5 懊悩煩悶
◆◆◆
「本当に手間のかかること」
溜息を吐きながら、カスラは国王と、王妃になった主人を見やった。
二人がなかなか眠ろうとしないのでカスラは肝を冷やしたのだ。遅効性の睡眠薬はちゃんと夕食に混入した。そうでなければフランヴェルジュはこんなにも堂々と寝台の脇に他者を立たせることはしない。自分が影から現れた瞬間、仮に眠れていたにせよ目を覚まし反射的にベッドの脇に立てかけてある剣を抜いていた筈だ。
とはいえ、カスラが薬を盛っていなければ眠りにつけたとは思えない。今頃二人とも悶々としたまま眠れずにいたであろう。疲れ果てているのにも関わらず。
しかし、もう少し強めの睡眠薬を明日からは盛るべきだ。でなければ、必死で耐えるフランヴェルジュが余りに哀れである。カスラは主人が愛する故にフランヴェルジュに対して好意を抱いていた。そして一人のメルローアに生きる者として敬意を。
フランヴェルジュの性格でエスメラルダに堂々と手が出せる筈もなく、そしてエスメラルダが服喪の期間、フランヴェルジュの安全を確信した上で身体を開く事をどう考えるか、解らぬでいるにはカスラは王と主人をよく見ていた。
しかし一年の間、いや、さっき日付が変わってレーシアーナの死からきっかりひと月が経ったのであと十一ヶ月、果たして二人の想いを守れるのだろうか。
それとも自分は盛る薬を間違えたのだろうか。盛るべきは睡眠薬ではなく……。
一瞬浮かんだ考えにカスラは苦笑した。
吹っ切れるかもしれない、しれないが、媚薬を盛って主人の心に寄り添う事を止め結果だけを見る事はカスラには出来やしない。
愛しい主人の命令に背く事をカスラは罪だとは思わないが、尊厳を踏みにじる真似をする事は絶対にお断りだ。
二人の『今の気持ち』を守るのは無理だとカスラには解り切っている。
けれど、絶対に気持ちは変わるとカスラは確信している。
エスメラルダもフランヴェルジュも相手を愛している。求めあう気持ちに偽りのない二人だからこそ、そのうちに自然な事として身体を重ねるだろう。一月先か三月先か知らぬが半年もかかるとは思えない。
不自然が自然に変わるまで、薬が必要ならばカスラは盛り続けるだろう。そんな命令など受けてはいないが、カスラは躊躇わない。
「貴方様はアシュレとは違いますものね」
眠るフランヴェルジュにカスラは微苦笑を浮かべて言う。
アシュレ・ルーン・ランカスター。
彼女のかつての主人であり、恋人。
彼とフランヴェルジュは色々と違う。だからこそエスメラルダは恋に落ちた。
それでも、エスメラルダと出会ってから一年と少し、フランヴェルジュは女というものに一切手を触れてはいない。そして戦という非日常を体験し、男達が女の柔肌を求める様を目の当たりにしてさえ、彼は女を近づけようとはしなかった。戦勝国という驕りでの凌辱を禁じたが、娼館の女を買う事、ファトナムールの娘と恋をする事までは禁じなかったフランヴェルジュは、しかし、自分がそういう行為をする事など欠片も考えなかっただろう。ファトナムールの貴族が娘を差し出そうとしたことに気付きすらしなかった彼は。
だから、本当にフランヴェルジュは随分と女を抱いていない。
その上で、愛する娘が裸でいるのと変わらないような格好で目の前にいても押し倒しもせず、今、一つ寝台でひたすら耐えて眠っている事に……カスラはただただ感服した。
いつかカスラはフランヴェルジュがちゃんと目覚めている時に彼の目の前に現れるだろう。そうして最愛の主の夫と認め、それなりの敬意を表し膝をつくだろう。
それはきっと遠くない未来の出来事だ、そう思いながらカスラは再び影に溶けた。
◆◆◆
日付が変わると同時にマーデュリシィは目を覚ました。
寝室に明かりはなかったが莫大な魔力の持ち主であるマーデュリシィには夜の闇がどんなに深かろうとも視界を遮られることはない。
そして、予言を拒絶するような真似をしでかしての眠りならともかく、ただの眠りで何も分からないという事はない。
彼女は自らが転移させたメルローアの兵が勝利を収めた事を知っている。
そして昨日王が帰還し、王都カリナグレイの広場で王は娘と誓いと口づけを交わし……娘がメルローアの王妃になった事も知っている。
ただ、彼女が知っているのはそれだけの事ではない。
沢山の予言を見た。主の気まぐれか、今は亡き金髪の娘の意思か、拒絶した予言までも見せられた。そして、自分がやるべきことをちゃんと知った。
天蓋の帳が開き、部屋に明かりがつく。ただそう望んだから起こる奇跡に、ベッドの横で転寝をしていた少女が目を覚ます。
「マーデュリシィ様! お目覚めですか!」
