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エスメラルダ  作者: 古都里
余話 落花流水
89/93

8 慨嘆

 レーシアーナが目を覚ますと、室内は暗く闇に閉ざされていた。

 蜜蝋が溶けてしまったのだと、レーシアーナはぼんやりと思った。

 とはいえ、窓から微かに月光の光が差し込んでいるので、辛うじて一寸先は闇とまではいかない。

 意識が何故かひどくぼんやりとしてしまっているレーシアーナは、ただ、月が綺麗ね、そう思った。


 そのまま目を瞑りかける。

 寝るならベッドへ行くし、その前に夜着に着替え洗顔と歯磨きをする、レーシアーナはそういう風に生きてきたというのに、今はどうしても起き上がる気すらしないのだ。

 床は絨毯に覆われてはいるけれど、寝心地が良いのはベッドに決まっているというのに。


 身体が鉛のように重い。

 頭も身体もズキズキとする。

 酒が悪さをしているのだという答えを出す事を倦怠感が邪魔をして。

 やはり寝てしまおう、そう目を閉じた瞬間。


 ふと、扉の外が騒がしくなったような気がした。

 その瞬間にレーシアーナは覚醒する。


 レーシアーナの居室の隣はブランシールの部屋なのだ。だから、レーシアーナの部屋の近くが騒がしいと言う事はブランシールに、彼女が愛する男に何かあったかもしれないという事で。

 腕一本持ち上げるのも億劫だと床で二度寝をしようとしていた女とは別人のようにレーシアーナは跳ね起き、そのままの勢いでドアを勢いよく開ける。

 あっさりとドアが開き、淡い青を湛えた瞳が驚いたようにレーシアーナを捕えた。


「ブランシール様……」


 レーシアーナの声は微かに震えている。

 兵士達が敬礼し、静かに素早くその場を去るのが見えて、レーシアーナの脳裏に記憶が走った。

 酷く、思考を手放していたのだとレーシアーナは知った。


 そうだ、どれだけ床で倒れ伏していたのかは解らぬけれど、倒れるほんの少し前にこの身はブランシールのものになったのだ。挙句、妻に娶ると宣言され、承知したのにも関わらず……


――信じてもらえなかったのだ。


 詰る言葉が喉でつっかえる。悔しい、悔しい、ブランシールはレーシアーナという人間を全く理解していないのだ。はい、と、そう言ったならばそれをレーシアーナは今まで貫いてきた。ブランシールを適当な言葉で騙したり誤魔化したりした事などないというのに!


 はい、を信じ切れずに妊娠の可能性を駄目押しにしてくるだなんて!


 せめて睨みつけてやりたいと思った瞬間、強く身体を引かれ、そのまま腕に籠められた。

 ぎゅうぎゅうに抱きこまれて、息が苦しい。

 泣きたくないと思うのに、勝手に溢れるものがブランシールの胸元を濡らしてしまって、濡れた布が顔に張り付いてくる。


 どうして、どうして?

 悔しい、悔しい。


 信じるに値しない女を、何故こんな風に抱きしめるのだろうと、レーシアーナは泣きじゃくりながら思うのだ。

 けれど、それでも、それでも好きなのだ。好きで好きで仕方がない。信じてくれなくても、そんな事が些末事に思えるのは何故なのだろう。失望出来たらどれだけ楽だろうか。


 腕の力が不意に緩んだ。

 咄嗟に、レーシアーナは彼の胸を両手で叩いていた。

 壊す(・・)ための動作ではないそれは子供の駄々のようなものだが、ブランシールに手をあげるような真似は今まで一度足りとてした事は無かった筈なのに、何故今そうしてしまうのか。けれど、彼女は気付いていないが、それが二人の間には必要な行為だった。


