、何者だったのだろう。既に亡くなっていたことになる夕子と山で会ったことで、自分は別の人生に遷移タイムスリップしてしまったのか。

 ウイルスの突然変異の濡れ衣を着せられ、そして、滑落死したかもしれない人生は、滑落死しない人生に変わったのか。自分はこれからもあの山に登らなければ滑落死することはない。夕子は、今はこの世界では生きてはいるがいずれ突然変異したあのウィルスに感染して死んでしまうのか。いろいろなことが一斉に頭の中を巡っていった。

でも、未だあのウィルスは発生していない。この3年間の経験では、これから1年後にウイルスは出現する。そして、自分はそのウィルスの研究を開始する。その過程でウィルスは突然変異して事故が起こってしまうのだ。やっぱりこの世界でもそうなってしまうのだろうか。しかし、今の自分はワクチン開発部門ではなく製薬開発部門に配属されている。自分があの発想に基づく研究を始めなければ、あの病原性の強力なウィルスは出現しないのではないか。先輩研究員も死ぬことは無いかも知れない。当然、夕子も死ぬことはない。でも、もし自分が関わらなくてもあの病原性の強力なウィルスが発生してしまったらどうする。そして、先輩研究員に感染してしまったら。それならばやはり自分が研究を始めよう。来るべき時には、自分が夕子を守るのだ。ウイルスが突然変異しても先輩研究員に感染させなければいい。その対策を立てておけばいいんだ。そのためにも、どうしてウイルスが突然変異したのかを調べる必要がある。ウイルス自身が勝手に進化することはあり得ない。誰かがウイルスの病原性を強力に進化させたのか。なぜ、先輩研究員が感染してしまうのか...。

 しかし、その後、貴志はこれとは別の理由からこの研究を始めることになる...。


いずれにしても、せっかく希望どおりになった製薬開発部門からワクチン開発部門に異動しておかなければ始まらない。あの発想を塚原教授に提案し、ワクチン開発部門への異動に便宜を計ってもらわなければ・・・。だが、あのウィルスは、未だ発生していないし、便宜を図ってもらうにしても、それには自分のそれなりの実力を示さなければならない。まずやっていかなければならないことは、自身の評価を上げて職場において確固たる地位を築くことだ。そして、塚原教授に認められることだと貴志は思った。

幸いなことに貴志は、前の人生において今後の3年間で起こるいろんな研究員の様々な研究成果や失敗を知っている。もしそれがこの世界でも起これば...。


それからしばらく貴志は、職場のいろいろな担当を当たっては、出しゃばりにならないように気をつけながら、先輩研究員たちに貴志が知っているこれから起こるだろうことについて助言や提案を行っていった。当然だが、貴志の助言や提案により研究が成功することが頻発し、貴志の評価はどんどん上がっていった。当然、周りから一目置かれるようになっていった。

「なんで、君は僕がこの研究をしていることを知っているんだ。どうしてここで行き詰まっているのを知っているんだ。そして、その打開策をなぜ提案できるんだ。君は一体何者なんだ」と様々な研究員が口にしていたが、そのことは上層部でも話題になっているようであった。


2011年12月2日(金曜日) 二・三日前から夕子の具合が良くない。急に寒くなったせいか風邪でも引いたのかも知れない。

明日、仕事を遅刻して病院に連れて行こう。


2011年12月9日(金曜日) 相変わらず夕子の様子が良くならないので、血液検査をすることになった。白血球の数値が高く白血病が疑われる。次の通院で精密検査をしてもらうことになった。


2011年12月26日(月曜日) 精密の検査の結果、夕子が慢性骨髄性白血病と診断された。当分の間は、入院はせず経口治療で対応する。


なんということだ。夕子が白血病に犯されている。慢性白血病という病気は、急性とは異なり直ちに亡くなるということはないが、停滞期(大体3年から4年)を経て急性期に憎悪し、死に至る病だ。現代の医学では、完治の手段は骨髄移植しかない。しかし、骨髄移植のためのドナーを見つけることは、大変に困難である。

 当初は、入院せず通院で治療することになるが、いずれ入院が必要になる。夕子の命は、長くてあと3年から4年ということになるのか。あのウィルスに感染しなくても結局亡くなってしまうのか。

