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エスメラルダ  作者: 古都里
第二章 王の蜜月
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12 宰相ハルシャ・シズリア

 ハルシャ・シズリアは何度目か解らない溜息を吐いた。宰相に与えられる執務室、まだ自分に全然馴染まないその部屋に溢れる書類をすさまじい勢いで七つに分けながら時折忙しくペンを傍らのメモに走らせる。


 その部屋は決して狭くないのに前の宰相の名残が詰め込まれたままで窮屈だった。前宰相レーノックスがせめて趣味の良い男なら窮屈なその部屋も気持ちの良い空間だっただろうに、悪趣味さに満ちた美術品で溢れかえったさまは何とも……当たり前の感性の持ち主ならそこに一時間いるだけで気分が悪くなったに違いない。


 ただ、ハルシャという男はそう言った事に全く頓着しなかった。この部屋の悪趣味でかつ金のかかった美術品は一休みする時間が出来たら全部ゴミに出そうとは思うが、今はその時間がない。ハルシャにとって大事なのは部屋の過ごしやすさではなく作業能率であった。能率を上げるには先にゴミ出しをした方が良いのかもしれないが、ハルシャのいう作業能率とはこの国の、メルローアの能率であり彼個人のパフォーマンスの質は彼自身の精神力で何とでもなるものだったのだ。


 ひたすら書類と格闘してどれほどたっただろうか、頭痛を微かに感じたが、寝るのはいつでも出来る、そう思いひたすら没頭する。


 そこへふわりと、唐突に声が聞こえた。


「御邪魔してもよろしいかな? 宰相シズリア殿」


 ハルシャは書類から目も上げずに「どうぞ」とつっけんどんに応える。どこからその声が聞こえたのか、ハルシャは頓着しない。彼が任じられた職はいつ何時誰が何処で自分を呼んでも不思議ではなかったから。そして彼は鋼の心臓の持ち主でもあったから、気になるはずがない。


 ふわり、と空気が動き、齢七十、もしくは八十を超えたかと思える老爺が現れる。純白の神官衣をまとう白髪の老爺は一瞬きょろきょろと部屋を見まわし、机の向こうで書類に埋もれる男を見てにやりと笑みを浮かべた。


「お初にお目にかかる、シズリア殿。儂はバジリル・スナルプと申します」


「ああ、神官長様でしたか」


 その名を知らぬものはメルローアにはいない。神殿の意思たる女性の隣に佇むもう一人の神殿の長。


 漸くハルシャは書類から目を上げた。流石に書類と格闘したままではまずい客人であるが、正直人を呼び応接室へ案内しもてなすのが酷く億劫だと思いながらも仕方ないかと書類を置こうとするもそれを阻んだのはバジリルの方であった。


「お顔を拝見したかっただけですので、お手を止められることはありません。ただ……凄まじい量の書類ですな」


「陛下の仕事の三分の一にも足りませんがね」


 手を止める事はないと言われ素直にハルシャは書類に向かおうしようとして、止める。


 面倒だが、相手をしなければならない。しかも、ここで。

 ハルシャは勘の良い男だった。だから名乗りを聞きバジリルをちらりと見た今、彼を神官長だと疑う事はなかった。そして自分がテストされている事も、嫌な話解ってしまったのである。


 バジリルはハルシャの態度の変化に気付きながら、それをつく事はなく、ただ人の良さそうな笑みを浮かべハルシャを見つめる。紅茶色の髪も髭もここ数日手入れが無さそうだ。それを言うなら服だとてよれっとしている。しかし見苦しさを感じさせない不思議な男。眼鏡の向こうの琥珀の眼は一刻も早く書類に戻りたいという意思を必死で隠しながら一見穏やかな色合いでバジリルを見つめ返してくる。


 逸材やもしれぬ。


 バジリルはそう思い嬉しくなった。本物の逸材かは歴史に問わねば解らぬかもしれぬが、前宰相に比べるとはるかに良い人相を浮かべた男だと、そう思うと唇の端が上がるのは仕方が無い。


 バジリルはもう失敗出来なかった。


 もう、自分が積極的に表に出る事になろうとも、間違えは許されないと己に誓っていた。


 失ったものは二度と取り戻せない。

 故にもうこれ以上は何も失わないように。そう動かねばならない。

 

