第一章 第4話 道楽息子
「レディビル様。こちらで何を。」
にこりともせずに、黒髪の男は言った。
アミィは自分の横に現れた青年を、驚いた表情で見上げていた。
すっかり白けた顔で、ザールは執事服の青年を見つめた。
すぐそこの扉は閉まっていなかった様だし、そこにいたのなら聞こえていた筈だった。
「固いこと言うなよ。」
肩をすくめながら憮然としてそう言った商家の息子の言葉を、ファゼルは受け流した。
「こんなことをされては困ります。応接室はこちらです。」
ただそう応えて、青年は先に立ってザールを促した。
金髪の男はまだ未練ありげにアミィを見ていた。少しの思案の後、男はにっこりと微笑んで見せると、アミィの顔に自分の顔を無遠慮に近寄せながら、折り畳んだ紙幣をもう一度彼女に差し出した。
その近過ぎる距離に、アミィは怯える様子を見せた。
ファゼルは振り返って、やや強い目でザールを睨みつけた。
アミィは受け取ろうとしなかった。
ザールは少し困った様な表情を見せたが、ちょっと考えて、結局アミィのエプロンのポケットにそれを滑り込ませた。そして再度にっこりと笑って見せ、それからようやく、表情に苛立ちを見せていた執事の後ろに従って、去って行った。
ザールを連れて応接室に向かう途中で、ファゼルは馴染みのあるクリーム色の髪の女性と行き会った。
使用人仲間のマリアンだった。
マリアンは一応横によけて客人を先に通したが、冷たい瞳で自分の前を通る客の男を見つめ、頭すら下げなかった。
「無礼」と言われかねない態度にファゼルは内心ひやりとしたが、ザールが気に留めた様子はなかった。
二人が通り過ぎると、マリアンは速足で去った。
アミィの方へ向かったようであった。
「アミィ!」
窓拭きを再開しようとしていたアミィは、やや大きな声を上げながら現れた先輩女中に、驚いて振り返った。
マリアンだった。
マリアンはみんなから慕われ頼りにされているお姉さんの様な女性で、美しい人である。
「大丈夫だった?!今ここに道楽息子が来たでしょう?!」
道楽息子。
状況からしてザールのことだろうとは思ったが、アミィは咄嗟に返事が出来なかった。上流階級の客人をそんな風に言ってもいいのだという発想がなかったために、彼女は驚いてしまったのだ。
飴色の瞳を見開いて言うマリアンの勢いに気圧される様にして、取り敢えずアミィは慌てて二回頷いた。
「ファゼがいたみたいだからよかった。アミィ!」強い口調でそう言って、マリアンはアミィの左の手首を、力を込めて握った。「あなた何かされそうになったら強く言わなきゃ駄目よ!!」
先輩の語気の強さと迫力に圧倒され、アミィは言葉もないまま、何度も頷き返していた。
執事というのは邸の中で主一家の次に偉い人、とアミィは認識していたが、マリアンはファゼルを呼び捨てにしていて、更には時折名前を短縮していた。
リディアの話によると、マリアンとロウジーとファゼルは、同じ頃にグラナガン家で働き出したそうで、そのせいで親しいのだそうだった。
邸内をふらふらと歩き回っているザールを見付けたマリアンは、道楽息子がアミィが作業をしている筈の場所に向かったのに気が付いて、急いで後を追って来たのだ。ファゼルがいたらしいことを知って、先輩女中はほっとしていた。
マリアンがザールを「道楽息子」呼ばわりするのは、無理もなかった。
この商家の息子の放逸な行いは幾つも噂されていて、女癖の悪さでは特に悪名が高かった。彼に弄ばれて、自殺した女性がいるらしいとすら囁かれている男だった。
札付きの商家の息子は、だがこの日素直に帰りはしなかった。
男はもう一つ悪事を重ねて行き、そしてそれが後に、とんでもない事件を引き起こすことになったのである。
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