10 神に仕える者達の思惑
王城で最も格の高い応接室、『燦華の間』にて、フランヴェルジュは懸命に不機嫌さを隠していた。
その隣にはエスメラルダがいる。王妃としてそこにいる事を望まれて。
朝のスケジュールの確認は、フランヴェルジュをこれでもかという程憂鬱に、そして苛立たしくさせた。
本来ならば、朝議から始まるであろう一日のスケジュール。いつもフランヴェルジュは時間との戦いだと思うのだが、常の彼は朝が来る度ぎっしりみっしりうんざりする程の予定を聞かされていたのである。
それが王であるフランヴェルジュには当たり前の事であった。
ただ、王妃となったばかりの娘に殺人的スケジュールが組まれていたならそれは王の権利で待ったをかけようとは思っていた。ヒトはいきなり何でもこなせるようになるわけではないのだから。
そんなことを思いながら朝食の席についたフランヴェルジュとエスメラルダに告げられたスケジュールは一件だけ。
「神殿が、朝餉を終えたらすぐに国王王妃両陛下にお時間を賜りたいと申してきておりまする」
それを聞いたフランヴェルジュは一瞬手に持っていたゴブレットを投げつけてやろうかと本気で思った。
多分、この国を離れていた半月の間、そして蜜月の期間、たまった仕事は山より高く積まれているだろう。王が裁決を下さなければならない仕事は、幾ら他の者が頑張ろうともフランヴェルジュ以外にどうしようもないというのに。
「……神殿が求めるのはどれくらいの時間だ? その後のスケジュールは?」
スケジュールを告げる為に後宮に足を踏み入れた女性文官は泣きそうな顔で言った。
「スケジュールは一件きりで御座います。神殿が……大祭司様と神官長様が仰るには大事な話になるので今日は他の一切のスケジュールをいれる事はならじと」
やらなくてはならない事は山積みであるというのに突き付けられた勝手で、フランヴェルジュに不機嫌になるなという方が間違えているだろう。
そんなこんなで、朝食を終わらせ『燦華の間』の玉座代わりの椅子に座るとフランヴェルジュは溜息を吐きつつとんとん、と隣の椅子を軽く叩き、エスメラルダに勧める。
王妃の席だ。
「フランヴェルジュ様……これから話し合いをする神殿は婚姻を認めていないのではないでしょうか。それなのにそこに座ると……わたくし達は神殿に喧嘩を売る事になりませんか?」
「馬鹿だな。別に喧嘩を売る気はないが事実を事実と、神殿にはしっかり理解してもらわねば困るだろう? メルローアに住まう六千万人の民が求めた婚姻を、王である俺は神殿に屈して引っ込めるわけにはいかない。お前が望んでない形だろうが、もうお前は王妃としか言えない娘だ」
フランヴェルジュの言葉に、エスメラルダはしぶしぶと王妃の席に腰かけた。
今日のエスメラルダのドレスは林檎色。黒い喪服も色のつかない白いドレスもそもそも衣装室に存在しない。エスメラルダがその目で確かめたのだから確かだ。どうしても服喪に相応しいドレスをと思っても、白が許されているのは夜着だけ。
昨日からのあれやこれやで頭がいっぱいになっているエスメラルダはかんしゃくを起こす余裕すらなくこのドレスを纏った。目に鮮やかな紅。この色のドレスは嫌いだった。レーシアーナが最後に着ていた真紅のタフタを思い出すから。
蜜月が終わって初めて人前に出る王妃のドレスとして、俗に『二度目のデビュタントのドレス』として決まっているドレスでないのなら、この色のドレスをエスメラルダは絶対に着なかっただろう。
けれど、この林檎色のドレスはレーシアーナが一緒に布から見立ててくれてフォビアナに二人が仮で注文をつけまくって出来上がったドレスで。
今エスメラルダが着ている林檎のドレスは、首筋まで隠してしまうデザインのとてもシンプルなドレスだが、エスメラルダの華々しさを考えると下品にならないで済んだのは極限までに装飾を落としたそのデザイン故だと思われる。裾は小指一本分引きずる程度の長さになっている。アクセントの真珠も敢えて大粒のものは選んでいない。
このドレスのデザイン画はまだルジュアインがレーシアーナの腹の中にいる時、エスメラルダとレーシアーナの意見を聞きながらフォビアナが必死にまとめた物だった。
この林檎色のドレスのデザイン画を必死になって作っているフォビアナを前にしてエスメラルダとレーシアーナは楽しく囀っていたものだ。
あの日、レーシアーナは断固として言い切った。レーシアーナは己が着飾る事に夢中になる娘ではないが、大事な存在を飾る事にはとても熱狂的になる娘だった。
