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エスメラルダ  作者: 古都里
第二章 王の蜜月
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7 賢妃の過ち

 メルローアの王が娶るのはただ一人の王妃。その代わりほぼ全ての王が恋愛の末に妻を娶っている。妾妃という言葉が生まれたのはリドアネ王の治世だが、リドアネという男は『血杯の儀』を受けた王妃もしくは王太子妃と違い全容を知らぬまでも『本当の妻』と呼べるものを一人しか娶れぬことを知っていた筈だった。なのに何故、何故彼の時代に妾妃という言葉が生まれたのだろう? 貴族が妾を囲うのはよくある話だが、王というものは違う。王が崩御した際に王位を継ぐ可能性のある他の王族もまた、違うというのに……リドアネという王はとてつもない好色家だったのだろうか。メルローアの機構、血族に連なる神殿の機構を無視するほどに?


「お顔を上げて下さいな。そして宜しければ教えて下さいませんか? この後宮が、かつてのリドアネ王の後宮がこれほどまでに広い理由わけを」


 顔を上げたフランヴェルジュは少し不機嫌だった。


 この後宮が広い理由、つまりリドアネという王が数多の妾妃を囲っていた理由。


 一人の男として、フランヴェルジュは祖父に心から同情の思いを禁じえない。そんな思いを孫に抱かせる話は面白い話であるとは思えなかった。


 しかしすぐに思いなおす。

 リドアネ王と正妃ルーニャ、そして妾妃達の話はほんのわずかなお妃教育では『ただあった事』として、事実のみを教えられた筈だ。

 別にメルローアの暗部という程の話ではない。ただ、王族の中でも限られたものしか知らない話ではある。意図せずとはいえ王妃となったエスメラルダは知ってもいいだろう。


 何より、フランヴェルジュは祖父と同じ運命を辿る位なら腹掻っ捌いて死ぬ方がマシだと思うのだから。


「あまり面白い話ではないがな」


 フランヴェルジュはそう言って祖父と祖母、その歪な形を語る事にした。祖父から聞いた話、両親から聞いた話、叔父から聞いた話、紐解いた公式文書から神殿の記録……歪さにぞっとして調べ倒した記録は恐らく限りなく正確だろう。嫌な事に。




◆◆◆

 リドアネという男はそれなりに恋愛をして、その中で何人かの娘を王妃にと考えた事はあったが、彼女らには王妃としての資質が足りなかった。虚栄心が少々強すぎたり、ほんの少し傲慢であったり、慎みが幾分か足りなかったりしたのだ。それは大きな目で見れば大したことのない問題かもしれなかった。欠点のない人間などいないのだから。けれどリドアネは自分の隣に立ち玉座を分かつものとしての女性への理想が高過ぎた。そしてリドアネの両親も、父たる王も母たる王妃もそれを良しとしたのだ。


 リドアネもその息子のレンドルも、そしてフランヴェルジュも知らない話ではあるが、素質のない娘は血族の力で王もしくは王太子から遠ざけられる。他の男から恋を囁かれて離されるくらいならまだいい、どうしようもない娘ならば血族は黙って始末する。エスメラルダは運が良かったのかもしれなかった。出自は兎も角その性格は血脈を継ぐに相応しいと血族が認めていなければ彼女も歴史の闇に消されたに違いない。限りなく王位に近かったブランシールの妻、レーシアーナにもそれは言えた。


 だがそれは王妃もしくは王太子の妃しか知らぬ話。故に話を戻そう。


 リドアネがこれと思う娘はなかなかいなかった。彼がルーニャに出会えたのは奇跡だと言っても良い。ルーニャは伯爵家の娘でありながらも修道院に入った娘であったから。


 たまたま、祭事に神殿に駆り出された修道女がルーニャであった。


 リドアネは最初からルーニャに目を付けた訳ではなかった。たまたまその祭事は穢れを嫌うものであり、潔斎を行っていた際に巫女と共にリドアネについたのがルーニャであった。


 一目で恋に落ちた訳ではなかった。けれど、祭事が終わり、やっと口を利くことを許されたリドアネは何げなくルーニャに声をかけたのである。そして、言葉を交わした時にリドアネはこの娘ならばと、そう、思ってしまった。


