第一章 第5話 誘惑
最近頻繁に訪れる面倒な客は、口数も多かった。
「凄いワインが手に入ってね。大陸産なんだ。」
鼻筋の通った顔立ちや、形よく整えられた優美な金髪は、女好きはするのだろう。
それが自分でも分かっている様子で、自分の言動に周囲が注目するのは当たり前と思っている不遜な雰囲気が、いけ好かなかった。
帰宅の客人の無駄なおしゃべりを、女中は無言で聞き流していた。
「大陸産のいい物ははなかなか手に入らないからね。ガーランドで売れば1本5百ランドにはなるらしい。大陸産の上質なのは以前にも飲んだが、芳醇で、滅多にない程豊かで美味でね。ワイン好きなら倍の値段でも買うそうだ。」
玄関まで送り届けようとしている客人の無駄口を、女中は黙って聞いていた。
聞きながら、そんなに凄いワインがあるのか、と思っていた。
一生に一回くらいそんなワインを飲んでみたいなとは思ったが、到底縁がなさそうだった。
「君にあげようか?」
「は…?」
余計な話を面倒に受け流していた若い女中は、ここで初めて聞き返した。
評判の悪い商家の息子はなんの躊躇いもなく、女中の頬に自分の口元が触れそうなくらい近くまで顔を寄せると、声を落とした。
「アミィのことを教えてくれたらね」
ああ、なる程。
女中のことを聞き出そうとする男は、昔から少なくない。だからほとんどの邸では、女中の私的な事柄を外部に漏らすことを禁じている。当然、グラナガン家でもだ。
「彼女の休みの日を教えてくれないか。君が教えたなんて分からないだろ。」
休みの日―――――――――――――—。
女中の瞳に、迷いの色が浮かんだ。
ザールは微笑むと、財布を取り出し、10ランド紙幣を三枚抜き出して見せた。
にっと笑い、彼はそれを、リディアのエプロンのポケットに入れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その夜、アミィが1ランドを持って執事室に現れ、執事見習いを驚かせた。
預けたいと言う。
1ランドは菓子でも買ってしまえば無くなる金額だった。預けるほどのお金ではない。
机の上に置かれた1ランド紙幣を見つめて、黒髪の青年はしばし戸惑った。
「1ランドを?」
向かいの椅子に腰掛けたアミィは、無言で頷いた。
執事見習いはなおも数秒困惑していたが、突き返す理由もない。
結局立ち上がると、戸棚の鍵を開け、アミィの帳面を取り出した。
机の上で彼女の帳面を開き、黒髪の青年はそこに奇妙な記録を見た。
アミィは二度出金していた。
そして二度とも次の日にそのままの額で戻されており、アミィの多額の所持金は、全く減っていなかった。
先日給金が支給されていたので、更に増えている。
これはどういうことだろう。
たまたま全てダンが手続きしていた。
ここしばらく外出が続いているファゼルがアミィの記録帳を開いたのは、彼女の受け入れ書類を確認した夜以来だった。
この奇妙な入出金の記録に、ファゼルは今日初めて気が付いたのだった。
机の向こうの彼女を見つめた。
アミィは伏し目がちにして、じっと黙っていた。
少しの間考えて、黒髪の青年は穏やかな声で切り出した。
「――――――アミィ、必要な物は買えていますか?」
「えっ…?」
執事室の大きな机を挟んで向き合って腰掛け、黙ってファゼルの事務作業を見つめていたアミィは、不意を突かれた様に顔を上げた。
「立ち入ったことを訊いて済みません。ですがお金をほとんど使っていない様なので。この邸に来てから買い物には行けてますか?」
「………………」
突然の問いに、アミィは少し動揺した様だった。
「もし店の場所が分からないようなら教えますが……」
ファゼルがそう続けると、彼女は何か言いたげにした。
だが結局アミィは俯いた。
「大丈夫です――――――………」
「………」
僅かの間、部屋に沈黙が落ちた。
「1ランドは預けますか?」
ファゼルが問うと、アミィは頷いた。
やや躊躇ったが、結局ファゼルは彼女の帳面に1ランドの入金と、現在の預かり額の総額を書いて自分の印を押し、それからアミィに署名をさせ、お金を金庫に入れた。
預け入れ作業が終わると、アミィは一礼して、部屋を出て行った。
彼女は日頃どうやって暮らしているんだろう。
邸にいれば食事は支給されるから生きてはいけるが、全くお金を使わないのは難しい。
仕事でも支給品に含まれず、自分で用意しなければならない物はあるし、休日にどこかに出掛ければ外で飲み食いもする。
気に掛かったが、いつも怯えた様にしている彼女の事情に踏み込むことが躊躇われた。
その疑問が解けたのは、しばらく後のことだった。
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