貴志は、自身のあの研究を思い出していた。あの研究を完成させられれば、癌を治療することができる。夕子の白血病も治すことができるかもしれない。やはりどうにかしてあの研究を開始し、そして、今から3年以内に完成させなければならない。


貴志は、塚原教授といた。

「ウィルスの研究がしたいんです。ワクチン開発部門に異動できるようお口添えいただけないでしょうか。」

「最近の君の活躍は聞いているよ。上の方でも話題になっている。頑張っているね。でも、なぜ急にウイルスの研究がしたくなったのかね。確か君は製薬開発が希望だったはずだが...。」

「ちょっと思うことがありまして、ウィルスの研究がしたくなりました。というのは、もしかするとウイルスの中に癌を撃退する能力を持ったものがいるのではないかと思ったんです。そのウィルスを発見し、その病原性を無効化して、癌細胞を攻撃する能力だけを残すことができれば、癌治療に応用できるのではないかと考えました。」

「なるほど。興味深い着眼点だね。確か、過去に世界的な医学雑誌にこんな論文が掲載されたことがある。それは、アフリカでバーキットリンパ腫の子どもが麻疹を発症したが、高熱などの症状が治まったときに、リンパ腫も完全寛解していたというものだ。ウイルス感染を経て癌が寛解に至ったという医師による報告だ。これと同じような考え方だと思うが...。」

 そうだよな。既に同じような考え方を持った人がいても不思議ではない。

 「と言うことは、そのウィルスの心当たりとか、そのデータなどはあるのかね。」

「いえ、今はありません。というかあと少しでそのウィルスは出現すると思います。」

「君は妙なことを言うね。あと少しで出現するとは、どういう意味かな。その根拠はあるのかね。どうしてそんなことが分かるのかな」。

「根拠はありませんけれど...。おそらく来年の春前頃にウィルスは出現し、その感染症は流行すると思います。」

「君は、予言者か何かかね。まるで未来からやってきたようなことを言うね。」

「今は、その根拠はお話しすることはできないのですが、とにかく出現すると思います。馬鹿げてるとお思いでしょうがどうかワクチン開発部門への異動をお口添えいただけないでしょうか。」

貴志は、本当のことを話すことはできない。本当のことを話しても、決して信じてもらえないだろうし、おかしいなやつだと思われるのが落ちだ。しかし、今話していることも十分変な話だし、やはり相手にされないかもしれない。けれど貴志は、どうしてもワクチン開発部門に異動しなければならない。熱心に真剣に異動を訴えた。

塚原は感じていた。このやりとりはどこかで見たような気がする。


「夕子。今日、塚原教授にワクチン開発部門に異動できないかお願いしてみたんだ。なぜ、異動したいのか聞かれて困ったよ。一応、ウィルスを癌治療に応用できないか研究したいと話してみたんだけれど、何の根拠も実績も無いからね。何で急にって言われたよ。今の職場でそれなりの成果を上げているのにとも言われた。ちょっと厳しい状況なんだ。このままだとダメかもしれない。君のお兄さんの職場だから、お兄さんからも口添えしてもらえるようお願いできないかなー」。

「それは、話してみてもいいけど、私も聞きたい。どうして急に異動したくなったの。画期的な新薬を作るのが夢だって言ってたじゃない。」

「うーん、いつものとおり行き詰まっちゃってね。気分転換にワクチンでも作るのもいいかなーなんて思ってさ...。いや、それは冗談、冗談。」

貴志は、いつになく真剣な顔をして夕子を見つめた。

「実は君に話しておかなければならないことがある。今から話すことは急には信じられないかもしれないけど、最後まで聞いてほしい。」

「改まってどうしたの。らしくないよ。」

「決して頭がおかしくなったのではなく、全て事実だから、僕を信じてほしい。実は、僕は、今から3年後の世界からやってきたんだ」。

「えっ」。

「以前、登山から帰ってきた時、いやこの世界では、登山から帰ってきたのではないかも知れないけど、あの時、この世界の自分と入れ替わったんだと思う。カサゴの唐揚げを作ってくれた時だよ。僕のことを何か変だって言ってただろう。あの時、3年間を遡ってきたんだ。」

