8 熱 前編
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恐ろしい事に、何事もなく王の蜜月が終わろうとしている。
初夜から続く三日目の夜十九時、正餐を取る。
自分が何事も起こさなかったことをフランヴェルジュは褒めてやりたいと思う。日のあるうちも日が沈んで後も、さしてそれは難しい事ではなかった。心底意外な事であるけれど、本当に、難しくはなかったのだ。
エスメラルダはレーシアーナの友人として王宮に迎えられてからブランシールも混ぜた四人で朝の議論に興じていた時に感じていたままに、優れた話し手だった。もうあれもこれも話したはずだと思うのに彼女は何処からともなく話題を探してくる。リドアネ王の話は決して楽しい話ではなかったが長年心の中でわだかまっていたその話をエスメラルダはあっさりと『だから今の自分達がいるのだ』と肯定してくれた。あの後寝室に帰ってきて食事をとりながら色々な話をした。そして交代で湯浴みをしてあっさりと眠ってしまい、翌日も当たり前のように朝食は会話から始まった。
フランヴェルジュは湯浴みの後の眠りがカスラの考えるところの少々強めの睡眠薬でもたらされている事を知らないので理性が持っている事を誇らしく思う反面、少し二十二歳の男としてどうなのか思わないでもない。
ない、が、来年の四月か五月まで延々耐えなくてはならない事を思うと、蜜月の始めは兎も角今自分が理性を保っている事をやはり誇らしく思ったままで良いのだろうと思う。正直自分だけでなく誰か褒めてくれて構わない出来事の筈だとさえ思う。
このまま、楽しい会話にエスメラルダの笑顔が……時折悪戯気に、可愛らしい意地悪さに、そして誇りに、様々な思いで浮かべられる笑顔があればフランヴェルジュは服喪の期間耐えられると短絡的に考えていた。
耐えられないのはエスメラルダの方であった。
おかしいとエスメラルダは思う。
今日の午餐は味がした。
けれど今口にしているものは、感触はするのに無味無臭に感じられる。
隣に座るフランヴェルジュは何事もなくナイフやフォークを動かして咀嚼している。だからきっと味がない訳ではない。料理人が調味料を入れ忘れたにしても素材の味がなくなる事はない筈だし、フランヴェルジュはおかしなものをエスメラルダに食べさせたりはしないだろう。
自分は何かを思い悩んでいるのだろうか? 彼女にとって料理の味がなくなるのはそういう時だ。
けれど、とエスメラルダは思う。
何を思い悩むというの? 楽しくわたくし達はお喋りを楽しんで、そしてこの三日間が、もうすぐ終わるというのに。
こんなにフランヴェルジュ様を独り占めして沢山沢山、疲れるまでお喋りを楽しんで……こんな事、初めてなのよ?
そう、三日間も一緒だった。三日間、二人きりで。
籠の鳥宜しく閉じ込められた三日間。王の蜜月。この三日間が終われば、終われば……。
エスメラルダはフランヴェルジュを見た。
いつの間にか手が止まっていた。
こうやって彼の隣で食事をとるのは恐らく最後だ。エスメラルダとフランヴェルジュ、レーシアーナとブランシール、四人で朝食を楽しみながら議論していた時の習慣。
最初の頃は何故彼の隣の席なのか理解出来なかった。十一、十二で葬儀の席次を手配した事のあるエスメラルダの常識の範疇から色々とずれている。けれど正面に座る事が正しかったのか? どんな席次も間違いだ。彼はあの時既に国王で、自分は彼の弟の妻の友、その話し相手の平民でしかなかったから同席自体がおかしかったのに。
けれど幸せだった。ただ明日からは、彼の正面に座る事になるだろうけれど。王と王妃の食卓を考えると、きっとそうなるだろうけれど、でも今も幸せだ。
今も?
