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エスメラルダ  作者: 古都里
余話 落花流水
82/93

1 意中之人

本編より少し前から第一章にかけての時間軸でレーシアーナとブランシールメインのお話をお送りいたします

 ブランシールは溜息を吐く。

 メルローア歴七百四十六年三月七日、その日、レーシアーナはブランシールの年齢に追いついた。

 名門の生まれでありながらあくまで侍女に徹する彼女は今日、十九になった。


 メルローアで恋愛の解禁――つまり、男女交際の解禁、更に言うならば性愛の解禁は十四歳。

 とはいえ、婚約に年齢の制限はない。別に女のはらの中、性別すら判明していない時期の口約束というものであっても、それはそれで良いのだ。


 ブランシールとレーシアーナが出会ったのは互いに五歳の時。


 そして、九百八十七回という数字を思いブランシールは眉をひそめる。

 この数字の更新を恐れて、何時の間にかブランシールは素直になれないでいた。


 初めての求婚プロポーズは五歳のうち、出会って一ヶ月ほどの頃だった。

 結果、思い切り玉砕した。


「ずっと一緒に生きてほしい」


 五歳なりに必死で考えた言葉に、レーシアーナは綺麗に笑ってくれた。


「はい、わたくしは死ぬまでお傍に」


 レーシアーナの言葉にブランシールは「イエス」という答えが返ってきたのだとそう思ったのだ。

 一瞬、ブランシールの脳内でメルローア中の神殿の鐘が鳴り響いたような心地すらした。

 しかし、次にレーシアーナが口にしたのは貞節の誓いではなく忠誠のそれ。

 ブランシールは粉々になった気がした。


 それが、一回目。

 そして、現在ブランシールの玉砕回数は例の数字、そう、九百八十七回である。


 ブランシールが十四の誕生日の時に、彼はごねにごねた。

 性愛の解禁の歳である為、王家の慣例として閨房学を座学と実地で教授する女――指南役を受け入れなければならない。

 大きなお世話であり断固拒絶したい、それがブランシールの本音だが、己が我儘を通せぬ身分である事は流石に理解している。

 だから、十五になるまでには必ず指南役を受け入れる事を誓い、レーシアーナの誕生日を、彼女が十四になるのを待った。

 他の女など要らない。

 レーシアーナとだけ睦みあいたい。


 だからレーシアーナの十四の誕生日が終わろうとする真夜中、ブランシールは彼女を求めたのだ。


「僕の初めての人になって欲しい」


 何度も玉砕しているブランシールではあるが、こんなにも生々しい言葉を使った事は無かった。


 ――愛しいひとよ、どうか受け入れ給え――


 金髪の娘はひどく驚いた表情かおをした。

 そしてその次に、ほんの数秒、表情が消え、次に浮かんだそれは……

 

 それは、憤怒。

 強い拒絶の色を宿した海の色の瞳は大粒の涙をはらはらと零す。


 レーシアーナのそんな表情をブランシールは知らなかった。

 そして、誤解した。

 レーシアーナは、許せないとその瞳で訴える程に、ブランシールと愛し合う事を嫌悪するのだと。


 お互い、上手く気持ちを交わせないだけで、愛し合っている、そう思っていたのは自分だけだったのだと思うとその滑稽さを嗤うべきなのだろうか。何故レーシアーナが自分を心の底では愛してくれていると信じていたのか。


 自惚れが過ぎるとはこういう事を言うのだろうと、そうブランシールは思った。四桁近くの玉砕数で何故自惚れる事が出来たのかと自分を思いっきり嗤いたい。


「すまなかった」

 レーシアーナにこんな風に怒りと憎悪の籠る言葉を投げた事など無かった。けれど、何も考えたくない。

「お前を望んだ僕が悪かった」

 言って、ブランシールはその場から寝室に逃げた。誕生日だからと祝いの日だからと散々に振り回したレーシアーナを自分の部屋に残して。


 翌日、ブランシールは両親に指南役の受け入れを宣言した。


 レーシアーナの十四の誕生日の拒絶で九百八十七回目の玉砕を果たしたブランシールは、あの日から男としてレーシアーナを求める言葉を口にしていない。数字の更新はあの日から止まっている。


 ただ、徹底的に拒絶されたブランシールは新たな恋をしようとは、したのだ。その為の努力は充分にした心算だ。

 そして、挫折した。


 どんなに女を抱いても、求められて必死になられ縋り付かれても、誰もブランシールの心の琴線に触れる事は無かった。心はほんの少しも揺れる事は無く。

 