 その為に是非とも人柄を確かめたく思ったのが、ハルシャ・シズリアという男であった。


 しかし。


「陛下の仕事の三分の一……ですか? 失礼ながら貴方は書類に埋もれているように見受けられますが」


 執務室の机の上だけでなく足元にも書類は山積している。いや、部屋中が書類だらけだ。


「私は人間ですのでこうなります。陛下のような化け物にはなれそうにありませんし、なってはいけないものだと考えております」


 ハルシャはそう言いながら手にしていた書類を机に置くと椅子から立ち上がった。すたすたと大股で机の前にある書類の束の前に向かうとその書類を抱き上げ、現れた下品な椅子を示す。椅子に悪趣味な刺繍が金糸銀糸で施されていても椅子は椅子。


「次に分けなければならない書類がこれですが……丁度椅子が埋もれておりましたのでお座りください。神官長様をちゃんとおもてなしする準備が出来ていない事は本当に申し訳ないのですが、時間がないので」


 ハルシャは嘘をつかない。結局それが一番円滑な人間関係を築く元である。忙しい事は隠さない。けれど邪険に扱うつもりもない。今自分が出来るのはこのライン。


「有難いです、忙しい時にお邪魔して申し訳ない。しかし……陛下が化け物? よく解らんのですが」


 バジリルは嘘を言う。マーデュリシィと違いバジリルには言霊の縛りは無い。しかし信じてくれという嘘ではなく説明を求める手段としての嘘。騙すつもりはなくただ、相手の語る言葉を聞いてみたいから紡いだ言葉。


 ハルシャは器用に片眉を上げ、机に書類を運びながら喋る。手を止める暇は本当にない。


「神殿の方は解っていらっしゃると思っていましたよ。陛下は色々とおかしい方です。ある意味出来過ぎるあの方への甘えもこの国の膿みの大きな一つですね」


「ほお」


「色々と出来過ぎるのも考え物です。他人にやらせればいい物、寧ろやらせるべきものまで抱え込んでしまうのは陛下の悪癖です。皆、前宰相を悪く言いますし、あの方については私も散々批判しました。今でも言いたい事は沢山ありますが、最初に甘えたのはあの人ではない。言ってしまえば先王陛下です」


「……レンドル様はすこぅし、おサボリが得意であらせられましたなぁ……」


 バジリルは思わぬところに話が飛んで少し考えながら髭を撫でた。先王レンドルが少しずつ若すぎる息子に仕事を譲る、いや押し付けたのはあまり有名ではない話の筈なのに何故この者が知っているのだろう?


「シズリア殿はよく、御存じというか、レンドル様はバレないようにやっていらしたと思うんですが」


「ブランシール様から駄々洩れでした」


「ああ」


 合点が言った。ハルシャ・シズリアは宰相就任前に特に役職についていたわけではない文官、貴族の位階でいう所の子爵である。とはいえ宰相に就任し、これから名を上げればすぐに伯爵の椅子に手が届く、そういう立場に今立っている。今はまだ小物でしかない彼を可愛がっていたのはブランシールだ。だが、可愛がられたきっかけは、ハルシャとブランシールを繋いだきっかけは。


「……ブランシール様と言い、ランカスター様と言い、王弟という、王に近い立場の方は色々と見えるのでしょうなぁ」


 ぱさり、と紙の音を立ててハルシャはバジリルをまじまじと見た。


「懐かしい方の名前が出てきましたね」


「ハルシャ殿には、懐かしい方ですか?」


「……ランカスター様は苦労性でしたから。でもご身分故に中々愚痴をこぼそうにもこぼせぬ環境の方でしたからね」


 その愚痴をハルシャは聞き、彼に引き合わされたブランシールの愚痴を今度は聞き、恐らく誠実にハルシャはそれを受け止めたのだろうとバジリルは思った。

 だから無役のものが一気に宰相に上り詰めたのだろう。ハルシャには才能と、そして零された愚痴という莫大な情報があったのだ。


 バジリルは結論付けて誰に見せる訳でもなく頷いた。


「ですが、今一番苦労してらっしゃる方は陛下、ですね」


 ハルシャが言った瞬間に書類の山の一角が雪崩を起こす。バジリルが咄嗟に手を前に突き出すと彼が呼んだ魔力がその崩壊を食い止めるように支えた。


「有難う御座います」


 支えられた書類を倒れないようにハルシャは支える。魔力を目の前で見ても驚くことなく淡々としている原因は。


「……だいぶ、お疲れのようですな」


 疲労が、驚いたり興奮したりする余裕をハルシャから奪っている。ハルシャ自身は気付いてはいないようだが。


「十八時にはいつも終えるようにしています。ただ、やりたい事が沢山有り過ぎて、頭の中が切り替えられないのが小物の悲しさですね。色々思いが走り、他の全てが手につかないのが今の有様です」