エスメラルダの隣に座る男はグラスを手に取りワインを嚥下しているところだ。
女とは違う発達した喉仏が、動く。ごくごくと嚥下のたびに動く。
首筋、口づけの際にいつもエスメラルダがしがみついていたところ、明日からは真正面から見るのだろうそこは酷く蠱惑的だった。
タイに束縛されない今日、襟の開いたシャツは鎖骨まで見せている。
「エスメラルダ? どうした?」
見られている事に気が付いてフランヴェルジュが声をかけた。
エスメラルダは「いえ」とだけ答えて自分もナイフとフォークを動かそうとする。
食べたいのは目の前のステーキなんかではなかった。
けれど、何を食べたいのかまだ分かっていない彼女は取り敢えず動かそうとしたナイフとフォークを置くとグラスを手に取りワインを口にする。
同じように酒を飲んでも、エスメラルダの喉とフランヴェルジュの喉の動き方は違う、思った瞬間酒という酒を愛したはずなのにその味は料理と同じくらい解らなくなった。
ワインの味まで解らなくなったのは正直初めてでエスメラルダは困惑し、空になったグラスとワインボトルを交互に見やる。どうしていいか解らないままグラスをテーブルに置くとフランヴェルジュがその大きな手でボトルを掴んだ。普段の彼女なら驚いて止めただろうが、今の彼女にその余裕はなくフランヴェルジュの好きにさせた。つまり酌をさせたのである。
フランヴェルジュが彼女のグラスにたっぷりとワインを注ぐと改めて言った。
「この三日苦労を掛けた。明日からはまた違う苦労をお前にかけるだろうが、……すまないな」
エスメラルダはふるふると首を振った。
ワインを飲み干したばかりなのに酷く喉が渇いていて、声を出せない。
フランヴェルジュはそんな彼女に最初気が付かなかった。あまり考えずに自分のグラスにもワインを注ぐ。常のエスメラルダなら酌をさせた詫びと礼が口にされるだろうにそれに気づかなかったのはフランヴェルジュも少し冷静ではなかったのかもしれない。自覚はない上に本人は理性が良い仕事をしていると思い込んでいるが。
エスメラルダはフランヴェルジュの手を見つめた。注がれたワインを飲むべきだと思いながらただ見つめる。
この手は。
武骨でタコや肉刺だらけのその手をエスメラルダだけが所有できるのは今夜まで。
そうだ、たった三日、この男が自分だけのものであるのはたった三日だけなのだ。
今更ながらに気付いて、しかしエスメラルダは息を呑んだり目を見開いたりはしなかった。
そんな余裕もなかった。
フランヴェルジュを見る。彼の動きを見る。
ワインを注いだばかりのグラスを持つ、ワインを嚥下する、ナイフとフォークに手を伸ばす。肉を切り分ける。
そんな、ただ食事をとるというその動きを、エスメラルダは食い入るように見つめる。
目が離せないのは何故だろう。
王の蜜月は一人の王につきその生涯に一度きり。
エスメラルダとフランヴェルジュが服喪の期間を終えもう一度婚儀を挙げても王の蜜月というものはない。婚儀を終えて煩雑な行事を終えてそして床について……その晩何かが二人の間にあったとしても、フランヴェルジュは翌日涼しい顔で政務に取り掛かるだろう。そして自分もその頃にはそれなりに慣れているだろう王妃が成すべき仕事に励むだろう。
王妃となる娘が王を一人の男として愛することが出来るのはたったの三日。
その三日が過ぎれば、男は王に戻る。
自分はこの三日間何をしていただろう。
ただ、会話していただけだ。
そして……何という事だろう、自分達は口づけ一つ交わしていない! あの日、カリナグレイの広場で誓いを交わしたその時からずっと!
フランヴェルジュ様は待つと仰って下さった。
それでも。
エスメラルダはフランヴェルジュが聞いたら怒るどころでは済まない事を考える。
リドアネという王は、妃を愛していたという。しかし、孕んだ末にその子供を産み落とせば命を危うくするような妃を、彼は抱かずにいられなかったという。
どうして、フランヴェルジュ様は待つと仰り、そして待てるのかしら?
エスメラルダは男が女を求める衝動という点でのみ、そう、その一点だけでのみ耳年増だった。
レイリエという魔性がすぐ近くにいながら、エスメラルダはその衝動だけしか知らずにフランヴェルジュに求められたのだ。
だから、本当に……フランヴェルジュが激怒するどころではない事をエスメラルダは考えてしまう。
フランヴェルジュ様は待てるのではなくわたくしに対してそういう衝動を……あまり覚えられることはないのかもしれない。全くではないだろうと思いたいけれど、でも。
そう、思ってしまったのだ。
彼の愛情は疑っていない。
ただ、衝動の対象ではないかもしれない。
ある意味エスメラルダはこれほどまでにない失礼な事を考えて、フランヴェルジュに申し訳なく思うより、ただひたすらにショックだった。彼の心でなく己のプライドの事でさえなく、ただ彼女が思いをはせるのは。
フランヴェルジュが何かあったかとエスメラルダを見たのにも彼女は気付かなかった。
フランヴェルジュに見つめているのがバレるのをエスメラルダは恐れていたのだろうか。彼の全てから目が離せないという状態からはエスメラルダはいつの間にか逃れられていた。
いや、彼の衝動が己の身の上にないと考えてしまって見ているのが辛くなったのかもしれない。
それでも完全に目を逸らし素知らぬ顔で食事に戻る事は出来なかった。