 結論は早々に出た。

 どんな女を知っても、レーシアーナ以上の女には出会えない。それがブランシールの現実であり真実であった。


 結局、諦めきれなかった。

 触れた事のない柔肌を思い他の女を抱くブランシールは己を滑稽だと思う。自暴自棄になっているだけなのだと、解っている。


 だけれども、どれだけ努力しても諦めきれない存在ものが心の真ん中に君臨しているのに、それは決して自分の愛に応えようとはしてくれない。

 君臨するなら支配なり統治なりしてくれたのならばいいのに、彼女は彼に甲斐甲斐しく尽くすのだ。


 レーシアーナは十四の誕生日の夜の事など無かったかのようにブランシールには感じられる。如何いかに彼女は忠実な侍女である事だろう。彼女が忠実でなくなる時は、ブランシールが彼女を人生の伴侶として求める時、その時だけ(・・)なのだ。

 当然のように彼女は女の残り香のするシャツを丁寧に取り扱う。そこに紅がついていても彼女は頓着しないように見えた。


 確かにブランシールは他人を好まない、レーシアーナ以外の誰かに世話を焼かれたくない。プライベートな空間に褥を共にしただけ(・・)の女が踏み入る事を全力で拒否してしまう。

 だがブランシールはそれだけの理由で己の侍女をレーシアーナだけにしているのではない。

 レーシアーナを独占し、誰にも触れさせたくないという独占欲。他の男に恋をし、想いを寄せるレーシアーナを見たくないという子供のような駄々でレーシアーナが誰かに心奪われるだけの自由な時間を奪う、歪んだ執着。

 そして、ブランシールもまた囚われている。千回近く撃沈しているという事実があれども、他の女を愛せない彼もまた、レーシアーナがどう思おうが独占されているのだ。


 求婚や告白ではなく『命令』という形ならばレーシアーナは身体を開くのではないか?

 気が付いた時の絶望をブランシールは忘れられない……。



◆◆◆

 レーシアーナの十九の誕生日の約半年前、自室で昨日の講義の復習と明日の講義の予習に勤しんでいたブランシールはある異変に気が付いた。

 喉が渇いている。

 普通の人間には別に不思議でも何でもないだろう。生きているのだから喉が渇く、当たり前だ。

 だが、ブランシールは渇きを覚える事は殆どなかったのだ。必ず、レーシアーナが先んじた。そっと飲み物を用意するレーシアーナのお陰でブランシールの喉は常に潤っていた。

 ノートを閉じて鈴を鳴らす。だが、待てど暮らせどいらえはない。

 レーシアーナのみを呼ぶ鈴にレーシアーナが応えない。

 そんな事は今まであっただろうか? 思った瞬間、ブランシールは立ち上がっていた。

 彼女は何処なのだろうかと、自室として割り当てられている書斎から飛び出す。そしてあっさり隣室、ブランシールの居間で彼はあっさりと大事な娘を見出した。

 ソファにしがみつく様にして倒れている、ブランシールの大事な――


「……レーシアーナ?」


 必死で彼女の名を紡いだというのに、その声は情けなく掠れてしまって、囁きのような音にしかならず、レーシアーナはピクリとも動かない。

 これは、走り寄ってレーシアーナの状態を確かめるべき場面なのだろう。だけれども、ブランシールは必死なのに、足が動こうとしない。それでも、数歩、何とか足を進めたその時、レーシアーナの漏らす譫言うわごとが耳を打った。


 ――ブランシール様、他の女性ひとに触れないで。わたくしだけに触れて。

 好きなの。

 わたくしがきっと、誰より一番貴方を愛しているから――


 その言葉は途切れ途切れでとてもたどたどしく、それでもその意味を理解するとブランシールの頭は真っ白になった。

 気が付けば、ソファに……レーシアーナの元にたどり着いたブランシールは跪いていた。


「レーシアーナ……?」


 手を伸ばして思わず抱き寄せてブランシールは息をのむ。華奢な身体は火のように熱い。

 ソファに顔を埋めるように突っ伏していた娘はまるでその顔を隠そうとしていたかのようだ。熱に苦しむ表情はきっとレーシアーナとしては見られたくないものに違いないとブランシールは思うのだ。