 恥ずかしい限りです、とハルシャは笑った。しかし自嘲ではない。ハルシャはそんな己を気に入っている。まだまだ人間だと気に入っているのだ。


 疲れがたまって見えるのに気持ちの良い笑みを浮かべるハルシャにバジリルは好感を強くしていった。中々、ハルシャ・シズリアという男、バジリルには魅力的に見える。


「お茶には早いですが、まぁ一杯」


 ふっとバジリルが手を伸ばすと何もないところからティーセットが現れる。銀のトレイに乗せられた白磁の陶器から立ち上る湯気、ただよう芳香。


「この香り……それ、いいんですか!?」


 先程まで冷静そのものだったハルシャが大きく声を上げてバジリルは驚いた。ハルシャは書類を持ったまま立ち上がってさえいる。


 何に反応しているのか。自分が空間から紅茶を取り出した事でなく、お茶の、香り?

 バジリルは不思議に思いながらも出したものを引っ込めることはないと軽い動作で立ち上がり、書類越しにハルシャに勧める。


「臭くはないと……思うのですが」


 バジリルの困惑したような顔を無視してハルシャは礼儀を無視する勢いで勧められたカップをソーサーごと奪い取った。


「まさか、夢でも見ているのでしょうか。この香りは間違いないです。臭いなんてとんでもない、この素晴らしい香気! 私のような身分でそうそう……そうそう味わう事は出来ない、……こちらは『神露かんろ』ですよね?」


「ご存知でしたか。疲労にはよく効きますので。大祭司がよく分けてくれます」


 バジリルはハルシャの興奮ぶりに少し腰が引く。ハルシャはバジリルがいるのを忘れたかのようにカップに湛えられた『神露』と呼ばれるお茶の香気を思いっきり吸い込み深呼吸を繰り返して、作り笑顔ではない笑みを浮かべた。


「『神露』を飲んだのは成人の儀と子爵叙任の二回きりでしたが、……この高貴な香りは魂に沁みています」


 ハルシャの頬は心持ち赤い。疲労故か先程までこの男は青白い顔をしていて、それが妙な迫力を醸し出していたのだが、紅茶に興奮しているその様だけを見ていると、ただの中年の男に見える。


「……頂いて宜しいですか?」


「その為にお出ししましたので」


 バジリルが言うといっそ無邪気と言っていい表情を浮かべハルシャはカップに唇を付けた。気付いているのかいないのか、立ったままという不作法さのまま、至福の顔で紅茶を味わう。それをバジリルも少し呆気にとられながらもじっと見守る。


 『神露』……バジリルは何気なく出したが、それは大祭司マーデュリシィがアスノでつむ茶葉で作られた紅茶で、神殿で儀式の際気まぐれに出すこともあるかもしれない、程度の……実は希少価値のすこぶる高い紅茶であった。バジリルは当たり前のようにマーデュリシィから茶葉を分けられていてその価値が分かっていないが、なかなかそうお目にかかれない代物なのだ。


 ただ、普通はここまで食いつかないだろうし、生涯ただ二度しか口にしていないそれを香りでききわけ、うっとりとした顔で一口一口惜しみながら飲んだりはしないだろうが。


「……紅茶、お好きなんですか?」


「酒が飲めない私ですが、良いお茶で十分に酔えます」


 こくり、こくり、味わいながら舌を潤しハルシャは言う。


「では」


 ふっと、バジリルが持っていた銀のトレイが宙に吸い込まれるように消え、出てきたのは銀の茶筒。


「宰相御就任祝い、何をお贈りすれば良いのか神殿も迷っていたところなのですよ。このようなもので宜しければ、どうぞ、お納めください」


 ハルシャは琥珀の眼が零れ落ちそうなほど見開いて、ひたすらに茶筒を見つめた。ハルシャの滅多な事では動じない心臓が早鐘を打つ。


 話の流れで言うとこの茶筒の中の茶葉は……そんなことが我が身に起こりうるのかとハルシャは疑いそうになるが、この話の流れを裏切るようなことは普通、人間の心を持っているならばしない筈だと半分飲み干したカップを置く事も忘れて見入る。きっと、その茶筒の中の茶葉は、至宝の……そう、至宝の。