「なにを言うのかと思ったら、からかわないで、悪い冗談だよ。変な話しないで...。」

「頼むから、とにかく僕の話を聞いてほしい。」「ただ、時間をまるっきり遡ったのでは無くて、この世界は、僕が元いた世界とは別の人生だった。つまり、元いた世界の3年前に遡ったのではなく違う世界の3年前にやってきてしまったんだ。初めての人生だった。元いた世界では、僕は君とはまだ出会っていない。今から3年後の山で初めて君と会った。そして、その日に僕はこの世界の自分と入れ替わってしまった。」「元いた世界では、僕はあるウィルス研究に取り組んでいた。癌細胞に感染し、癌細胞を撃退するウィルスの研究していたんだ。ウィルスの病原性を無効化し、癌細胞を攻撃する力を残し、遺伝子操作でさらにその能力を強力にしたウィルスを製造しようとしていた。完成すれば、癌を完治させることができるかもしれない画期的なものだ。研究は、ほぼ完成段階にあった。」「それがある時、なぜか病原性を無効化したはずのこのウィルスが突然変異して、病原性や感染力が極めて強力なものに進化してしまった。そうとは知らず、一緒にウイルス研究をしていた研究員が、そのウィルスに感染してしまった。この病原性が極めて高くなった新ウィルスにより重度の肺炎を発症し、あっという間に亡くなってしまった。」

この時亡くなった研究員は伊藤さんだ。夕子のお兄さんだったんだ。おそらく当時の夕子の白血病は、いつ急性憎悪が起こってもおかしくないぎりぎりの時期にきていたに違いない。伊藤さんは、きっとこの研究にかけたのだ。まだ、完全には完成してはいないこの新ウィルスを夕子に投与することを考えていたのかもしれない。

「でも普通なら、このウィルスに感染したとしても当時は他社からこのウィルスにより発症した肺炎を治癒できる特効薬が出ており、それを処方したのだけれど、なぜかこの新ウィルスは、この特効薬に耐性を持っていて、特効薬は全く効かなかった。その後、ご家族も発症し亡くなったと聞いている。」

ということは、夕子もこの時亡くなっているのか。

 「そして、その後、新ウイルスは爆発的に流行し、多くの人々が感染して相当の被害、死亡者が出た。」「僕は、そんな未来にはしたくない。だから、僕はワクチン開発部門に異動してあのウィルスの研究をしたい。そして、なぜ完成間近の癌撃退ウィルスが凶暴化したのかも突き止め、新ウィルスの爆発的な感染を防ぎたい。僕がこの世界に来たのは、きっとこのためだと思う。すぐには信じられないかも知れないけれど、決して嘘は言ってないし、頭もおかしくなってない。本当だ。」

「信じるよ。こんなこと嘘で言う必要ないもんね。なんとなく分かるような気がする。」

貴志は考えていた。もしかすると癌撃退ウィルスが凶暴化し、多数の死者がでる事態に陥ったことで違う時の流れができてしまったのではないか。それによって本来あるべき時の流れが変わってしまったとする。そんな未来を回避して元の世界に戻すために、時の修正機能が働いて僕をタイムスリップさせたとすれば、なんとなく納得はできる。本来であれば、他社が開発した特効薬により、このウィルスに感染して発症する肺炎は治療することができるようになり、同時にワクチンも開発されて、このウィルスによる感染者や死者が多数出ることはなかったのではないか。これが正しい時の流れだったのではないか。

しかし、その時、夕子はどうなったのだろうか。僕が完成した癌撃退ウィルスにより白血病は完治し、亡くなることはなかったのか。それとも研究が完成するのは間に合わず、白血病で亡くなってしまったのか。それは分からない。

でも、今の僕は、夕子を白血病から救うために生きたい。それは、時の流れをまた変えることになるのかも知れない。しかし、僕はそのためにこの世界にやってきたと思いたい。例えそれが時空に逆らう仕業であっても、潰されてしまうかも知れないけれど、自分は癌撃退ウィルスの開発を完成させなければならない。そして、夕子の病気を完治させるのだ。


その秋、貴志は、希望していたワクチン開発部門に異動することができた。なぜ、塚原教授が貴志を後押ししてくれたかは分からないが、とにかく塚原教授のおかげだと思われる。この結果に、製薬開発部門チーフの高岡は、いい顔はしなかった。

「これまで色々と面倒を見てやったのに、新薬開発もろくにできないやつが、ワクチン開発なんてできるものか。うまくいかなくても、もう戻ってくるところはないからな。せいぜい頑張ることだ。」と嫌みを言われた。