 そう、そうやっていつも、彼女はブランシールに弱った姿を見せまいとする。


 抱き寄せたその体勢で軽く揺するがレーシアーナは目覚めない。

 御典医を呼ばねばと思った。

 王家の御典医を。同じ医宮に属する医官に任せようとは思えないのだ。


 そしてブランシールは知る。

 御典医の呼び方を知らない、と。

 そういう事はレーシアーナが今まで総てこなしてくれていたのだ。


 誰でも良い、命じれば良い。

 ブランシールは即座に意識を切り替えた。

 兎に角レーシアーナをせめてソファに横たわらせよう。

 熱で火照る身体を、愛しい女の身体を、休ませる。

 体勢を変えて抱き上げた瞬間、レーシアーナはやっと目を開けた。


「ブランシール様……」


 声は発熱のせいか、それとも譫言を繰り返していたせいか、掠れていた。

 紅潮した頬で、潤んだ瞳でレーシアーナはブランシールの心を締め上げる。

 そして彼女は細い腕を伸ばしてブランシールの首筋を抱いた。

 

 それはずっとブランシールが望んでいた事だった。

 レーシアーナに求められ甘えられ強請られる。


 夢でも見ているのだろうかと思うブランシールにあっさりととどめが刺された。


「お慕い申し上げております」


 綺麗な、綺麗過ぎる表情でレーシアーナは言ったのだ。


「僕もだ、僕もお前だけだ」


 ブランシールの声は震えている。

 十四年間、その言葉が欲しかった。夢にまで見る程に、渇望していた。


「風邪なら、伝染うつせば治る、そう、だったよな」


 上擦る言葉の後、ブランシールはレーシアーナの唇を奪った。恐る恐るの口接けに、ブランシールの脳が痺れる。愛という感情があるからだろうか、レーシアーナとのキスは他のどの女にも覚えた事のない酩酊感を齎す。


 今が永遠になったならどれ程の幸福か。


 だが、ブランシールは必死の理性で愛する女の身体をソファに横たえた。

 このまま何時までも愛を語り合い口接けを交わす事が出来たならば。

 けれど、この状態のレーシアーナにそんな事を強要出来ない。愛おしいからこそ。

 心を通わせた愛しい女との未来を切実に祈り、ブランシールは後ろ髪をひかれる思いを抱きながら御典医の手配の為飛び出した。




◆◆◆

「風邪では恐らくありません。勿論肺炎などでも無いと思われます」


 御典医の言葉にブランシールは震えあがった。それでも幸運な事に真っ先に助けを求めた兄、フランヴェルジュは今日、本当に久々の休日というやつで、御典医を手配するだけでなく、今、隣にいてくれている。


 しかし、風邪でも肺炎でも無いならば、一体どんな性質タチの悪い病なのか。

 詳しく聞く勇気のないブランシールの隣でフランヴェルジュは代わりに問い質≪ただ≫す。


 御典医は「畏れながら」と前置きの上で診断を下した。

 極度のストレス、もしくは過労。


 聞いた瞬間、ブランシールは頭を殴られたような衝撃を覚えた。

 自身の独占欲がレーシアーナの世界を著しく狭めている事はブランシールとて理解している。

 ストレスも過労も、どちらであれブランシール以外が齎せる筈がない。


 御典医が熱冷ましと滋養強壮の薬を処方してくれたがブランシールは何も理解出来る状態ではなかった。隣でフランヴェルジュがレーシアーナの為の看護人を手配してくれたのに気が付いたのは後になってからだ。

 そうして、レーシアーナは自室へと輿で運ばせる。ブランシールの隣室にある自室へ。

 その間に、フランヴェルジュは彼の居間に弟を連れ込んだ。無理やり引き摺っていったという方が正しいのだろうけれど。




◆◆◆

 熱い飲み物を一口、それでブランシールの理性は少し戻ってきた。

 目の前にはフランヴェルジュがいる。ソファにゆったりと腰掛け、ブランシールと同じ物を飲む。

 ブランディを混ぜた紅茶はレーシアーナが淹れてくれる紅茶とは随分と味が違う。不味くはない、だが、それだけ。


 カップを握りしめるブランシールの様子を見てフランヴェルジュは盛大に溜息を吐いた。


「落ち着いたか?」


 フランヴェルジュの言葉にブランシールは頷く。だが、兄の次の言葉には瞠目するしかなかった。


「……俺は心当たりがあるぞ?」


「こころ……あたり……」


 フランヴェルジュは苦笑するしかない。


「俺がお前より先に心当たりにたどり着いたのが心外、なのだな。自分が誰よりもレーシアーナを知っている心算つもり……ではなく知っていたい(・・・・・・)のだな」


「教えて下さい!」


 乱暴にカップを置き、気が付くとブランシールは立ち上がり頭を下げていた。


「恋愛経験ゼロの俺に言われたくは無いだろうが、まぁ確かに俺は恋愛を実感も体感もしていない。だが、概念としては知っている心算だ。――お前、レーシアーナが他の誰かに抱かれても平気か?」