「貴女よりもわたくしの方が絶対解っているわ。貴女の瞳の緑に映える赤はこちら。絶対にこの赤にすべきだわ。そして、流行であろうとも何であろうとも、目に鮮やかな赤を用いるのならば飾りは最小限にした方が良い。アクセサリーは真珠が良いと思うわ。ねぇ可愛いエスメラルダ。もし真紅の林檎のドレスにルビーを飾るだなんて、そんな事をしたら……きっとおつむが残念な娘に見えるわよ」
「わたくしも林檎の衣装にルビーは……そうね、貴女の主張するこの赤ならルビーは道化だと思うわ。ルビーが生える赤もあるでしょうけれど。けれど、ねぇ」
娘達はお互いの顔を見つめ、可愛らしく笑う。
「林檎色、ですものねぇ」
「ええ、そうなのよ。林檎色、なのよ。ねぇ、エスメラルダ、かじりつきたくなるような飛び切り極上の林檎をイメージしましょうね」
そう言って、布そのものは簡単に決まったのだ。真紅の林檎、そしてエメラルドの瞳と最も相性のいい赤。
けれど娘達はトレーンで迷い道に入ってしまった。余計な飾り紐やリボンを馬鹿みたいにつける必要はない、ここまでは簡単に決まったのに引きずるほど長い女王のトレーンか、微かに引きずるのみの姫君のトレーンか、ドレスそのものがシンプルを極めたそれなので余計に決めかねる問題であったのだ。
「いっそ凄くシンプルな娼婦みたいなドレスだったら面白いかもしれないわ。今年の流行でもあるし胸元を大きく開いても良いかもしれない。でも駄目ね、フランヴェルジュ様の横に娼婦の真似事をして立つのは絶対に駄目だわ」
考えるのに疲れたエスメラルダが漏らした言葉にレーシアーナはぎょっとしたように言った。
「娼婦の恰好がとんでもないのは当たり前だけど……林檎のドレスで、蜜月を過ごした直後の胸元を晒そうだなんて考えてはいけないわ。愛された跡を残す肌は人前に出すものではないわ。むしろ首筋まで覆い隠さないと」
エスメラルダはきょとんとした顔になる。
エスメラルダはその時、まるでレーシアーナの言う意味が理解出来なかったのだ。
愛された跡? 縛って吊るしておくのでもないのに何故身体に跡がつくの?
今ならば、その疑問を口にしなかった己を賢明だと褒めてやりたいと思う。
だって知らなかったのだ。身体に落とすキスがほんの少し熱を帯びただけで肌に赤い花を散らすなんて。
きょとんとした顔のエスメラルダを置いてレーシアーナは悩む。
「わたくし達が取り掛かる問題はトレーンの長さじゃなかったかしら? 林檎のドレスって、いえ、赤という色はなんて扱いにくいのかしら! この林檎のドレスだけは本当に迷わせてくれるわね。下品さと上品さが紙一重の難しい色! こんなに悩ませてくれるなんて本当にとんでもないわ」
途中からエスメラルダはトレーンの長さはどうでも良くなってしまった。ただ裾が長いか短いかの違い。
それより、そんな事で、自分を思って悩んでくれる友人を得た事に幸せを覚えて……。
ああ、駄目だ、思考を切り替えよう。
エスメラルダは一瞬固く目を閉じた。落ち着きなさい、エスメラルダ。わたくしは今、レーシアーナの選んでくれた通りの林檎色のドレスを着ている。そして目を開けたらその時には、わたくしはレーシアーナが想像してくれたような『王妃様』にならなくてはならないわ。
ゆっくりと瞼を開けた。唇が笑みを作る。
わたくしは、フランヴェルジュ様の隣にいる。それを忘れてはならない。
だからわたくしは、背筋を伸ばせる。笑顔でいられる。
「フランヴェルジュ様が、神殿の求めにこう簡単に応じられるとは思ってもおりませんでした」
赤い唇を開くと、するりと言葉が出てきた。
「今は喧嘩をしている場合ではないからな。神殿は王家に忠誠を誓っているものの、その権力は王にとって決して無視できないものだ。王の首をすげ替える事など何度もあった。今それをされるわけにはいかない」
苦々し気に言うフランヴェルジュにエスメラルダはただ頷いて見せる。
第一位王位継承者は心を壊し、第二位王位継承者はまだ赤子。
「ブランシールやルジュアインを道具にされるわけにはいかない。それに、服喪が終われば婚儀のやり直し等でどうしても神殿と関わっていくことになる。今は本気で神殿と喧嘩は出来ない。忌々しい事に向こうはそれをしっかり解った上で高圧的に来ているのだろう。俺達が蜜月を過ごしている間に大祭司が目覚めたのが……本当に面倒くさい話だ」
エスメラルダは目を細めた。
婚儀のやり直し……また、あの場所で?