 面白い人だ、バジリルはそう思いながらとん、と茶筒をハルシャの目の前の書類の上に置いた。別に茶筒を置くくらいで駄目になる書類には見えなかったので何も考えずに。


 しかしハルシャは雷に打たれたかのように一瞬固まると、大慌てでカップとソーサーを自分のわきにあった書類の谷間に避難させ、茶筒を書類の上から取り上げた。


「……国璽の上には、例え『神露』でも」


 バジリルは言われて慌てて書類を見た。確かにそこにただ積み上げられている紙、としか認識していなかった書類にはこの国の国璽がつかれている。


「確かに『神露』でしたが……失礼致しました」


 言いながらバジリルは思う。レーノックスならば気にしなかった。そんなハルシャをバジリルは細かすぎるとは思わない。


 なかなか、なかなか。


「既に国璽がつかれている書類もあるのですね。一体貴方は今何をおやりなのです?」


 バジリルが問うとハルシャは『神露』の入った茶筒を大事そうにぎゅっと一瞬握り、腰を曲げて机の引き出しに手を伸ばした。そのまましまい込む。一瞬ほうっと息を吐いて、そして突然正気に返ったかのように慌てて言う。


「祝いの品、確かに納めさせて頂きました。不調法ものですので作法が分かっておらず、如何すればよいのか解っておりませんが、心よりお礼申し上げます」


 先王の非を告げる時にも言葉に淀みのなかった男が、言葉を噛みそうになりながら告げるのを見やり、バジリルは首を傾げざるを得ない。そんなバジリルの明らかな困惑に、ハルシャは慌てて言葉を紡ぐ。


「正直、神殿の方がわざわざお会いに来て下さったり、お茶を御馳走になったり、おまけに祝いだと貴重な品を賜るようになる、そんな身分になることを想像もしていなかったので、本当に作法が解らず……」


「ああ」


 バジリルは漸く合点が言った。


 一般人にとって神殿は雲上の世界。そこの人間と普通の会話をする事自体がなかなかない事なのだったとバジリルは思い出した。いつも神殿内にいると人との付き合い方を忘れるだけでなく、一般常識も欠落してしまうようだと思い、一瞬恥じさえする。一般人どころか貴族の位の人間でさえ、祝いの品だと言われて王賜の品を納めるより、神殿から何かを差し出される事の方が有り得ない事、なのだ。忘れていた自分が、本当に情けない。


「作法も何も、喜んでくださる顔を拝見できて、それで私共は十分です」


 バジリルは努めて平静な声で言葉を紡ぐ。


 ここで対応を間違えたら、ハルシャは仕舞った茶筒をもう一度取り出し、頭上に掲げて跪くのではないか、それは純粋に祝いだと思った心情からはいまいち、面白くない。


「神殿に仕える者は神でも王でもなくただの人間、貴族ですらないのです。ただの人間が祝いたいと思ってお渡ししただけ。そのまま、お願い致します。それより、さっきもお聞きしましたが、貴方は今、何を?」


 バジリルの言葉にまた息を吐いたハルシャは再び椅子をすすめ、自分も座った。座ると同時に、残っていた紅茶の香りを無意識に求めて谷間からカップを救い出しながら、困ったように笑う。


「……王の蜜月、ぶっちゃけ、短すぎると思われませんか? 神官長様」


「……これは、意外な」


 バジリルはハルシャが何を言い出すのかと楽しみになってきた。


 今日、神殿は王の婚姻を認め、神殿の権力のゆるすところで王の蜜月を宣言したが、実質は三日間の延長のようなものになってしまった体である。疲労していて、『神露』を口にするまであまり自分に注意を払っていたとも思えぬほどの男、神殿の横暴が、と内心思っていてもおかしくないと思っていたのに―――蜜月が、『短い』とは?


「神官長様、神殿の方々は、貴族が婚姻を結んで花嫁と楽しむ蜜月、その期間を御存じなのでしょうか?」


 ハルシャの問いにバジリルは素直に首を振った。神殿がかまけるのは王家という存在と国そのもの、貴族というものへの知識は実は王家との絡みでのみしか知らぬかもしれぬ。


「……短くて三ヶ月、普通は半年から一年、長いと一生」


「一生……ですか」


 随分と夫婦仲の良い事で、バジリルは一瞬そう思い、それから我に返った。

 つまり、一生を休暇で過ごす、そういう人種もいるという事か。


「随分、長いのですねぇ」


 神殿に属する者は結婚という形を取って結ばれることはない。結婚という形で知りうるのは王家のそれのみ。


 だが、本当に長い。一生と行かなくとも半年や一年が当たり前という、それが事実ならばすこぶる長い。王の蜜月はたったの三日だというのに。


「民間人の蜜月も少なくとも二ヶ月は……それ位は絶対に何もかも放り投げる時間を持っているんですよ、メルローアの王以外の人間は。幸いな事に我が国はスゥ大陸ではとても恵まれている国ですから、それ位の休暇を一人の人間が一生の内に味わう事を許してくれているんです」