 感情に飲み込まれるままレーシアーナの唇が心を紡ぎ始めた。


「信じて下さい! 信じて! どうして、どうしてお疑いになるの!? どうして信じて下さらないの!? わたくしは……! わたくしは……!!」


 言葉を遮るように無粋な割り込みが入った。夜、二十一時の鐘の音、一日の最後の鐘だ。

 泣いてしまう事は人生の中でそれなりにあったけれど、泣きながら喚いたのは初めてだ。

 けれど止められずに、レーシアーナはブランシールに沢山のものをぶちまける。


 レーシアーナはブランシールを信頼していたし、彼が自分を組み敷いた事にも彼の理由があったのではないかと、そう思うから何故なのだという思いで一杯だった。


 レーシアーナの信頼を砕いたのはそののやり方だった。そう、最初に信頼を砕いたのは、レーシアーナを信じなかった彼の、行動・・

 次から次へと詰る言葉が溢れて、止まらなくて、誰も止めてくれなくて。


 どれくらい経ったのかレーシアーナには解らない。

 気が付いたら声が枯れていて、脱力した身体をブランシールに支えられていた。

 そうして、無言でいた時間がどれくらいのそれか、やはりレーシアーナには解らない。一瞬かもしれないしとんでもない時をかけたのかもしれないが、どうでも良かった。時の感覚が解らない程にぐったりとしていると、やっとブランシールが口を開いたのだ。


「……幾らでも謝る。幾らでも不満を聞こうとも思う。けれど、申し訳ないと思うべきなのに……お前がやっと、現で本物の感情を僕に向けてくれた事が幸せだと感じてしまうんだ」


 ブランシールは何を言っているのだろうかレーシアーナには解らない。言葉で煙に巻く時は、彼はもっと騙す力のある言葉を選ぶ人間なのに。


 ただ、ブランシールはやはりレーシアーナの事を信じていないのだと、そう感じてしまった。

 彼は今までのレーシアーナが本物の感情を向けていないと、そう言ったのだ。彼は今までのレーシアーナに誠が無いと、そう言っている。


「わたくしは、今までだって何時だって、嘘など吐いては……」


 レーシアーナの言葉は途中で食べられてしまう。ブランシールの唇がレーシアーナの唇を奪ったのだ。


 優しいキスだった。

 レーシアーナの彼への想いが、ブランシールと出会ってからの彼女の生き方総てが、偽物だとでも言わんばかりの事を言いながら、キスが優しいだなんて、余りにも酷い侮辱だと思うのに、腕の中から逃れて口接けを終わりにするには力が足りない。だって、壊すという選択肢は無いのだから。

 そして、酷いと思うのに、受け入れてしまうのは何故なのか。

 唇を何度も食まれ、舌でなぞり、堪らずレーシアーナは口を開いてしまった。あっさりと熱い舌の侵入を許してしまう。口腔を嬲られると、脳髄が蕩けそうになる。レーシアーナが溶けてしまう、失くなってしまう、だから、そうならないように……気が付けば応えている。


 無我夢中で、長い長いキスをした。


 舌が痺れを訴え始めた頃、互いに唇を解放しあう。

 腕に捕えられているせいで、近過ぎて、却って表情が解らない。


「レーシアーナ、これからの僕達の事を話そう。長い話になると思うけれど、一晩二晩では足りない話になるだろうけれど、付き合ってほしい」


 ――嗚呼、何故わたくしは頷いてしまうのかしら




◆◆◆

 ブランシールの部屋で、レーシアーナは差し出された水の入ったグラスを一気に空にした。まだ足りないと思った瞬間にブランシールがレーシアーナのグラスを満たす。彼が自らレーシアーナの為にグラスを満たすのはこれが初めてだった。


 役割を、お互い交換したかのようだとレーシアーナはふと思った。

 今までのレーシアーナならば、恐れ多いと思うと同時にきっとブランシールが酌のような行動をする事を止めていただろう。全力で彼の好意に感謝の言葉を述べながらも辞退していたと思う。

 素直に注がれた水を飲んでいる自分に違和感を覚える。けれど、レーシアーナが水を飲むというただそれだけの行為をブランシールはとても幸せそうな、甘い表情で見守ってくるのだ。訳が解らない。


 ソファで、向かい合うのではなく隣に座る彼との距離は近過ぎる。

 今日という日は、何もかもおかしい。


 けれど、一番おかしいのはわたくしかもしれないわ。


 三杯目を当たり前に注ごうとしたブランシールをレーシアーナはもう十分に潤ったと断る。遠慮でもなんでもなく、もう大丈夫だから断る……。それ(・・)もまた、初めての事だ。