どうやら貴志に対し塚原教授の強い後押しがあったことも気に入らなかったらしい。

翌年1月に中国で発生した新型コロナウィルスは猛威を振るい、全世界に感染が広がっていた。日本でもご多分に漏れずこの新型コロナウィルスの感染が拡大しており、それに伴い発症する肺炎で亡くなる患者が多数発生していた。当研究所も当局からの指示で特効薬とワクチンの開発を最優先に進めていて、自分も含め皆、休日を返上して開発にあたっていた。

貴志は、元いた世界で一度このウィルスの病原性を無効化することに成功しており、その研究過程を繰り返すことによって効率的にワクチンの早期開発に貢献していった。

開発は順調に進み、ワクチンは完成間近にあったが、それでも1年以上の歳月が流れていた。貴志の研究も塚原教授により最重要研究課題に位置づけられ、いくつもの検証と試行錯誤が行われていたが、なかなか完成するまでには至らなかった。その間も夕子の病状は、一進一退を繰り返していた。

そんな時、他社からこの新型コロナウィルスにより発症する肺炎を治療する特効薬が開発されたという知らせが入った。このウィルスによる被害が甚大であったため、新薬の認可は急ピッチで進められ、それまでに例のないスピードで認可が下りるだろうと報道されていた。高岡がチーフを務める当研究所の特効薬の開発は、他社に一歩遅れをとった形になっていた。高岡は、焦っていた。開発の遅れは、自身の将来に影響する。既に他社により特効薬が開発されてしまった以上、現在自分たちが開発している特効薬は、他社のそれより優れたもの、安全なものでなくてはならない。未だ他社の特効薬の効力は分からないが、それを上回る品質を持った特効薬を開発しなければ起死回生を図ることはできない。しかし、開発は、遅々として進まず高岡にかかるプレッシャーは相当なものになっていた。

ワクチンの開発は、順調に進んだが、貴志の研究はあまり進展が見えなかった。

ウィルスの病原性を無効化することはできたが、同時に癌細胞を撃退する能力も無くなってしまう。具体的には、癌細胞にのみ感染する方法(遺伝子操作)が見つからない。どうしてもがん撃退能力を有効化することができない状況が続いた。

今のやり方では駄目なのか。他の方法で無効化しなければ無理なのか。貴志の心には失意が広がっていた。

そんな時、やはり先輩研究員の伊藤弘から貴志の研究に参加したいとの話があった。

夕子のこともあり、この研究の完成に期待を持っていて、自分も完成に貢献したいと言う。貴志は、二つ返事で協力を承諾した。二人の目的は一つ、夕子を救うことにある。一致協力して、研究は進んだ。一人で研究するより二人で研究することによって色々な発想を試すことができた。伊藤の発想は、斬新なもので貴志には思いつかないようなこともあった。それは、このウィルスが持つ癌撃退能力は、このウィルスの癌制御遺伝子にあるのではないかというもので、この遺伝子を特定し、癌細胞の中だけで増殖し、癌細胞だけを破壊するように改変すればいいのではないかというものであった。

 そして、とうとう貴志たちは、ウィルスの癌細胞への撃退能力を温存した状態を確保することができたと思われる段階に至った。これでマウスによる実証実験に取りかかることができる。そして、ワクチンの完成にも大きく前進できる。二人は達成感と同時に大きな期待感を抱いていた。話は少し早いかもれないけれど、これで夕子の癌も完治させることができるかも知れないと思っていた。

しかし、喜ぶのはまだ早かった。マウスの実証実験では、残念ながら良い結果が出ない。癌撃退ウィルスをマウスに接種しても思うようにマウスから癌細胞が消えなかった。

なぜだろう。二人は焦っていた。夕子の病状は、いよいよ末期に近づいているような気配がある。早く完成して信頼性を認知してもらい実用化を図りたい。いや、認知を待っている暇はない。実用化する前でも夕子への接種を考えねばなるまい。


ある時、高岡が研究室を訪ねてきた。

「例の研究の進み具合はどうだい?。まだ、研究やってるんだろう。だいたい可能性がなさそうな発想だし、どうせ行き詰まってるんじゃないかと思って様子を見に来てやったよ。」