 大袈裟な話でも物の喩えでもない、それがメルローアの真実。


「王の蜜月だって、本当はもっと長ければいいのにと私は思いますよ。せめてひと月。私がやっていた仕事は、蜜月が明けたら陛下に少し楽に仕事をして頂くための仕事の分類……そうですね、仕分け作業です。三日間、我々が蜜月のつもりでいた期間に終わるとたかをくくっていたのですが、神殿が正式に発表した蜜月が終わっても終わりそうにないのが情けない実情です。まさか陛下がここまで仕事を抱え込んでいるとは予想外でしたから」


 そう言いながらハルシャは説明を始めた。


 今、他の文官達は既にハルシャが仕分けた仕事の部門調整に走っていること、つまり新たに部門を幾つも立ち上げねばならぬほど多岐の仕事がたった今の王一人で処理されていたのである。


 本来国を支えるべきであった宰相という立場も先代のレーノックスはただ名誉をんでいたようだが、その事をハルシャは口にしない。言っても詮無い事だ。


 国璽を既につかれている書類がこの場にあるのは仕分けの為の確認書類で、ハルシャはそれらを参考にしながら王の決済を待つ書類の中から王がやる必要のない仕事を探し出し、ひたすら仕分けていたのだという。


「確認のための書類を持ち込まなれば、ここまでこの部屋が書類に溢れかえる事もなかったのですが……我々もここまで陛下が化け物的に仕事を抱えこんでいたとは知らなかったのです。途中で確認を取らないと今何と向き合っているのか解らなくなる量でして。仕分けた書類をどんどん出して行くと泣き出す者すらいる始末ですよ。何故ここまで御一人で孤独に、と。有能過ぎるのも考えものです」


 フランヴェルジュはそんな風に思われている事を知りもしないだろうとバジリルは思う。いや、彼の傍近くの人間には恐らく誰の眼にも見えていなかった。バジリルが代々の王妃の中でも特に傑出した存在であると認識するアユリカナですら、息子が異様に仕事を抱え込んでいると言われたら、きっと目を見開く事だろう。


 それを、この男は正しくとらえているというのか。


 バジリルはごくりと唾を飲み込んだ。


 そんなバジリルの様子に気付く事もなく、ハルシャは高らかに宣言する。恐らくは、己に刻み込むための宣言を。


「私は王の仕事を奪い、王を一人で戦わせるのではなく従う者を育てる宰相になります。王は精々暇すぎると嘆かれると宜しい。私をこの役目につけたのですから、その事を後悔なさるレベルの業績を残して見せます」


「……何故そこまで?」


 バジリルは胸が鳴るのを聞きながら問うた。何故宰相という地位を楽しむでもなく、わざわざ自分の仕事をひたすら増やすような、そんな道を選び言葉にするのだろう。幾らでも欲を持てる身分に在りながらそうしないのは何故だろう。


 ハルシャは簡単に答えた。


「息子のような王弟殿下の愚痴を聞きながらその頭をぶん殴れない身分の……鬱憤でしょうか」


 言いながらハルシャは冷めた紅茶を口にする。


「一番近くにいるあの方がある意味陛下の一番の膿みだったのかもしれません。その能力がありながら、兄上の仕事を分けるよう求められるのではなく、ひたすらサポートに回り続け、陛下一人に無理をさせ続けてこられたのですから。『兄上は素晴らしい』と言うのを聞くと……許されているなら本当に目が覚めるような一撃をお見舞いしたかったのですが、今、意識が戻られないという事を聞くと、複雑ですね」


 そう言うハルシャの眼は優しい。まるで出来の悪い息子を、どうしても愛してしまう父親のように。


「神官長様、私は必ずブランシール様が回復なされることを信じています。ですから、急いでいるのですよ。お戻りになられた暁にはサポートではなく、一人の人間として一つの役割をもって支えとなって頂きたいですからね。いつまでも兄上に甘える弟君では……才能の無駄過ぎて胸がむかつきますから」


