6 似た者同士
何故こうなっているのだろうとブランシールは思う。
何故自分はグリザベラ・シェン・カーに押し倒されているのだろうか。
応接室、助けを求める事が出来ない訳ではない。何とか足掻けば、恐らく鈴を鳴らす事は出来る。そうすれば、人が来るのだ。
問題は、ブランシールの部屋のどの鈴であろうと応えるのはレーシアーナ、なのだ。
この姿は、流石にレーシアーナに見せたくはない。
何故グリザベラがブランシールを押し倒さねばならないのか、幾ら考えても解らない。
だというのに、グリザベラは妖艶に笑う。
グリザベラが纏う胸が零れ落ちそうな露出の多い面妖なドレスがひどく違和感を搔き立てる。グリザベラはそういうドレスがたとえ流行であれども嫌っていた筈だというのに。
メルローアでは、未婚の男女が二人きりになろうとも咎められる事は無い。微笑ましいとすら言われることがあるくらいだ。
既婚者には絶対のタブーであるが、未婚である以上は別にどうと言う事もない。
が、タブーでなくとも、ブランシールにその気は無いのだ。
何故なら、妖艶な笑顔を浮かべながらグリザベラはとめどなく涙を零しているのだから。
声を上げずに無くグリザベラは震えている。
こんな状態の女に何か出来る訳がない。奔放な生活から足を洗ったからと言うだけではなく。
「グリザベラ嬢……申し訳ないが、僕は……」
ブランシールを押し倒しているのは女の細腕。逃れるのはそう難しくは無い。
おまけに、グリザベラは恐怖しながら男を押し倒しているのだ。
「……必要なら、どんな女でも抱いて見せる方が何を仰るの?」
王太子と第二王子が催した私的な夜会、エスメラルダという少女がその美貌と振る舞いでその夜に集った全ての人間に君臨した夜から十日が経っていた。
フランヴェルジュが叔父の腕を持ってしても描き切れなかった奇跡のような娘に完全に心を奪われ恋に落ちてから十日。
だが、グリザベラがフランヴェルジュとの関係を終わらせたのは夜会の前であり、フランヴェルジュの心に完全にエスメラルダが住まうようになる前だ。
「グリザベラ……いいえ、姉さんお願いですから、無茶を言わないで」
ブランシールの口調が幼い頃のそれに戻る。
アユリカナの三人の子に乳母はいない。
しかし、育児の助言を授けてくれ、時に共に悩み苦しみ、そして笑いあった女はいたのだ。
その女の名をフォトナ・リーズ・カーという。グリザベラの母親であり、そして女官長を務める女であった。
フランヴェルジュとグリザベラは、一か月違いで生まれた、同じ年齢の子供だった。アユリカナの子供達とフォトナの子供達は兄弟姉妹のように育ち、それこそブランシールにとってグリザベラは姉のようなものだったのだ。
「姉のような者とは番う事は出来ないとでも?」
グリザベラの口調も幼い日のそれのように敬語が抜ける。
何時の間にか、涙の雨は止んでいた。
けれど、泣いていた跡はグリザベラの頬にくっきりと刻まれている。
小さく笑いながら、グリザベラはブランシールの銀髪にその手を滑らせる。
グリザベラでなければ、ブランシールはあっさりとその腕から逃れ、そこかしこに潜む見張りの兵を呼んで放り出していたに違いない。
「姉さん、……どうみても、自棄になっているようにしか僕には見えない」
グリザベラとアシュレの間には僅かながら親交があった。
エスメラルダとフランヴェルジュが出会ったあの夜会は亡き人を悼む会と言う建前上で催された。その建前がある以上、グリザベラを夜会に呼ばないとすれば要らぬ騒ぎを呼んでいただろう。
それでもブランシールはグリザベラを呼ぶか否か迷いはした。だが、結局、グリザベラとフランヴェルジュの関係はとっくに終わっている以上、彼女を呼ばないという事は出来ないのが慣例だった。グリザベラに無礼だろうと兄に言われると、ブランシールとしては反論出来る事は無かった。