 侍女である筈なのに、まるで今の自分はブランシールと対等のように向きあっている。訳が解らない。


 信じてくれと叫んだ事からして、おかしかったのかもしれない。日頃の彼女なら、大それた事だと飲み込んでいたに決まっている言葉だろう。


 ガラスのピッチャーをブランシールは机に置く。そこに浮かぶのはかなりの氷の量だが、それを用意したのはレーシアーナでも他の侍女などでも無くブランシール自身だった。レーシアーナは正餐の為の侍女を手配出来なかったのだが、それは部屋に閉じ込められている状態だったのだから仕方ない。そしてブランシールも恐らくそれで良しとしているのだろう。王子である彼は、レーシアーナが手配しなくとも、一言発すれば侍女なり従僕なりが大急ぎで馳せ参じる、そういう生まれなのだから。それを証明するかのように、兵士にレーシアーナのドアを閉ざせという命令を彼女を通す事なく行って見せた。

 レーシアーナ以外の侍女の為の控室から何の気配もしないというのは、ブランシールが望まないからだとしか言えない。しかし、彼らしい。


「何から話そうか……僕はお前に懺悔する項目を作り過ぎてしまったんだ。十四年分の懺悔は、流石に半年くらいかかりそうだから……それに、どうしても言いたくない事もある。この期に及んで保身とはみっともない限りだと、解ってはいるが、拷問にかけられても言いたくない。……すまないが急務の用件から、まずは話しをさせて貰ってもいいかな」

「はい」


 ブランシール様が何を懺悔しなければならないというのですか、と、昨日の自分ならば言っていただろうとレーシアーナは思う。

 レーシアーナは自身がひたすらに不忠と不敬、そして立場を弁える事を知らない愚かな行動を取ってしまっているような気がしていた。それでも、それを元の自分の思考言動に切り替える事が出来なくて。そんな自分を不敬だと思うのだけれど。


 だが、レーシアーナのそれは思い違いだ。今の彼女は過去のどの彼女よりもブランシールに対して己の心のままに素直な状態で向き合っている、つまり、人として最も誠実な態度で愛する男の話を聞こうとしているのだと、彼女は気付いていないだけだった。

 不敬だの恐れ多いだの自分を押し殺していた彼女は、嘘をついてはいないけれど、彼に自身を偽っていたのだ、無自覚に。


 今のレーシアーナは、自身への困惑で少し揺れながらも、過去十四年間で最もブランシールに向き合っている。


「お前は僕の卑怯なやり方に気付いていただろうと思う。軽蔑されてでも、お前を手に入れる為なら卑怯を貫こうとは思ったんだ……けれどね、事情が変わってしまった。こんなものをお前に見せる事になるとは僕も完全に想定外だったんだけれど」


 苦笑を浮かべながらブランシールは懐から薬入れを取り出した。金銀宝石ではなく、木で作られたシンプルなそれを細くしなやかな指が開ける。

 中に入っていたのは、琥珀のようなもの。爪の先ほどの欠片が数粒。


「これが、『蜜』。舐めるか否かは最終的にお前の判断に任せるよ。ただし、その判断を下す前にだ、少しこの忌々しい物の説明を聞いて欲しい」


 レーシアーナはそれに目を奪われた。

 淡々と、ブランシールは『蜜』と呼ばれる避妊薬の余り知られていない百万分の一のリスクを説明するが、レーシアーナは途中で遮ってしまった。ブランシールの気が変わったら、彼は容赦なくそれをひっこめるだろう。そうしたら、恐らく十二時間のリミットに間に合うように何処かから手に入れる事は出来ないに決まっている。


「百万分の一なんて、そう起こる出来事とは思えませんわ。どうか、わたくしにそれを……お願い致します」


 その百万分の一に該当したところで何だと言うのだろう。ブランシールが妻にレーシアーナを迎えるにあたって、子供が出来るのは結婚後の方がブランシールの体面を守れるのではないかと思うのだ。仮にレーシアーナが命を失う事になろうとも、彼の体面に傷はつかないとレーシアーナは思った。命を粗末にする心算は無い、けれど、その選択肢でブランシールを守れるのならば……。


「お前が判断する上で、気に留めて欲しいのはリスクと、そのリスクが発生した場合に僕がとる行動だ。簡単に言うよ。僕はお前が損なわれたら、生きていける気がしない。蜜によるアナフィラキシーがもし起きたら、その時は僕は自分の身を自分で片付ける」


 レーシアーナの瞳が驚愕に大きく見開かれた。そして、ブランシールの言葉の意味を理解してしまった。

 馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ。この男は馬鹿で、そして卑怯過ぎると言うものだ。


「な……にを、何を馬鹿な事を! 何故!? いえ、何故とかはどうでも良い事ですわ。わたくしは、嫌です。なんて酷い言葉でわたくしを脅そうとなさるの!? 貴方は……そんな……どうして……」


 はったりだったら良いのに。

 十四年間見つめ続けてきたレーシアーナは彼の言葉が本気か戯言かが解ってしまう。本気だ。完璧に本気で彼は『蜜』でレーシアーナが損なわれたら彼女を一人で逝かせないと決めているのだと誰より傍に居た自分には解ってしまう。


 けれど、何故?