 本当に、父親のようだ。


「それは、本当に……息子のような存在であらせられるのですねぇ」


 バジリルの言葉にハルシャは苦笑した。


「私はただ……無駄が嫌いなだけです。王の仕事を奪うのも仕事をろくにすることなく禄を食む人間が無駄に思えるから。無駄をなくすことは……この国の本当の豊かさに繋がりますから」


 バジリルはもう我慢が出来なかった。


 身体を曲げてバジリルは笑う。腹の底から笑う。

 面白い、この男は何ら特別な目新しい事を言っているのではないのだろう、けれど、本当に面白い。


 そんな事を、考えてみれば誰もが気づき(・・・・・・)そうな当たり前の事(・・・・・・・・・)を、口にする男は本当に久しく見なかった

 だから、ハルシャという男はバジリルにとっては気持ちよくてたまらない。


 呆気に取られるハルシャに、バジリルはもう隠しておくことは出来なかった。


 しゃがれた声が若々しい、青いと言っていい声に変わる。曲がっていた背中がしなやかに伸び、白髪が金茶色のそれに代わり、背中の真ん中で揺れた。琥珀の眼が、萌える新緑のそれに塗り替えられた時にそこに立っていたのは、長身の麗人。


「貴方は本当に面白い。良い人材という意味で面白い。なので、どうかこの姿で失礼します。貴方が良ければ、どうか名で呼んで下さいませんか? 貴方が、千年の弥栄いやさかの礎の一人なのだと私は本気で思います、本当に……面白い方だ!」


 言いながらバジリルはまた笑う。その笑いは、本当に清々しく誰の気持ちも逆なでするものではなく。

 だからハルシャは呼ぶ。


「バジリル様……?」


「ああ、二人でいる時は良ければこの秘密の名を」


 さらりと、バジリルはハルシャの耳に真名を囁くとまた笑った。

 長く生きると、こんな風に面白い事に出会える。


「ディーシャ、さま?」


「秘密の名前なので、その名は二人の時に。ですが貴方はとても面白い方だから。私が時折貴方を尋ねる事を許して下さいますか? 貴方が許して下さるのなら、私は時折昔話などを語りましょう。メルローアの歴史、書物に残されぬ真実は、きっとあなたの理想を……無駄の排除を手伝ってくれると思います」


 そう言って、バジリル……ディーシャはハルシャの額に手をかざした。


「友好のしるしに『これ』は頂戴しますね」


 途端、ふわりとハルシャの身体から鉛のように重たく感じられた疲労が消えた。


「私の魔力で出来るのは此処までなのが情けないのですがね。大祭司のような奇跡は起こせませんが」


「体が軽い、です……」


 言いながらハルシャの視線は書類の山に走った。

 休みを程よく取った後のような爽快感が身体を走っている。今なら何が出来るだろう。何か出来そうだ、何が? 何が!


「ディーシャ様……私は仕事に、もどらねば」


 口調がたどたどしくなるのは既に心がやるべきことに傾いていてディーシャという存在の事をふとすれば忘れそうなほどで。


 解りやす過ぎる宰相を見ていると腹の底からこみあげるものがある。涙さえ浮かせてディーシャは笑ってハルシャに告げた。


「どうぞお戻りください。ただし、貴方が仕事を終えると仰った十八時には、手を止めて下さいね。私は神殿に戻ります。王に神殿が完全にサポートしますなどと口にした己が恥ずかしくてたまらないのです。我々にもどうか、神殿が、王から奪える仕事を仕分けて下さると嬉しい。ただ、勿論仕分けられるのを待つではなく考える為に、私は戻ります」


 そういうなり、ディーシャの姿は消え失せた。

 ディーシャが消えた宙を一瞬だけ見やったハルシャは、しかしすぐに書類に没頭する。不思議な事に処理速度が恐ろしく上がっている気がするが、これは疲労が消えたからだろうか。一瞬考えかけて、ハルシャは止めた。

 そんな事を追及するより、目の前の仕事を片付ける。自分自身への疑問も、暇な時ならば兎も角今は酷く無駄に思えるから、切り捨てる。


 執務室に紙が立てる音がただただ、響いた。




 ハルシャ・シズリアはこの時はまだ何も気づいてはいなかった。

 

 自分がこの先延々と続く歴史の中で沢山のものの立ち位置をがらりと変えた事も、自身に授けられた大きすぎるほどの恩恵も何も。


 一人の男が、ただ当たり前の事を思うままに口にした。

 ただそれだけの事。


 これも歴史の転換点の一つである。


一旦区切ります。


第三章の準備を必死で行っております。お待ちくださいませ

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