第二章 第1話 フロウラング
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小さな家がひしめき合う中に、その雑貨屋はあった。
ごたごたとした薄暗い場所は、あまりいい立地とは言えなかった。
昼だというのに光が乏しく薄暗いその店の扉を開けて、やや頭髪の後退した中年の男が数人の連れを伴い、中に入って来た。
その姿を見て、慌てて店主は店の奥から男の方へと歩み寄った。
短い挨拶を交わした後、店主はすぐに伝えるべき話を切り出した。
「トーラン家の人間が来ましたよ。」
報告を受けた男の表情が、僅かに動いた。
「いつだ。」
「つい一昨日です。」
「まあ時間の問題だったな…。」
低い声で、男と店主は話し合った。
しばらくして、中年客は酒瓶と菓子を幾つか買うと、連れの男達にそれを持たせて、店を後にした。
足が付いたこの店は当分使えなくなったが、大した問題ではなかった。
使い走りは幾らでもいた。
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翌朝、使用人の通用口で「よろしくお願い致します」と頭を下げたアミィは、情けなさと申し訳なさで、伏し目がちだった。
笑顔で頷いてくれたファゼルが執事のジャケット姿だったことは、アミィをちょっとだけほっとさせた。
アミィ自身は先日と同じ私服の外套と帽子の姿だったが、ファゼルが制服でいてくれると、少し仕事の様だった。
考えてみれば男性と二人きりでどこかに行くのは初めてで、仕事の雰囲気がある方が、幾らか緊張が和らいだ。
微笑んで彼女を迎えた執事見習いの青年も、実のところ幾分かは身構えていた。
グラナガン家に来て一月以上もの間、全く買い物に行けていなかった新人の娘は、困っている筈だと思った。男の同行者がいる方がいいというのは分かるし、問題を解消してやりたいと青年は思っていた。
だがアミィは自分に対しても怯えているのかもしれず、怯えながら半日過ごすのは辛いだろうと思うと、どうにも緊張してしまった。
だがアミィは実は初めて会った時から、ファゼルのことはあまり怖いと感じていなかったのだ。
声のせいかもしれない、とアミィは思っていた。
グラナガン家の二人の執事はどちらも口数が少なかったが、執事頭のダンがいつも厳しい表情をしているのに対して、ファゼルは静かで控えめな雰囲気の男性だった。
いつも落ち着いた声で喋る男性だった。彼は周囲の者まで落ち着かせる様な、穏やかな波の様な声の持ち主だった。
リディアが、ファゼルの話もしてくれたことがある。
「憧れている女中も多いんだけど、誰も寄せ付けない感じなのよね。当家の孫娘のアリスタ様と噂があったりして、誰も近付けないわ。」
そんなことを言って、そこからリディアはひとしきり、使用人同士の恋の噂話を聞かせてくれた。
ファゼルは黒髪に黒い瞳の、背の高い男性だった。
秋も終わりだが、暖かな日だった。
空が煌めく様に澄み渡っていた。
邸を出た二人は、グラナガンの長い鉄柵に沿って歩き出した。
グラナガン家があるのは、都市の大きな邸宅ばかりが並ぶ一画で、グラナガンの敷地は中でも一際巨大である。邸を出ると街路樹の植わる広い歩道を、まずグラナガンの敷地に沿って延々と歩くことになる。
アミィが歩くと、路行く人達の視線が、一斉に彼女に集まった。男も女も関係なく、皆ちらちらとアミィを見ていた。
だが声を掛ける者はなかった。
二人で歩くだけでこれ程違うものなのかと、アミィは驚いていた。
この時のアミィは、まだよく分かっていなかった。
グラナガン家の使用人服は都市で名高い。エンジ色の使用人服は洒落ている、とフロウラングの都市では評判で、その深い赤色は、称賛を込めて「グラナガン・エンジ」と呼ばれているのだということは、アミィもリディアから聞いていた。
だがグラナガン家の執事であることを示すエンジ色のジャケットが、抜群の人払い効果を発揮しているのだということには、アミィは気が付いていなかった。
フロウラングの者であれば、グラナガン家との揉め事は誰もが回避したかった。グラナガンはフロウラングのほとんどあらゆる仕事に関係しているのである。
突然前に立ちはだかられたり手首を摑まれたりせずに歩くことが出来て、アミィの強張りはゆっくりとほぐれていった。
落ち着いて街並みを眺められるのは、トーラン家の使用人に付き添われてフロウラングに到着した日以来だった。
物珍しさに、アミィは視線をあちこちに彷徨わせた。
フロウラングは、ガーランド国有数の良港を擁する、大きく豊かで、そして国中から観光客が集まる美しい港街である。
ガーランドの交通の大動脈であるルデリー川の河口に位置し、国内の他都市との往来も盛んであった。
グラナガンは、国内外の貿易で財を成した家だった。
目を見開く様にして辺りを見回しているアミィの様子に、ファゼルは気が付いた。
邸を出てまだ僅かも歩いていないというのに…。
邸の周囲すら、歩いたことがなかったのだろう。
少し考えた。
彼女が怖がる様子なら切り上げようと考えつつ、ファゼルは、遠回りすることにした。
今日の目的地と邸との最短経路は、帰り道に教えればよい。
見学までする時間は取れないが、観光客に人気の場所の前を通って行くくらいのことなら出来た。
「そこの公園が彫像で有名な場所です。」
しばらく歩いた時、そうファゼルに穏やかな声で言われて、アミィは広い道路の反対側の、鉄柵に囲まれた広大な金色の空間を見やった。
地面を金色の落ち葉の絨毯が覆っていた。その絨毯の上で、たくさんの巨木の枝が、空に網目を描いていた。そして金の絨毯の真ん中を割る様にして真っ直ぐに伸びる遊歩道が見え、その奥に、大きな白い彫像がちらりと覗いていた。
道路と木々を間に挟み、女性像らしき彫像はその一部しか見えなかった。それでも僅かに見える曲線は優美で、美しさを感じられた。
今度よく見てみたい。そう思いながらその前を通り過ぎて少し歩くと、今度は、「ここが市立博物館」、と言われた。厳かで立派な建物だった。
「その喫茶店は二百年前からある有名な店です」と言われた時、アミィはファゼルが自分に街を案内してくれているのではないか、と気が付いた。
見るもの全てが珍しかった。
幾つかの都市を歩いて来たが、唾や石で追われながら人通りの少ない路地を彷徨っていただけで、観光客が行くような美しい場所を、アミィは眺めたことがなかった。
ファゼルのさりげない親切にどうお礼を切り出すべきなのか、言葉に迷った。
アミィの精神には人間に対する抜き難い恐怖心が刻まれていて、まだ口を開くのに勇気がいった。
それはファゼル自身に対する感情とは、別問題だった。
「ありがとうございます、ファゼル様。」
勇気を振り絞る様にして、アミィはようやく、感謝の言葉を伝えた。
黒髪に黒い瞳の青年はアミィの方を振り返り、静かに微笑った。
数日前、ファゼルは庭の落ち葉を掃き集めるアミィの姿を見掛けていた。
ふと手を止め、ぼんやりと宙を見つめた彼女の表情が、彼の中に強く印象に残っていた。
庭に佇んだ彼女は、衝撃を受ける程、寂しそうな瞳をしていた。
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