 穏やかで落ち着いた瞳を浮かべたレーシアーナの王子様。何処か満たされているかのようなリラックスした表情は、真剣な表情の時の何倍も諦観している事をレーシアーナは知っているのだ。その顔をひっかいてやりたいと思う程にレーシアーナには憎い。彼は、何かが嫌で逃げ出すとかではなく、そして、覚悟すら必要とせずに当たり前に己の言った事を成し遂げるだろう。レーシアーナが彼の世界から消えたら躊躇う事なく行動に移るのだろう。


 レーシアーナが失われたならば命を捨てるという、こんなブランシールをレーシアーナは知らない。けれど、ブランシールなのだと本能が告げる。馬鹿な言葉を紡いだのは間違いなく愛する男なのだ、嫌になるけれど。


 けれど、何故?


「単純に『蜜』を授けて下さらないという考えから方針転換なさったと思ったら、もっと酷くわたくしを追い詰めるやり方を取られるその理由は? 何故そこまで……何故そこまでわたくしを甚振いたぶられるのです!? わたくしが、気付かずに貴方様の気分を害してしまっていたのですか!? その罰を下されているのだとでも!?」


「お前に犯した総ての罪を懺悔するならば寝食放り出して休みなく懺悔して半年はかかるのが僕だ。罰を受けるべきは、お前ではなく、僕だ。お前が何をしたというんだい? でもね、神とやらの裁きはごめんだって思ってた。僕を裁いて良いたった一人の存在はお前だと僕は決めていたのにね。……腹立たしい事に遠慮申し上げていた筋から罰が下ったらしい。僕は『蜜』を舐めるか否かの判断を委ねる心算も、当初全くなかったのに。そう、即座に婚約を公布して婚姻の準備に入る心算だったから、婚約成立してからなら何時妊娠しても問題無いと判断して色々と動いていたんだけれど……人生が思い通りにいった事なんか一度も無かったけど、また上手く行かなかった、それが口惜しくて堪らない。総て思うように行ったならば、仮にお前が身籠ったとしても式の予定が早まるかもしれない、それだけだったのに」


 何を言っているのだ、この男は。確かにレーシアーナの王子様であるけれど、知らない表情ばかり見せつけて。


「貴方がわたくしには解りません。何を仰っているのかが全く解りませんわ」

「簡単な事だ」


 不意にブランシールの瞳に昏い光が灯った。


「婚約の発表が、すぐに行われる状況ではなくなった。だから、僕はお前に『蜜』を差し出して選んでもらうしかなくなったんだよ。非常に不本意だけれどね」

「ああ」


 レーシアーナは間違えて納得した。

 ブランシールはレーシアーナなんかを本当に娶ろうと正餐の時に王に奏上して……。


「国王王妃両陛下、もしくは王太子殿下が反対なさったのですね? でも、それは、それこそ当たり前ではありませんか」


 侯爵令嬢としてのレーシアーナではなく、侍女としてのレーシアーナを選んだのは彼女自身。ブランシールに全てを捧げる為の選択をレーシアーナは悔いる気は無い。それ故、まるで娘のように愛でてくれた国王と王妃が、その息子である王太子が、反対するのは至極もっともではないだろうか。仮にレイデン侯爵令嬢であると主張しても、『ポニー』もしくは『木馬』そう献上されたのがレーシアーナなのだから。

 寧ろレーシアーナは当然の反応だとホッとさえしたのに、ブランシールはそうじゃないと首を振る。


「反対はされていない。反対ならば説得しただろうし、王族の権利が認められないというのは……よほどの事だ。寧ろ母も兄も喜んでくれた。この日を待っていたとか、やっと覚悟を決めたと褒めてくれさえした。……それなのに一人だけ、何の言葉もそれに関して発言する事なく、空気を読まずにこの世から退出なさった方がいたんだ」

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