「平気なわけが無いでしょう!?」


ブランシールの声が荒くなる。


「では、レーシアーナはお前のお遊びが平気だと思うのか?」


 平気に決まっているでしょう!? という言葉をブランシールは苦労して飲み込んだ。

 初めて女を抱いた時、そう、忌々しい指南役というものを受けいれ手解きを受けた時、その時ブランシールが纏っていた衣類をレーシアーナに任せると彼女は平然とした顔でそれらを対処した。その後も何度も情事の後の衣類等の対処をレーシアーナは行ったが、顔色一つ変える事などなかったのだ。


 あてつけすら無駄などだと、無意味なのだと、ブランシールはもう知っている。

 『ポニー』として自らを売り渡した父親を鞭で打った第二王子へ『感謝』し『従う』と決め『忠誠を捧げる』、それがレーシアーナという女なのだと何度突き付けられたか。

 最小に見積もっても九百八十七回突きつけられているのだ。


 しかし。


 ブランシール様、他の女性ひとに触れないで。

 わたくしだけに触れて。

 お慕い申し上げております。


 あの言葉が本当ならば。自分が妄想に囚われているのでなければ。


 レーシアーナはブランシールを愛し、己の中の妬心を懸命に飲み込んでいるのかもしれないのだ。


「お前は確か二年前だか一年前だか、当たり前にレーシアーナを娶ると言い切った筈だろうが。二十歳を目標にしていただろう? 二十歳前には話を纏めたい、と。そろそろ悠長な事は言ってられんだろうが。まぁ、お前の奔放さに散々助けられた俺が言えた事じゃない、俺にそんな資格は無いとは知っている。筋違いも良いところだが、俺はお前に幸せになって欲しい。これは本音だ」


 気が抜けたようにブランシールはソファに座り込んだ。


「……兄上の仰りたい事は解った気がします。三か月以内に、清算します。綺麗に、何一つ遺恨を残さぬよう、将来の妻に誰も牙をむく事が無い様に、きっちり清算します」


 もし、レーシアーナのあの譫言が彼女の真実ならば……いや、真実でなくとも、自分自身の誠意の示し方としてまずは余計な物を全て清算する事は必須。

 九百八十七回、そこからの数字の更新などに怯えるような小さな器量の男では彼女には相応しくない。


 真剣な表情を浮かべた弟にフランヴェルジュは苦笑しながら言葉を投げる。

 いい加減逃げられるものでもないのだ。


「俺の甲斐性の無さがお前の恋路を邪魔しているのを知っている。まともに女を愛せない不甲斐なさがお前の恋愛の何よりの障害になっている事を俺は理解している心算だ。――我儘を言うぞ、我が弟殿。頼むから順序に囚われないでくれ。お前に一生負い目を感じて生きていくのは嫌だぞ」


 精一杯明るい声で告げられたその言葉の意味をブランシールは解ってしまった。

 誰よりも愛する女はレーシアーナだ。だが、フランヴェルジュもまた、ブランシールには別格なのだ。

 半身になりたいと想いすらする兄は、自分に懇願しているのだ。


「兄上……甲斐性のある人間にはならないで下さいね。僕はグリザベラ嬢を義姉上とは呼びたくありませんので」


 ブランシールが必死で返した言葉は傲慢と言えるかもしれない。だが兄は今度こそ嗤って首を竦めた。


「お前とレーシアーナの子に負担をかけたくはないんだが……俺が恋愛出来るとでも思うのか?」


「思いますが何か?」


ブランシールは即答する。


「そんな事を言うのならば僕も五歳の時『ポニー』を献上されなければ恋なんて知らなかったと思いますよ? 焦って一生を台無しにするのは好きな女がいるのに他の女と情事を繰り返す僕と変わらない位愚かしい事です」


 その言葉に、フランヴェルジュの目の色が昏さを帯びる。

 時折、そう、ほんの時折、ブランシールは兄の心に踏み込めなくなる。フランヴェルジュが踏み込んでくれるなと見えない壁を作る時、ブランシールは駄々をこねることが出来なくなる。


 嫌われたくないから。


「僕が振られる事も想定して、兎に角兄上はグリザベラ嬢との関係で妥協するのだけはお止め下さい」


 それだけ言って、ブランシールは軽く息を吐いた。


「レーシアーナの元に行ってきます」


「行ってこい、お前はレーシアーナが必要なのだろう?」


 ブランシールは勿論と言って兄の部屋を辞去した。

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