フランヴェルジュのかつての恋人は他にも二人招かれていた。未婚者の恋の終わりでは、別に珍しくもなんともない出来事。そんなものだ。
想定外であったのは、フランヴェルジュの溺れ方だ。あそこまで兄が自分を律せなくなるなど誰が想像出来ただろうか。
『悪い虫をつかせたくない』
何処から何処まで真面目な表情で頼まれ事までした。フランヴェルジュとブランシールが交互にエスメラルダと踊る事になったのはそのせいであった。
夜会の出席者達は王太子と第二王子の催す夜会に喪服で現れた平民の娘の存在に驚愕した。あの女は何者だと騒然となる会場をフランヴェルジュは彼らしくもなく放置した。対応する余裕が精神的に無かったのだろう。
結局、誰かがその娘の正体に気付いて、それは一瞬で出席者の大半に伝わる事になった。断定するには情報が少なすぎたにもかかわらず、だ。
あの女嫌いの公爵様を狂わせた娘よ。
身分を持たぬか弱い娘を蔑む言葉を必死で探す。王子二人を独占する平民に過ぎない娘。けれど、身分以外でエスメラルダを貶める言葉を見つけるのは困難としか言えず、エスメラルダがその夜に君臨するのを誰も阻む事は出来なかった。
数日後、王宮の夜会でレイリエが毒をばらまくまで、誰もエスメラルダを本当の意味で貶める事が出来なかったのだが、今大事なのはそれではない。
大事なのはグリザベラが愛する男が恋に落ちた事。
「酷く惨めなのよ。自棄にならないでいられる程わたくしは強くは無いわ」
グリザベラの口調は落ち着いている。
「だから逃げる事にしたの。……わたくし、修道院に入る心算よ」
「何を馬鹿な事を!」
グリザベラの言葉が齎した衝撃はブランシールには青天の霹靂としか言えぬものであった。
何故そんな事を笑いながら言えるのだ? 俗世を捨て、俗世での縁をも捨てる事になるというのに。
「何故修道院!? 誰がそんな馬鹿げた考えを吹き込んだんだ!? 姉さんが修道院なんかに行かなければならない理由が解らない!」
ブランシールの声が知らず大きなそれになる。
「わたくしはもう、二十一、なの」
すぅっとグリザベラの顔から表情が消える。
「わたくしだって、フランヴェルジュ様に抱かれる事を夢見ていたわ。でも、酷いの、あの方は欲の処理にすらわたくしを使って下さらなかった! それでも、それでもよ? あの方がいつも仰っていたように誰も愛する事が出来ないでいらっしゃるのならば、十年後も二十年後も、いえ、死ぬまで! 何時まで経っても清い身であったとしても、ずっと! ずっとお傍に居たでしょう! でも!」
でもフランヴェルジュ様は恋を知ってしまったわ。
その言葉をグリザベラは飲み込んだ。
夜会で、喪服の娘を腕に籠めて踊っていたフランヴェルジュの表情は、幼い頃兄弟のように過ごし、一時期は彼の恋人と呼ばれる立場ですらあったグリザベラですら知らない表情だった。
誰も愛せないのなら、グリザベラ以外の妻を娶る日が来てもきっとグリザベラは耐えられたのに。いや、耐えるのではなくもしかすれば幸せだと感じたかもしれなかった。
「姉さん……」
「憐れまないで」
グリザベラは深呼吸をする。
「勝てない戦いはしない、というか、逃げるが勝ち、そう思ったの。逃げ切って見せるわ。男である王太子殿下が追ってくることも無い場所へ行きたいの。それを叶える場所は修道院以外思いつかなかったわ……とはいえ」
グリザベラは再び深呼吸をし始めた。何度も何度も息を吸い、そして吐いて、そしてやっとこさ続きを口にする。
「わたくしの総てを差し上げたくてフランヴェルジュ様以外の男達の美辞麗句を、総て無視して守ってきた純潔が重くてたまらないの。未練が湧き水のように湧くの。他の誰かになんて頼めないから貴方に縋っているのよ。お願い、どうか、吹っ切れさせて」