といきなり嫌みから始まった。相変わらずいやな奴だ。自分だって特効薬では、他社に先を越されたくせに、いい気なもんだと貴志は思ったが、適当に話を合わせておくことにした。

それにしても、あまりにも馬鹿にしてものを言うので、本当は実証実験ではまだいい結果は出ていなかったが、つい大きなことを言ってしまった。

「もうすぐ完成できると思います。マウスの実証実験でもいい結果が出ましたので...」と嘘をついてしまった。

「すごいじゃないか。もうすぐ完成か。これでおまえも一躍時の人だな。塚原教授も鼻が高いだろう。誰にも漏らさないからちょっと研究の成果を披露してくれないか。」

すごいじゃないかだと、コロッと態度を変えやがって、調子のいいやつだ。でも少しくらい教えてやらないとまた陰で何を言うか分からないし、少し自慢してやるか...。「今回研究しているウィルスは、癌融解ウイルスといわれるものに属していて、癌抑制遺伝子を持っていると考えられます。ウィルスは感染すると細胞に入り込み増殖して細胞を破壊しますが、この研究ではこのウィルスの癌抑制遺伝子を改変して、正常な細胞では感染はするが増殖はしない。癌細胞では感染して増殖するというように操作しました。それによって癌細胞のみ消滅させることができるのです。そして、この癌抑制遺伝子は治療遺伝子としても働いて癌を撃退します。つまり、ウィルスが増殖して破壊された癌細胞から免疫刺激作用のあるタンパク質や癌抗原などが放出され、それに対する免疫応答が起こって細胞傷害性T細胞が活性化し、体全体の癌細胞を探し出して攻撃するという効果があります。具体的な改変方法などは、今ここでお話しできませんが、確立しています。」

貴志は、研究の成果を肝心なことには触れないように説明した。開発した新ウイルスやデータも見たいというので一部を見せてやったが、この時、新ウィルスやデータの在処を知られてしまった可能性がある。

高岡は、いよいよ貴志が気に食わなかった。

塚原教授に目を掛けてもらってる上、とうとう研究まで完成間近かだという。自分は、特効薬で他社に先を越され、社内でも厳しい状況にあるというのに全く頭にくる。「ちきしょう不愉快だ。ふざけやがって、どうしてやろう...。」

高岡は、貴志の研究を盗む事を考えていた。そして、完成した新ウイルスはその効果が無いように変異させしまおう。研究は失敗するんだ。

深夜に研究室に忍び込んだ高岡は、先日貴志から聞き出した保管場所から新ウィルスを一部採取し、そして、ハッキングしたPCから研究データも抜き出して持ち去った。その後、自身の研究室で新ウィルスの検証を繰り返したが、貴志の研究データと一致させることはできなかった。高岡は、一連の検証の過程で貴志が完成した新ウィルスに対し、他社が開発した特効薬の成分と思われるものを検証する実験も行われ、この時、新ウィルスが凶暴に変異していったものと考えられる。その後、この変異した新ウィルスは、高岡によって貴志たちの研究室のウイルス保管場所にもどされたが、なんとこの新ウイルスは、他社が開発した特効薬に耐性を持つと同時により病原性が強力なものに進化していたのだった。ただ、高岡自身も変異した新ウィルスがこれ程病原性が凶暴化しているとは気づいていなかった。


貴志は、ほぼ完成したウィルスを厳重に管理していた。このウィルスは、もうすぐ突然変異を起こし凶暴化するはずだ。どうして凶暴化したのかを突き止める。そして、凶暴化したウイルスが誰か(伊藤)に感染する前に直ちに抹消してしまわなければならないと考えていた。考えられる凶暴化の可能性は、環境に何らかの変化があってウィルスが変異してしまったということ。環境の変化として考えられるのは、研究室の管理状態の変化だ。つまり内部の誰かによるもの。もしかすると伊藤さんかも知れない。そして、もう一つは外部の何者かによるウィルスの改変だ。前者は基本的にあり得ないと思うので、後者の可能性が極めて高い。貴志は、外部の何者かというよりもこの間も様子を探りにやって来ている高岡による犯行の可能性を強く感じていて、監視対策を施しておくことにした。具体的には、研究データが入ったPCには、後で誰が操作ハッキングしたか分かるようにPC操作ログソフトをインストールしておいた。監視カメラの映像もいざとなったら入手すればいい。もちろん、データは不完全なものにしておいて、完全なものは別の安全な場所に、新ウィルスもバックアップした。