 世俗から離れた修道女。


 清らかなイメージを持たれる彼女らは、しかしあまりお綺麗な性格の女性達が集まっている訳ではない事をリドアネは知っている。寧ろ女だらけの生活をしている彼女らの性格はリドアネにとっては今まで決して好ましいと思えなかったのに。

 余人がいる中、リドアネとルーニャが交わした言葉は多くなく、そして甘い言葉ですらもなかった。寧ろありきたりな、ただのあいさつの延長程度の会話しか交わしていなかったのに、リドアネは恋に落ちる自覚を抱くその前に、まるで神に囁かれたかのように確信してしまった。


 彼女こそ自分の隣に座る女だ。


 リドアネはルーニャと出会ったその時は冷静そのものに周りから見られていられたが実際は違う。既に彼女の事しか考えられなかった。ただ冷静に見えたのは自分の思いに呆然としていたからだ。だから却って彼は躾られた通りの『王子様』でいられた。


 リドアネが正気を取り戻した時、周りは反対に彼が正気を失くしたかと思った。


 神に仕える為に修道院に入った娘を無理やり還俗させて、恋を告げた。心ならず世俗に帰る事を余儀なくされたルーニャは最初頑なに拒んだ。ルーニャはただ修道院の生活恋しさに拒んだわけではなかったのだが、リドアネは決して諦めなかった。


 脅して言う事を聞く娘なら隣に並ばせようともリドアネは思わなかったに違いない。王族の権威に屈する娘でもリドアネは求めなかっただろう。


 周りは『ある理由』をもってリドアネの恋に猛反対した。理解ある両親ですら言葉を変え何度も諦めるように説得した。


 だがリドアネは言い切る。

「私はルーニャしか要らない」


 ルーニャは何度も何度も愛を囁かれるうちにリドアネに惹かれたが、頑なに首を縦に振ろうとはしなかった。出来なかったのだ。


 ルーニャは、美しい娘だった。

 銀色の髪にアイスブルーの瞳。


 レイリエという娘の母親だけある。レイリエを気高くし、そしてレイリエの持たない何かを足せばルーニャの顔になったであろう。

 だが、ルーニャには拒むしかない理由があった。


 そして、彼女は遂にリドアネの前で泣き叫ぶ事になる。


「幾ら貴方をお慕いしても! わたくしにどうなるというのでしょう!? この身体で! 到底子が成せぬとしか思えぬこの身体で!!」


 周囲がリドアネの恋を止めようと必死になったのは、ルーニャがリドアネに応えられずにいたのは、彼女のその身体が原因だった。


 月のものはきていた。

 けれど胸はとても小さく、腰回りは恐ろしく未発達で。


 十五の娘は、子供のような体型だった。子を成せると周囲の誰も思っていなかった。それを理由に修道院に入ったわけではないが、何時までも発達せぬ身体を修道女達は嗤い哀れんだものである。


「どうしてこんな酷い事をなさるの? どうしてこんなわたくしに愛を囁かれるの? 遊びで女を辱める事が、貴方にはそんなに楽しい事ですか!?」


 血を吐くような叫び声をあげたルーニャをリドアネはただ抱きしめた。彼はそんな思いをルーニャにさせているとは思いもしなかった。不思議と隣に立つ存在として狂おしくルーニャを求めたのに、彼女を孕ませることまで考えてもいなかったのだ。そして彼女が妊娠に耐えうる身体かどうか、そんな事はその瞬間まで思いつきもしなかったのである。


「遊びではない」


 リドアネはそう言うしかなかった。それが彼の真実だったから。


「お前しか要らない。お前以外私は要らないんだ」


 そしてルーニャは彼のものになる。


 血族が止めなかったのはリドアネが弟達に恵まれていたからに他ならなかった。つまり、ルーニャが子を成さずとも血は途切れぬと。だから血族は……神殿はリドアネとルーニャを祝福し、全ての者が批判を飲み込んだ。リドアネは少女趣味もしくは幼女趣味といってもいい、そんな風に人に思われても仕方のない体型の娘を妻にしたが、それ以前の恋愛を知るものはそのような性的嗜好から程遠い王太子であった事を誰しも知っていた。それ故に他に女なら幾らでもいるだろうにと思うものは少なくなかったが、神殿の権威とリドアネの本気に沈黙せざるを得なかった。