修道院に入る前の人間関係を、修道女となる者は捨てて、信仰に生涯を捧げる。
修道女となってからふしだらを働く事は許されないけれど、修道女になる前の事を詮索される事は無い。
しかし、段々とブランシールは冷静さを取り戻しつつあった。
馬鹿げている。本当に馬鹿げている。
「姉さん、一度の失恋で何もかも捨てる事は無いと僕は思います」
ブランシールはゆっくりと言葉を紡ぐ。何故かその言葉がグリザベラの耳にはこの上なく優しい言葉に聞こえた。
「兄も知らない僕の秘密、姉さんにだけ、打ち明けます。僕の玉砕回数というやつです」
「?」
何事を言いたいのだろうとグリザベラは思ったが疑問を口にする前にブランシールが続けた、その内容は。
「五歳で敗北してから今までの玉砕数、しめて九百八十七回。でも、僕は世を捨てて逃げる事はしません」
「きゅうひゃく……?」
グリザベラは数字の意味がまだ解らなくて混乱する。
そんな彼女に、ブランシールは笑顔を作って見せた。
「九百八十七回、僕はレーシアーナに失恋しているんです」
「そんなわけ……!」
「あるから未婚なんです。王族の責務を理解しながら……ね」
メルローアの王族として生まれたならば、スペアを量産する事が何より大切な責務。
血が絶える事なきように。
その責務と真っ向から対立する王族の唯一と言われる権利は恋というもの。
「言っては悪いですが、姉さんはたった一度ですよね」
「貴方にはまだ希望があるじゃない!」
グリザベラの声が思わず大きなそれになる。
その一回にどれ程の思いを込めただろう。全部だ。グリザベラの全部でぶつかったのだ。
涙を一粒、笑顔で逃げた。
逃げた筈なのに、愛する男が恋に落ちるその瞬間を見届ける羽目になったから、もっと遠くへ逃げたいのだ。
自分とブランシールは違うとグリザベラは思う。
少なくとも、ブランシールは彼女を所有する事は出来るのだ。一生手元に置く事も出来ない事ではないのに、愛する男に対する何の権限もないグリザベラと同列にされるのは違う。
ブランシールはグリザベラの思う事を理解していた。理解しながらも、見ない振りをしながら言ってみせる。
「希望……あるんでしょうかね。目に見えないそれは、有る無しを主張するのは簡単でも、証明出来ないものですよ? 僕は希望の有る無しではなく、好きだという心のままに駆り立てられているだけです。実際、千回振られようとも二千回振られようとも、彼女しか要らないから、諦める事なんて出来ないんです。貴女も、僕の姉のようなものなら想い続けたらどうです? 別に兄が妃を娶ろうが貴女が想うのは自由なのだから」
我ながら酷い事を言っているとブランシールは思う。
仮に、フランヴェルジュの初恋と言うものが実る事のないまま終わったとしても、恐らく兄はグリザベラという女を選ぶことは恐らくないだろうと思うから。
兄がグリザベラで妥協するのは許せなかったというのに目茶苦茶な言葉で簡単に諦めるのかと問うこの行動、自分をヒトデナシと言ってやりたくなる。
「わたくしでは無い女性に溺れるあの方を想い続けろと言うの?」
「強制する気はありません。恋に破れて諦めて他の恋を探すのもまた一興。そう出来るに越した事は無いでしょう。きっと今辛くてもいつか幸せになれるその道を選ぶ方が賢いとは思います。でも、僕も貴女も、そんな器用な生き方が出来る人種ではないと思いますが?」
その通りだ。
だからこそ、グリザベラは修道院へ逃げようとしたのだ。恋だの愛だのと言う感情から解放されるために。
「修道女になれば、不器用なわたくしは恋愛などに囚われる事がなくなるでしょうよ。それの何が悪いというの?」
「姉さんは今、随分と視野が狭くなっておいでなのですね」
ブランシールは呆れたように言う。