それから何日かしてデータが入ったPCが誰かに起動された気配があり、果たして、研究データがコピーされたログも残っていた。

新ウィルスも採取された可能性がある。

その後は、新ウィルスの状態を随時点検していたが、ある時、明らかに新ウィルスに改変が加えられた形跡があり、貴志たちがほぼ完成させたものとは全く別のものになっていた。

これが凶暴化したウイルスか。安全に管理しなくてはならない。すぐに抹消してしまったほうがいいのだが、何をやったのか検証してみたい。とにかく、これを流出させなければいい。特に、伊藤さんには絶対感染させてはならない。

これでいつ新ウィルスが凶暴化したのかは、分かった。あとは、誰がやったかだが、このファイルの場所を知っているのは、伊藤さんと高岡くらいしかいない。やはり、高岡が犯人だろうか?。それにしても新ウィルスに対し、何をやったのだろう。貴志は凶暴化したウイルスを抹消する前にその検証をしてみることにした。すると無効化したはずの病原性が著しく強くなっていることが分かった。

1週間ほどして高岡が肺炎を起こし、入院したという話が伝わってきた。高岡は、自分が凶暴化したウィルスに感染してしまったのだろうか。やはり、高岡の仕業だったんだ。自業自得だと貴志は思ったが、やはり自身が研究しているウィルスが根源になっているので、責任を感じずにはいられなかった。「これはまずいことになった。ウィルスの感染拡大を阻止しなければ大変なことが起きてしまう。」貴志は、直ちに一連のことを上層部に報告し、感染拡大の阻止を訴えた。高岡の行動ルートをすべて調査し、感染拡大の動向を確認した。高岡との接触者については、すべてを調査し、その全員を隔離して体調の管理を行った。その結果、幸いなことに誰一人として発病することはなく、感染は拡大せずに事なきを得たように見えた。

これで、このウィルスの爆発的な感染拡大による流行は起こらない。そして、このウィルスにより夕子が亡くなることもない。時の流れは変わったんだ(元に戻った?)と貴志は思った。


新ウィルスのマウスによる実証実験が繰り返されていたが、依然、良い結果は得られなかった。癌細胞が消えるマウスもいたがその確率が極めて低い。何がいけないのだろうか。新ウィルスは完全なものではなかったのか。まだ、改良が必要なのかも知れない。いろいろな思いが貴志の頭の中を駆け巡っていた。貴志は、最初にこのがん撃退ウィルスの発想を思いついた時のことを考えていた。開発中のワクチンを間違って投与されたマウスは、このワクチンが効かず肺炎を起こして死亡した。なにか実証実験と異なる要素はないか。マウスは、肺炎を発病して死亡した。それは当然のことながら高熱を伴っていた。これかも知れない。高熱が必要なのではないか。新ウィルスは、病原性を無効化したため、高熱が出ない。まれに副反応により高熱が出ることはあるが、全てではない。貴志は、伊藤にこのことを話し、伊藤もその可能性に同意してくれた。早速、マウスを40℃の環境に置き、新ウィルスを接種してみた。するとマウスの癌細胞が、かなりの確率で減少していることが確認された。やはり鍵は、これかも知れない。貴志と伊藤は、小さくガッツポーズをした。

あとは、検証を繰り返し、データを集めれば実用化への申請ができる。しかし、40℃の環境はマウスの体力を相当奪ってしまうのか、発病しなくても死亡してしまうマウスが続出した。これでは、この新ウィルスを使用することはできない。いかにして安全に40℃の環境を維持するかだが、一定期間40℃の環境におかれたのでは、脱水症状などを引き起こし、マウス自体がまいってしまう可能性が高い。当然、人間の場合でも同じことが言える。なんとかしてこの問題を解決しなければ、この新ウィルスを癌治療に使用することはできない。貴志たちは、もう一歩のところでまた壁に突き当たってしました。まずは、脱水症状など高温による弊害を緩和する方法と高温環境に耐えられる限界値を調べることにした。


この間、夕子の白血病は、いよいよ急性憎悪し、予断を許さない状態に陥っていた。伊藤は、夕子に新ウィルスを投与することを決断をした。以前研究室から消えた一本は、伊藤の手にあったのだ。だがそれは、高岡が改変したウィルスということを伊藤は知らない。