 ルーニャという娘は、その身体以外は王妃としてこれ以上ない程に相応しかったのだ。血筋も、性格も、美貌も、何もかも。


 そしてリドアネは間もなく即位する。即位した王の隣、王妃となった娘は人々の予想を裏切り子を孕んでいた。


 何故『蜜』を舐めなかったのかと人々は言葉ではなく視線でルーニャを責めたがルーニャは項垂れる事無く堂々としていた。


 激しく、何度も何度も愛を囁き、なのに不器用なリドアネをルーニャは愛した。その情熱の限りで愛した。愛した男の子を望まぬ女がどれだけいるだろう。おまけにルーニャという娘は母性の塊のような女であった。


 勿論ルーニャは自分が身籠る事が出来るとは思っていなかった。だが、子供を切望していた。


 ある夜、いつも通りにリドアネに求められ応え、そして何故か直感したのだ。


 わたくしは、たった今、ややこを孕んだのだわ。


 もともと不規則な月のものが途絶えても女官達はルーニャが身籠った事に気付かなかった。小柄なルーニャは殆ど腹のふくらみが目立たぬ妊婦であったという。


 ルーニャは自分の妊娠が分かった瞬間にでも堕胎薬を飲まされることを知っていた。リドアネの弟の中にはすでに男児をもうけた者もおり、自分の妊娠が、出産に到底耐えられぬであろうその身体での妊娠が、期待されていないどころかあってはならぬことと周りが思っている事も知っていた。なんという皮肉な事であろう、子を望まれぬ妃など。

 孕んだその時には王太子であったリドアネも王の座に就いた。そして王になったリドアネの隣に自分という存在が不可欠であり子供の為に失われることを誰もよしとしないことをルーニャは知悉していた。

 それ故に隠し通された妊娠、それが明らかになるのは産み月間近、出産以外の選択のない時期であった。


 リドアネは、男でありながら、王でありながら、子を宿したルーニャの腹で号泣した。何故自分はこの女を抱いてしまったのだろう、御典医は暗い顔をして「御子様の命だけはなんとしても」と言った。この子供のような体の女は出産に耐え切れず死んでしまうに違いない。


 けれどルーニャはそんな風に泣くリドアネの頭を黙って撫でた。

 ルーニャには勝算があった。


 『血杯の儀』を受けた自分が後継にそれを継がさずに死ぬことを血族は、神殿は決して良しとはしない。彼らが沈黙しているという事は、彼女は出産で死ぬことはないのだ、多分。

 『血杯の儀』を代理で行えるのは大祭司のみ、但し確実に命を落とす上に全ての記録が引き継がれる保証はない。まだ実際に『血杯の儀』を代理で行った大祭司がいない為データが不足しており、ルーニャはどれだけの割合でどれだけのデータが消えるのかという知識は持ってはいないが、神殿も血族もそれを許すだろうか?


 神殿は……同じ神を祀りながらも修道院や寺院とはあまりに異質な神殿は、単純に大祭司の死だけならばルーニャが死のうが見逃してくれただろう。しかし何度考えても記録が不完全なものになるリスクを冒すとは思えない。


 それは男の知らぬ事。


 けれど、ルーニャが死ぬことはないと思い安堵する理由はリドアネを置いて逝かなくていいという事だけで、愛する男の事が無ければ子供の為に死ぬことは全く怖くなかった。


 『メルローアの王妃』として、わたくしは失格ね。


 そんなことは解っている。それでも腹の中に宿る子供がただただ愛しくて。

 そしてルーニャは男児を生み落とし、そして死の接吻を受ける事無くその赤ん坊を腕に抱いてみせた。


 奇跡だと人々も御典医も誰も彼もが言う。


 子供が生まれた事よりまず母親が生き延びた事にメルローアの民は神に感謝した。


 子供にはレンドルという名が与えられた。


 けれど、無茶な出産に衰弱しきったルーニャに困った事が起きた。

 出産後、床上げは普通一ヶ月と言われているがルーニャは四ヶ月程ほぼ全く起き上がれずにベッドの住人であった。悪露もなかなか止まらず常に貧血状態なのに悪阻もない産後のほうが食べるという事に苦労した。その後、何とか普段通りに戻れたと彼女が思い周りが納得するまで随分とかかったものである。出産から数えると一年と八ヶ月という時間が過ぎていた。