しかしそう思った瞬間に窓を閉め切った『燦華の間』に風が吹いた。
驚いてエスメラルダは思わず立ち上がりかけ、その手をフランヴェルジュに掴まえられて何とか半分浮いた尻を椅子に沈めた。
目の前に、黒髪黒瞳の大祭司と白髪を丁寧に整えた琥珀の瞳の老神官長が現れる。
大祭司マーデュリシィと神官長バジリル・スナルプ、王家が決して無視できぬ存在。
唐突にその二人が現れた事でエスメラルダは声を上げる事はなかった。うっかり立ち上がりかけたがフランヴェルジュが止めてくれたおかげで醜態を晒さずに済んだ。
無視できぬ存在ではあるが、神殿は王家に忠誠を誓いし存在。だから、王妃となったエスメラルダは彼らを迎える為に立ち上がってはいけない。王妃であるというだけでなく血族のからくりも知っている身でそんな滑稽な真似をする訳にはいかなかった。
そして、ここにはこの四人だけ。
王族と神殿を司る者達との話し合いに同席を許されるものはいないのだから。
マーデュリシィは艶やかに微笑んだ。黒髪黒瞳、白い衣、つつましやかな色彩を唇の赤だけが裏切る。彼女の情熱を見せつけるように。
そして大祭司と神官長は静かに王と王妃に礼を取った。
「座るが良い」
フランヴェルジュは自分達が座する向かい側にある二客の椅子を示す。
「有難う御座います、陛下」
甘い声で言うとマーデュリシィもバジリルもブロケードの椅子に収まった。
「今日は一体どのような話か? 大祭司は眠っていて知らなんだ事は沢山あろうが……」
「いいえ、全て知っております」
マーデュリシィはフランヴェルジュの言葉を遮る。
「ご成婚、おめでとう御座います、両陛下の道のりが優しからん事をわたくしは祈ります」
一瞬、フランヴェルジュもエスメラルダもぽかんとしてしまった。
ゴセイコン、オメデトウゴザイマス?
―――神殿は意地でも認めないと、そう踏んでいた二人は、心の底から驚いたのだ。
「神殿は、メルローア歴七百四十七年、六月九日、カリナグレイの広場で行われた誓いを正式な婚姻と認めます。神殿の承認の発表は今日の十二時の鐘と同時に行います」
笑みを絶やさぬままマーデュリシィは言う。
バジリルはマーデュリシィの言葉を書き留めているのか、白い紙に何やら書き綴っているが、時折紙から顔を上げてフランヴェルジュとエスメラルダを見つめるその視線は、とても優しい。
しかし、フランヴェルジュの混乱は続く。
神殿は権威を大事にするものだ。絶対に婚儀のやり直しを、威儀を正したそれを求めてくると思っていた。
「どういう心境か? 大祭司よ」
「わたくし達の可愛い王妃様に、親友が自分を庇って死んだ場所での婚儀のやり直しを求める心算は、わたくし、つまり神殿にはありません」
その言葉を聞いた途端、エスメラルダの瞳に涙が盛り上がった。
泣いては駄目、駄目よ! でも、でも、もう本当に、あの『誓句の間』でのやり直しをしなくても良いの? 本当に?