「修道女は神を愛し、総てを捧げ、操を守り、神の花嫁となる……そういう運命だと聞き及んでおりますが、姉さんは兄を思う以上に神を愛する事が出来るのですか? 僕の知るグリザベラと言う女性は、兄を害する存在は神であれ許さないと、僕が四歳の時に言い切った記憶があるのですが、あれは子供の戯言でしたか?」
グリザベラの表情が強張ったかと思うと彼女はそのままブランシールからその身体を離した。
「どうしたら……良いのかしらね。今でも、あの方を害するものは神様でも許せないと思ってしまうわ」
立ち上がろうとして、けれど気が抜けてしまったのだろう。グリザベラは床に座り込んだ。
「目を覚まさせてくれて有難う」
その声は晴れやかとはいいがたかった。疲れ切った声。
自分自身と戦い足掻いた後の脱力感に支配され、けれど逃げる事は出来なくなった。
自分を知悉する弟のような存在に助けを求めた事は正しかったのか否か。グリザベラがどういう言葉を投げられたら正気に返るかをブランシールは知り過ぎている。
「本音を言うならば、新たな恋を経て幸せになってもらいたいと思うのですが、姉さんの性格を僕は知り尽くしている心算なので、酷い言葉を並べるしかなく、立派なヒトデナシになりましたよ、全く」
「わたくしと貴方は割と似た者同士だから、自分を省みることさえ出来たなら簡単に相手を理解出来るでしょうね」
「まぁ、そうなりますね。仕方ないでしょう? 姉弟のようなものなんですから影響を受けない訳が無い」
「とはいえ、わたくしと貴方は根幹は違ってよ? 少なくとも、もうすぐ四桁に上りそうな玉砕記録なんて、わたくしには耐えられない。あの方が何かを心に秘めたような気がした瞬間、身を引いてしまうわたくしほど貴方は弱くない」
そして、二人は同時に笑い転げる事になる。
おかしかった。
諦めるという事が出来ないブランシールと、身を引いたグリザベラは違う人間だが、二人とも他の誰かを選ぶ事が出来ないという意味では同志と言える。
散々笑いあった後、笑い過ぎてまた浮かんだ涙を拭いながらグリザベラは言った。
「修道女に成り損なったわたくしが予言してよ。フランヴェルジュ様は絶対に、あの娘との初恋を成就させるわ」
「言いますね、平民の娘が玉座に昇るのは簡単な事ではないと思いますが」
ブランシールは皮肉気な笑みを浮かべる。
グリザベラは引かない。
こういう会話が出来るのは、姉弟のようであり悪友とも言える互いだけだ。
「あら? 貴方何年あの方の弟をやっているの? わたくしの愛する男は決して意思を曲げるのをよしとはしないし、叶えてみせる、そんな男だわ」
「じゃあ、僕の恋愛が実るという予言もお願いします」
「嫌よ。貴方は今日意地悪だった」
「ふーん、へー、そう、≪良いのかなー、良いのかなー≫」
唐突にブランシールの口調が駄々っ子のそれになって、反射的にグリザベラの顔は何処までも真面目なそれに変わった。
この言葉は駄々ではなく、ブランシールとグリザベラの暗号。互い以外の誰も知らない特別なそれ。バレない暗号を指定したのは幼かった頃のグリザベラだが、大人になって悪趣味だと気が付いても変更はしなかった。
「……取引、ね」
「そう、取引」
ブランシールは上着のポケットから一本の紐を取り出す。髪の毛を束ねる為の銀糸を編み込んだ青い紐。
フランヴェルジュが時折髪を束ねるのに用いてた紐であると、全身全霊で追いかけ続けたグリザベラは解ってしまう。恋人と周囲に目されていた頃の思い出の中、それを愛用していた姿を何度も見ていたのだから。
「充分な対価ね」
グリザベラはブランシールからそれを受け取りながら笑った。
決して手に入らないと思い知らされた男の愛用品に当たり前に手を伸ばす自分は愚かなのだろう。
「そりゃあ、修道院行きを止められる訳よね。わたくしはそれなりに有能ですもの」
ブランシールは苦く笑うのみだ。