 ルーニャは日常が戻ってくると信じていた。自分の産後の肥立ちの悪さ故に、どれだけ周りを振り回しただろう、特にリドアネを。

 ルーニャは妊娠前のように当たり前のようにリドアネと睦みあうことが出来る身体に戻れたと思っていた。御典医も、「必ず『蜜』を」と、許可してくれた。


 だが、リドアネはルーニャに触れようとしなかったのである。決して。


 子供がまだ赤子だから、ではないだろう。赤子は乳母に任せてある。夫婦の寝室にはリドアネとルーニャの二人きりだ。


 かつて、恋が叶いルーニャが嫁した時、リドアネはおずおずと不器用にルーニャに触れた。顔を赤らめさえしたリドアネを、ルーニャがどれほど愛しく思った事か。女を知らぬわけではない事を知っている。ルーニャ故に触れるのに胸を鳴らし不器用になるリドアネが愛しかった。

 だというのにリドアネはルーニャに触れようとはしない。


 恐れているのだと、ルーニャは知った。


 彼女が再び身籠る事を、そして出産に耐え切れず今度こそ命を落とすことをリドアネは恐れているのだ。


 けれど、修道院という女の園で育ったルーニャはエスメラルダとは違い本物の耳年増であり、そしてそれゆえに要らぬ心配をし、要らぬことをしてしまう。


 賢妃とまで言われたルーニャの犯した最大の過ち。


 彼女は愛する夫が男の性に悩み苦しむことのないようにと、ほぼ無理やりにリドアネに女をあてがったのだ――。


 最初は自分に顔の似た、けれど大人の女の身体をした妹。


 拒む夫を優しく優しくルーニャは脅迫した。それがどんな言葉だったか誰も知らない。記録に残っていないのは当たり前、血族やそれに連なる神殿、それ以外の影の者、誰も知らない。ただ、ルーニャは毒を飲ませるように優しい脅迫を続け夫に妹を抱かせただけだ。


 ルーニャを娶って以来、初めて他の女を抱いたリドアネは本気で死のうと思った。妻以外を抱くというのは姦淫というのではなかろうか。何故罪を犯して生きて行かねばならぬのだろう。血を継ぐ子供ならいるのだからもういいと思った。しかし、最後に一目と思って夫婦の寝室に戻ってルーニャの顔を見てしまった。


 かつてリドアネの愛の告白に最後に泣き叫んだルーニャは、その後決して人に涙を見せなかった。

 けれど、ルーニャは泣いていたのだ。


「な……ぜ?」


 泣きじゃくりながらルーニャは言った。扉の所で立ち尽くす夫を見つめるアイスブルーの瞳はその夜ずっと泣き続けていたせいか腫れ上がっていた。

 ルーニャは夫を自らの意思で女の閨へ送り、だが、それに苦しみぬいていたのだ。


「何故お戻りに……? ま、だ……夜、ですわよ?」


 リドアネは泣きじゃくる妻を見て、死ぬのをやめた。ただ、扉を音立てて閉めて妻の元に駆け寄るとその子供のような体を抱きしめたのである。


 妻でない女を抱いてしまった男は死を思って湯浴みをし身を清めていた。他の女の匂いがしない夫の腕の中で妻は何を思ったのだろうか。


 ただただルーニャは泣き続けた。


 そして、ルーニャはその後も女を集め続ける。過ちを犯し続ける。


 いつしか女達は妾妃と呼ばれるようになった。神殿の記録にも、公式な書類にも名を残さない女達。そしてその女の子供達。


 後宮は大きなものに変わった。ルーニャが手を入れた。自分が子を孕み死ぬことに怯える夫の為に、ルーニャが作った歪な後宮。


 他の事に関してルーニャは完璧な妃だった。完璧な妻だった。

 けれど深く愛しながらもルーニャは欠片も夫を理解しなかった。


 リドアネに最初にあてがった妹は男児を生んだ。リドアネが名をつけようとしなかったのでルーニャはその赤子をアシュレと名付けた。


 子供はぽろぽろと生まれていく。


 リドアネが愛おしむのはレンドルだけだがルーニャはそこまで頓着する事はなかった。ルーニャが女達……妾妃達に求めていたのは雄としてのリドアネの衝動を満足させることだけ、子供をおまけだとまでは考えなかったがリドアネにその子供を愛せとまで求めることはせず、代わりにルーニャ自身が子供達を可愛がった。