40℃の環境は作れなくても副反応で熱が出て、環境が整うかも知れなし、たとえ熱が出なくても効果はあるかも知れないと伊藤は考えていた。もう夕子は限界レベルに達している。わらにもすがる気持ちだったのだろう。伊藤は、貴志には内緒で夕子に新ウィルスを投与してしまった。

1週間後、夕子は発病し、高熱を出して生死をさまようことになった。

貴志は、先輩研究員の伊藤を問い詰めていた。

「何て早まったことを。気持ちは分かりますよ。僕だって一刻も早く夕子に新ウィルスを投与したいと思っていました。」しかし、まだ安全に高熱状態を実現することはできていない。発病による高熱を利用するのはかけではないでか。一つ間違ったら白血病の前にこのせいで死んでしまう。

その後の治療で、夕子はなんとか全快したが、程なくして発病した伊藤は、治療の甲斐も無く亡くなってしまった。この時夕子に投与された新ウィルスは、高岡が凶暴化させたウィルスだったのである。伊藤が高熱を得るためにそのことを知っていてやったのか。そうとは知らずに間違えてしまったのか。今となっては永遠の謎である。


 これでは、元いた世界とどこも変わらないではないか。いや伊藤の死は防ぐことはできなかったが、新ウィルスの爆発的な拡大と多数の死者の発生は防ぐことはできたし、...」と貴志は自分を慰めていた。何といってもなぜか夕子の白血病は寛解しているし、元いた世界とは明らかに違うんだ。死亡した研究員の家族は死ななかったのだから、夕子は死ななかったのだから...。と。


貴志の研究は、ほとんど完成しているように思えた。しかし、その後の実証事件では、結局、高温状態を作り出しても貴志の新ウィルスが癌細胞を撃退することはなかった。どういうわけだか分からないが、なぜか高岡が凶暴化したと思われるウィルスには、癌撃退能力が高く備わっていたのかも知れない。しかし、それは既に抹消されており、今から実証することはできない。結局、貴志のウィルスには癌撃退能力は無かったのだが、夕子の癌は高岡のウィルス?により撃退された。時の流れが貴志にご褒美をくれたのだろうか。

ところが、この後、高岡が凶暴化したと思われる新ウイルスによるものか市中で爆発的なウィルス感染が起こってしまう。伊藤の接触者から感染が拡大したのか、それとも別のルートで感染が拡大したのかは分からない。

研究所の上層部は、研究所で製造された凶暴なウイルスがもれ、一連の感染拡大につながったことを把握していたが、それを承知でこの事実を隠蔽した。そんな事情というか事故もあり、貴志は、この凶暴化したウイルスの製造者として責任を擦り付けられ、自身の研究から外されることになったのだった。


なんと言うことだろう。これでは、自分がこの世界にタイムスリップした意味がどこにも無い。だいたい、自分は本当にタイムスリップしてきたのだろうか。夢でも見て何か思い込んでいるんではないのか。こうなっては、元いた世界なんて存在しないのではないかとさえ思えてしまう。

もしかして、デジャヴとはタイムスリップした時の記憶なのではないだろうか。何かのタイミングでタイムスリップして、その後元の世界に戻ってきた時のタイムスリップした時の記憶だとしたら、元の世界と思っている世界がタイムスリップした世界で今の世界が本当は元の世界なのではないのか。何が何だか、どれが正しいのかさっぱり分からなくなってきた。

貴志は、それを確かめようと再びあの山に登山してみることにした。可能な限りあの時の気象条件等を再現するように計画した。とは言っても日付と時間を同じにすることくらいしかできなかったが・・・。そして、あの時の絶景が再び貴志の前に現れた。貴志が同じように神聖な気持ちになっていると程なく日は昇り、あたりは通常の朝となっていた。「タイムスリップできたのだろうか。」しかし、当然のように夕子が現れることはなかった。貴志は今回は山頂を目指すことにした。すると登山の途中で誰かが滑落したような気配があった。貴志は、山岳救助に連絡を取り、このことを伝えた。その後の捜索で男の人が一人、登山の途中で急な岩場で滑落したらしいと言う情報が入ってきた。この日も、そんなことがあり、貴志は山頂へは登頂せず山を下りた。家に帰ってみるとそこにやはり夕子の姿があった。ということは、タイムスリップした世界なのか。それともまだ以前にタイムスリップした世界なのか。カレンダーを見てもそれは確認できた。やはり2度目のタイムスリップは起こっていなかった。