マーデュリシィはエスメラルダを見て、そしてまた視線をフランヴェルジュに返す。
「そういう訳で次に『誓句の間』を使うのはルジュアイン様かお二人の御子様の華燭の典の時になりますでしょう。それまで優に十数年という時間が御座います。陛下、貴方が望まれたように王弟妃様が亡くなられたあの場所を惨劇が起きた場所とは信じられぬくらいに徹底的に作り替える暇は十分ありますわ。死はなかったことには出来ませんが、あの場所をあのままにしておく必要は全く御座いません」
「……全てお見通しか。服喪の期間だけで作り替えるのは無理だと解っていたから婚儀のやり直しを行ってから、『誓句の間』の作り替えを提言するつもりであったが」
苦笑するフランヴェルジュの横でエスメラルダは何とも言えない不思議な気持ちになっていた。言葉にするには余りに難しい感情だが一つだけ、解りやすすぎる位解りやすい感情がある。
あの『誓句の間』にもう立ち入らなくてよい事、仮に自分達の子供が婚儀を挙げるとなった際にはあの場所はレーシアーナが死んだ名残も見出せぬ場所に作り替えられているであろうことに、エスメラルダは安堵していた。
バジリルが徐にペンを置いた。
「占朴の結果、善き日は七月の満月の日……二十二日と出ました。王の御許可を得られますならば、その日に各国貴賓を集めてのお披露目のパーティーと戴冠式を同時に執り行いたいと思います。他国の貴賓方には御自分が立ち会っていないのに婚姻が成立している事に不満を覚えぬ方ばかりではないでしょうから、戴冠式の列席をそれに変えて頂けば良かろうかと、愚考しました」
言いながら先程書き記していた紙をフランヴェルジュに差し出す。
「戴冠式にお披露目パーティー……それに、祭りだと? 幾ら慶事でも、まだ王家が喪に服する期間に祭りを行うというのか?」
固い声でそう言いながらフランヴェルジュは隣に座る娘にその紙を渡した。
王都カリナグレイだけでなく、地方でも小神殿を中心に祭りを行う、と記された紙は、祭りを行ってもよいかと聞くものではなく、決定事項として知らせるもの。
「その事につきましては、十二時の鐘と共にご理解頂けるかと。最終的に両陛下はきっとご納得下さるとわたくしは信じておりますわ」
フランヴェルジュは心の中で悪態をついた。
何をもったいぶるのか、こっちを説得できる材料があるのならばさっさと目の前に並べて見せるが良い。出来るのならば、な。
「兎に角、神殿はお二人の婚儀のやり直しを求めません。その事について何か思われることがあればどうか仰せになって下さいませ」
フランヴェルジュは口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。婚儀のやり直しを経て、やっと愛しい女を自分の正式な妻に出来ると思っていたのに。そう思うと複雑で。
けれど、もし、やり直したとすれば。
気持ちの整理は付くかもしれないが、絶対にレーシアーナの事を思い出すだろう。エスメラルダの命の為にシャンデリアの下敷きになって果てた金の髪の娘を思い出すに違いない。
そんな形で気持ちの整理をつけたとして、愛し合えるのだろうか?
それなら、今の形のまま服喪の期間が明けるのを待っていた方がマシだ。
「神殿の意思を余は受け入れる」
エスメラルダは何も言わずに、ただ頷いた。
「お話が一つ終わりましたな」
バジリルはそう言うと琥珀の瞳を新しい王と王妃に向ける。神殿が認めた正式な王と王妃に。
「大祭司様」
バジリルが促すと大祭司は小さく頷き、フランヴェルジュとエスメラルダを見つめた。
「国王陛下に申し上げます。ぬばたまの牢においでの王弟殿下を二年間、わたくしに預からせて下さいませ」
「何だと!?」
思わずフランヴェルジュは立ち上がっていた。エスメラルダは止められなかった。フランヴェルジュは……目の前の大祭司を切り殺しかねない勢いの殺気を放っている。
「大祭司よ……そなた、あれがぬばたまの牢にいる事まで知っておるならあれの心が壊れている事も知っておろう? その弟を種馬にでもする心算か!?」
エスメラルダは息を呑んだ。
ブランシール様を……?
他国の聖職者達と違い、メルローアの聖職者達は普通にまぐわい子を成す。
特に大祭司と呼ばれる地位の、神殿の総意、主の代理人と呼ばれる女はその強い魔力を残す為に何人もの男を囲うのが常であった。
マーデュリシィが未だ一人の男も囲っていない事こそが奇異。
だが、神殿の常識であろうが何であろうが、この件についてはフランヴェルジュは従うつもりはさらさらなかった。はっきりとした意思も持たない弟を慰み者にするような真似をさせてたまるか!
しかし、マーデュリシィの顔にはいつもの笑みではなく心底相手を馬鹿にしきったような表情が浮かぶ。
「わたくしは、子種が欲しくてブランシール様を預からせてくれと申し上げている訳ではございません。わたくしの中でまだアシュレは思い出になってはいない。死んでも思い出になどするものですか。だから陛下、幾らブランシール様がアシュレに似た顔の殿方でも、わたくしはそういう相手には選びません」
「では一体何だというのだ……?」
気をそがれて、だけれどもフランヴェルジュは聞く。大事な弟の事だ、適当に済ませられるものではない。
何とか座って見せた。冷静さを欠いた己を恥じる。ブランシールがこんな様を見たら苦笑するだろう。
ぎり、とフランヴェルジュが奥歯をかみしめた瞬間、その言葉は放たれた。
「我らはただ、王弟殿下をお救い申し上げたいだけなのです」
バジリルの言葉にフランヴェルジュは目を見開く。
救う? 救うとは、どういう意味だ?
「御救いする方法があるのですか!?」
エスメラルダは思わず大きな声を上げた。
ああ、レーシアーナ!