 許されるのならルーニャ自身が何人でも子供を産みたかったのであるが、それは叶わぬ事であることも解っていたのだ。


 そしてレンドルが妻を迎えてリドアネが溜息を吐いたころ、一夜の過ちでルーニャは再び身籠ってしまう。

 リドアネの言葉をルーニャは決して聞かなかった。子供を産む事よりもこれから先も自分と共に生きてくれと訴えるリドアネの言葉をルーニャは無視した。

 アユリカナという後継が既にルーニャにはいたのである。もう生命に固執する理由など何一つなかった。ただただ、夫の子供を産みたいとルーニャはそれだけが願いで、彼女の意思を折る事が出来る者は誰もいなかった。


 レンドルを生むのに命を削ったルーニャは随分容色が衰えていたとはいえ、リドアネにとっては最愛の妻であった。だから広げられた歪な後宮、妻が望むままに女を抱きながらも決してその女の褥で朝を迎える事はなく、致すべきことを致すと湯浴みをし、妻の待つ夫婦の寝室へ戻り妻を抱きしめて眠る。


 あてがわれた女ではなく愛する女を腕にしてそれまで間違いが起こらなかったのが奇跡。齢四十半をとうに越えた子供の体型の王妃が身籠ったのもまた奇跡。


「絶対に、この子は殺させやしない」


 ルーニャはそう宣言し女児を産み落とした。今度こそ己の命と引き換えに。

 リドアネは妻を亡くし、ようやく無理やりに女をあてがわれる生活から逃れる事になる。

 女児にはレイリエという名がつけられた。




◆◆◆

 自分の知っている事と想像を交えてフランヴェルジュは歪な祖父母の愛を話した。

 

 本当に、エスメラルダが知ってもいいと思って話し始めたとはいえその話の途中で何度やめたいとフランヴェルジュは思ったであろう。少なくとも蜜月に何という話をエスメラルダはさせるのだろう。


 フランヴェルジュに言わせると祖母は馬鹿だ。

 男なら雄の衝動をそれなりに自分で処理する術を誰しも知っている。下品な事を言うならその処理を女に手伝わせる方法だとて男なら知っている。


 何も次から次へと女をあてがう事はなかったのだ。

 本当にリドアネを愛するならルーニャはリドアネに女をあてがうような真似はするべきではなかった。


 リドアネにとって妾妃を抱く事はただ苦痛でしかなかったことが男であるフランヴェルジュには解る気がする。自分なら無理だ。


 それに、ルーニャが無責任に可愛がった妾妃の子供達も、リドアネ没後は王子王女と呼ばれる事なく神殿に記憶をいじられ偽の戸籍で庶民として生きる事になった。


 何故そこまでしなければならぬのか、メルローアの機構を半分しか知らず、そしてその機構を作り上げた者の意思も知らぬフランヴェルジュには解らない。恐らく父だとて解っていなかった。


 アシュレ・ルーン・ランカスターという男が王族として、王弟として生きていけたのは彼がメルローアの機構を理解せぬまま、表向きはただ純粋に絵を描きたいからと臣籍降下を願い出たからに他ならない。恋に破れ、アユリカナから逃げ出す為に臣籍に下ったアシュレという男は運が良かったのだろう。少なくとも無理やり記憶をいじられ自己を変えられることはなかった。

 アシュレが有能だったのも確かに救いではあっただろうが、能力があっただけでは、きっと『アシュレ』という存在は消されていた。


 雄の処理云々は流石に口にしなかったフランヴェルジュだが、アシュレの事までおまけで話した以上もうリドアネ王とルーニャ王妃という歪んだ夫婦の事について語る事はない。自分が不機嫌な顔をしているのをフランヴェルジュは知っているが上機嫌で話せる話ではなかった。


 エスメラルダはメルローアの女の機構を知る者として、『血杯の儀』を受けた者として聞いた。フランヴェルジュが語る事の出来ない部分、知る事のない部分を脳内で補完しながら。