 翌朝の新聞で昨日の滑落者が高岡だと言うことを知った。この時、山に不慣れな高岡は急な岩場で足を滑らせて滑落してしまったのだという。でも、どうして登山など趣味ではない高岡が登山をしていたのかは不明で、不思議でならない。


第2部


貴志は、高岡が貴志を滑落したように見せかけて殺害しようと待ち伏せていたのではないかと疑念を抱いていた。この時、もし自分が滑落していたなら、それは、元いた世界と同じではないのか。あの時は、夕子が現れて、高岡から僕を救ってくれたということなのか。今回は、その前に高岡自身が滑落死してしまった。きっと何らかの理由があるのだろう。 もしかすると高岡は、自分が凶暴化したウィルスが市中にもれて爆発的な感染を引き起こしてしまったと思いこんでいて、僕が真犯人は高岡だと公表することを恐れて僕の殺害を計画したのだろうか。今となってもう真実は分からない。ただ、高岡がこれとは別の理由で僕の命を狙ったとしたら、それは誰かの指示なのか。もしそうなら、これからも僕は、誰かに命を狙われるのではないか。僕が生きていたのでは誰かが困るということか。


貴志は、プロジェクトを外れた後は、普通にワクチン製造の業務を行っていたが、特に命を狙われるというようなことは起こらなかった。

そんな中、貴志は研究所を離れた元ワクチン関連の研究員からあるプロジェクトの話を耳にする。この研究員は、現職の時にそのプロジェクトに参加していたが、そのプロジェクトの完成を見る前に定年退職で研究所を離れたという。

そのプロジェクトとは、どんな型のインフルエンザウィルスにも効果があるワクチンを製造するというものであった。インフルエンザワクチンと言えば毎年どんな型が流行するかを予測して、その型のワクチンを製造するものであるが、予測が外れてしまうなど非効率的なところがある。どんな型のインフルエンザウィルスにも効力があれば、もうはずれを心配をする必要もない。そんなワクチンを製造できれば、それは色々な面で多大な効果がある。

それがプロジェクトは、ある時、突然解散となった。プロジェクトが活動を始めたのは、どうやら僕が塚原教授にワクチン製造部門への異動をお願いした頃のようで、その後1年程度活動して解散している。そんなプロジェクトがあったなんて全く知らなかった。もちろんこのプロジェクトのリーダーは塚原教授で、このプロジェクトの実験は、なんと中国で行われていたらしい。例のコロナウィルスは、ちょうどその頃、中国で発生している。条件が揃いすぎていると言えないこともない。貴志の中で中国で発生したとされるコロナウィルスは、本当は、この研究所で製造されたものだったのではないかという疑惑が頭をかすめていた。

今回の爆発的感染は、高岡が凶暴化させた僕のウィルスが市中にもれて爆発的な感染を起こしてしまったという可能性が強いが、世間的には、コロナウィルスの変異による第5波とされている。本当にそうなのか。研究所の上層部はこの事実を隠ぺいしている。

高山が凶暴化したウィルスなのか、違うのかは調査してみればわかることだ。調べてみよう。貴志は現在流行しているウィルスの由来を調べて見ることにした。すると現在流行しているものは、やはり高岡が凶暴化した僕のウィルスであることがわかった。もともと中国で発生したものを使って研究を行っていたものだからそうなんだが、ということは、この研究所で作成されたウィルスを使って僕はあの研究を行っていたことになる。あの時、塚原教授はこのことを予感していたのかもしれない。

どうやら中国で発生したコロナウィルスは、この研究所で製造されたということが濃厚になってきたが、そのことは、世間の人はまだ誰も知らない。発生理由の事実は、限りなく中国が怪しいとされながらも判明しておらず、謎に包まれている。研究所が中国で流出させたウィルスを僕が研究したウィルスに濡れ衣を着せ、この世から抹殺しようとしたのだろうか。もし、この研究所で製造されたウィルスが中国での実験中に漏れたと知れたら、研究所は、いや日本は大変なことになる。

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