エスメラルダはただ、フランヴェルジュのその手に視線の全てをいつの間にか傾けていたのである。
ただ一度、彼が彼女に衝動を示した夜、彼女の身体を撫でて愛でた手、日焼けした武骨で愛おしい手。
フランヴェルジュはどうしたのだろうと思う。いや、彼は不安になったのだ。
エスメラルダが黙り込んでいる時は大抵何か思い悩んでいる時だ。
真の事しか口にしない愛する女は、辛い時悲しい時苛立っている時、そんな時、余計な事を言わない。ただ口を噤む。
何かあったのだろうか、何を思っているのだろうか、……そう思い適当にナイフとフォークを置いてみたらソースがはねて左手の人差し指を汚した。
王族としてはあるまじき事、とまではいわないがあまりテーブルマナーの宜しくないフランヴェルジュにはソースで指を汚したことが別に初めての事という訳でもなく、この歳になっても母が顔をしかめ弟が苦笑することもままあった。今の弟はそんな反応はしてくれやしないが、指を汚すこと自体は珍しい事だが無かったことではないのである。
だから汚してしまった指を一瞬見つめたフランヴェルジュは当たり前のようにその指をナプキンで拭おうとして。
エスメラルダにその手を奪われた。
驚いて金の目を見張るフランヴェルジュのその顔をエスメラルダは見もしなかった。
彼女はただフランヴェルジュの手を、指を、吸い付けられるように見つめ、奪ったそれを愛でた。
この手。自分の男の手。自分の素肌に触れた手。そして指。自分の身体をなぞり、知らなかった事を教えた指。
奪い取った左手の、その人差し指を何も考えずにエスメラルダは口にしていた。
武骨な手のその指は、関節もしっかりしていてそれなりに太い。けれどとても長くしなやかで。そしてその爪は常に短く整えられていてとても清潔で。
彼女はその指を愛していた。
ああ、そうだ。
フランヴェルジュの衝動の対象が自分か否かという事よりもっと放っておけない事があったのだ。
自分の衝動の対象は、彼だ。
ソースなんてとっくに綺麗になっているだろうにエスメラルダはそんな事どうでもよかった。口の中にあるフランヴェルジュの指を愛したかったのだ。だからろくな知識も持たぬくせに本能のままにその指を愛した。唇で舌で、彼女に出来うる限りに愛した。
固まっていたフランヴェルジュが動いた。金縛りにあっていたようだった身体は、しかし動き出したら止まらなかった。
強く手を引く。エスメラルダのさくらんぼの唇から、真珠の歯から、吸えば甘い舌から、そんなものから自分の指を解放させる為ではなかった。確かに彼が強引に動いたせいで指は解放されたが、それだけで済ませたくてももう無理だった。
フランヴェルジュが必死にこらえ意識すらしないようにしていたものをその場に引きずり出し露わにして目茶苦茶にしたのは彼ではない。エスメラルダだ。
グラスが倒れてリネンに染みを作った事にも二人は気付かなかった。カトラリーやらなんやらはそれなりに賑やかな音を立てたが二人ともそれを無視した。いや、互いしか見えなくなっていた二人には聞こえなかったのかもしれない。
あっさりと身体を引かれフランヴェルジュの膝の上で彼の左腕に抱かれる形になったエスメラルダは、酷く無理やりにそうされたというのに悲鳴一つ上げなかった。
嫌ではなかったからであろう。
自覚していたか、していなかったか、……そんなことを考えようとはしなかったものの心の底では望んでいた通りにフランヴェルジュはしてくれた。なのに悲鳴を上げる必要が何処にあろうか。
細い身体を膝に乗せ捕まえたフランヴェルジュの顔は、酷く苦しそうだった。
「……誘ったのはお前だ」
掠れた声がエスメラルダの耳を打つ。
誘う?
わたくしが、誘う?
けれど、思った瞬間に唇は塞がれていた。
激しい口づけは初めてではない。だがこんなにも乱暴に奪われた事はなかった。熱い、ワインの味をほんの少し残した舌は、何処までも強引だった。その目茶苦茶な口づけは優しさの片鱗もなかった。
――なのに、酷く昂った。
昂ったまま、エスメラルダは懸命にその口づけに応える。応えたくて応える。
身体を火照らせる女を左腕で抱きしめながらフランヴェルジュは無意識にエスメラルダの黒髪に手を絡めた。
理性は良い仕事をしていたのに。
女の唇、そしてその舌。
指先に与えられる艶めかしい粘膜の感触。
フランヴェルジュは自分を冷静だと思っていた、ついさっきまで。何もかも楽天的に考えていた。
彼は自分がようやっと馬鹿だったと知る。
『日常』だとかいうものは理性をフル動員させてやっとなんとかなるものではない。自分の理性を誇らしく思う程働かせていた時点で自分は冷静なんかではない事をもっと早くにフランヴェルジュは知るべきだったのだ。
己の心の底の焦燥を理解していたとして今のこの状況は避けられはしなかっただろうけれど。
仕掛けたのはフランヴェルジュではなくエスメラルダなのだから、フランヴェルジュが自分を理解しようがどうにもならなかっただろうけれど。
二人は、溺れる。あっさりと溺れる。
ああ、舌が甘い。
心に爪を立てられるような甘い痛みをフランヴェルジュは覚える。
カリナグレイの広場でのキス、あの後自分がエスメラルダの唇をその唇で塞がなかったのは、……フランヴェルジュは認めたくないが認めるしかなかった。自分の理性とやらが大した力を持っていない事、簡単に欲望に屈する程度のものだという事、それを知っていたからだ。そうだ、そんなものだと認めてしまえ。