 彼女にはルーニャに何が求められていたのか解る。ルーニャはただリドアネを支える事のみを求められていたのに、命を紡ぐことなど求められもしなかったのに。

 けれども―――。

「……怖いお話でした」


 エスメラルダは言った。


「ルーニャ様が求められている以上の事をなさらなければ、今のわたくし達は存在していなかったなんて」


 その言葉にフランヴェルジュは驚いた顔をした。


「周りの言葉のまま次代を紡ごうとなさらなければ先王陛下は存在しなかった。わたくしのフランヴェルジュ様も存在しなかった。そして……ルーニャ様が妾妃というものを迎えなければランカスター様も存在なさらず、わたくしは、今のわたくしではなかった。ただの孤児として市井で王である貴方の絵姿を拝んで一生を終えたかもしれません。本当に……貴方に出会う事すらなかったのだと思うと、とても……怖い」


 淡々とエスメラルダは言う。


 リドアネという男とルーニャという女は壊れていた。本当に歪だ。

 でも、それだからこそ、今自分達がこうしている。


「……そう、考えるべきだな」


 フランヴェルジュは言った。


 そうだ、だから父は生まれ母と出会い自分とブランシールはこの世に存在する。妹のエランカも。

 叔父が情熱の限りに絵を残していなければ、自分はエスメラルダという娘をどうやって知りえただろう。


「何事にも意味がある……のか」


「広い王城で、フランヴェルジュ様はどうして『リドアネ王の後宮』をご自分の後宮として整えられたのですか?」


 エスメラルダの言葉に、フランヴェルジュは自分の胸中を言い当てられたような気がした。怖い女だ。


「祖父上はお優しい方だった。父上にも母上にも、俺達兄弟にも」


 妾妃の子には目もくれなかったリドアネは、しかしアユリカナを溺愛した。最愛の妻が産み落とした息子が選んだ娘、それだけではなく、恐らくはリドアネがルーニャに望んだ美質と、そしてルーニャが持たなかった夫への理解を見出し、リドアネはアユリカナを娘として殊の外愛した。


 娘というならレイリエがいた筈である。所謂恥かきっ子。だがレイリエは顔こそ妻に瓜二つではあるがリドアネから永遠に妻を奪った存在でもある。


「別に俺は自分で祖父上の後宮に手を入れたところで何がどうにかなるとかは欠片も思わんが……そうだな。多分、祖父上がやりたかったようにやってやろうと決めたんだろう」


「?」


「祖父上はただ一人の妻がいればよかったんだ。あの人はそれだけだった」


 リドアネ王とその妃の話をしていた間、ただ机の上に投げ出されていたフランヴェルジュの手が動いた。


 日に焼けた肌を裏切るシャツの袖が、その白さが目に痛いと思った、そんなエスメラルダの手を大きな手が掴む。包み込むように。


「俺もただ一人の妻がいれば良い」


 エスメラルダの頬が染まった。


 生々しい男女の話をしていたのに、フランヴェルジュもエスメラルダもそういう衝動とやらを何故か一切感じていなかった。ただ、お互いが愛おしかった。


 エスメラルダは自分の手を包む男の手を自らの手を自分の方に引き寄せるようにして持ち上げ、彼女の薔薇色の頬に導いた。


「わたくしは、……わたくしは、貴方の愛し方を間違えたくない」


 金色の瞳は一瞬だけ大きく見開かれ、けれどすぐに愛情だけを湛えた色に変わる。


「お前が俺の愛し方を間違う事など……あるはずがない」


 結局二人は午餐をとらなかった。


 リドアネ王の話が長引いて終わった頃には太陽は頭の真上を通り過ぎていたのに、二人は空腹を覚えなかった。複雑な話は胸を一杯にさせ空腹を忘れさせたのである。

 

 そして更にその後、エスメラルダとフランヴェルジュは特に何も話さなかった。ただ手を動かす。

 お互いに握り合ったり頬に触れたり髪に触れたり。

 そんなことを何故か無言で行っているうちに空の色が変わる。ゆっくりとオレンジと朱と紫と混ざるように入れ替わるように。


 それを見て漸く恐ろしく時間が経ったことに二人は気付き、どちらともなく立ち上がると手をつないで夫婦の寝室へと戻っていった。


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