少女、カリカは喜色の混じる声で叫んだ。
浅い眠りだったのだろう。声に眠気は混じらないが、カリカが目を覚ましていたならばマーデュリシィがただ目覚めただけで気が付いた筈だ。大祭司の後継と目されるカリカにはちゃんとそれだけの力が備わっているのだから。
「おはよう、カリカ。起こしてすまなかったわね」
明るい声でそう言うとマーデュリシィは身体を起こす。半月眠り続けていた人間とは思えないほど不自由なく彼女は寝台から滑り降りると思いっきり背伸びした。
「やっぱり『こっち』は良いわね」
マーデュリシィが言うとカリカは驚いた顔をした。その顔に気付いた大祭司は悪戯気に笑う。馬鹿にしているのではなくただ愉快そうに笑う。マーデュリシィはどんな笑い方を浮かべても人の気分を害さない不思議な女だった。驚きを笑われたくらいでカリカが不満を覚える筈もなかった。
「カリカ、わたくしが百万の兵の転移程度で半月も眠り続けると思う? 予言、未来、死者の言葉、そしてメルローアの意思、王の婚姻。ああ、バジリルと話さなければならない事が随分沢山あるわね。カリカ、貴女にもよ。ただ、その前に何か食べないと流石のわたくしもお腹が空いて死んでしまうわ」
「マーデュリシィ様は王の……婚姻まで、御存じなのですね」
カリカはが言いよどんだ婚姻という言葉にマーデュリシィは笑みを消さず頷いた。
神殿に属する者としては、王の華燭の典は一月前、五月十日に中断されたあの儀式でしかない。
けれど、一人のメルローア人としてのカリカにとって、昨日の婚姻を否定するのはとてもとても……辛い。
神殿に属していない血族の者の中で従軍し、文を、もしくは守り石を、己のザックに見つけたものがいないわけではなく、それ故にメルローアの意思が誰にも止められない奔流としてこの国を動かそうとし、また動かしたとき神殿は……血族は大祭司が眠っているのを理由に完全に沈黙した。
しかし、マーデュリシィは目覚めてしまった。神殿を司り、その意思が神殿の意思ともなる神の代理人たる大祭司は目覚めてしまったのだ。
沈黙を守るバジリル……血族の長であり意志となる神官長と、マーデュリシィはどんな会話をするのだろうか。その会話はあの婚姻を否定するものだろうか。
「カリカ、派手にやるわよ」
マーデュリシィのその言葉の意味するところが解りかねて、カリカはただ目を見開いた。
黒髪黒瞳の大祭司の笑みが深くなる。人間らしからぬ鮮やかさのその笑みでマーデュリシィは言った。
「王は派手におやり遊ばしたわ。ならば当然、わたくし達も全力で派手にいきましょう」
◆◆◆
エスメラルダは飛び起きた。
がばりと身体を起こし己の見た夢の罪深さに震える。そして、夢から覚めたのに夢より残酷な現実が、そこにあった。
王の妃になりその後宮で、一つ布団で眠ったという事。
何もなかったわ、何もなかったのよ、レーシアーナ……!
心の中で必死に言い訳をし、隣を見ると、フランヴェルジュはいない。ご不浄かしら? そう思い今のこの自分を見られない事に少しだけほっとした。
彼の不在ですべて夢だったと思えないエスメラルダがいる。夢ならば自分は真白塔で目を覚ましたはずだから。夢ならばフランヴェルジュの後宮で目を覚ます事などなかったから。
レーシアーナ、ご免なさい。許して……!
エスメラルダは心の中で叫ぶと己の身体を抱いた。
夢を見た。所謂淫夢というやつを。
エスメラルダは性愛というものに対して殆ど無知だった。男女が裸でベッドで愛を語らう事、というのは半月前までの彼女の知識全てだ。彼女は自分が耳年増だと信じていたが、性愛そのものの知識は、本当に殆ど持っていなかったのである。
そんな彼女に、あの夜フランヴェルジュは言葉ではなくその指と舌と唇でそれ以上を教えてくれた。キスの続きが何かを教えてくれた。
けれどまだ、エスメラルダは愛撫の果てに最終的にどうなるのか、思いを遂げるという事が何を指すのかを知らない。あの夜自分から身体を離したフランヴェルジュに謝られて、まだ自分達がちゃんと結ばれていない事を知った。けれど、何故駄目だったのか、何が駄目だったのか、知らない。
それなのに淫らな夢を見てしまった。エスメラルダの乏しい知識で見られる限りの淫夢。
身体をまさぐる固く武骨な肉刺だらけの手を、肌にすいつく唇を、耳朶を舐める舌を夢の中で味わった。
友への裏切りだとしか思えないその夢の中で、事もあろうにエスメラルダは悦んでいた。
「レーシアーナ……」
エスメラルダが小さく呼ぶと唐突に扉が開いた。身を震わせたエスメラルダが目にしたのは湯気立つ食事を乗せたカートを押してくるフランヴェルジュの姿だった。
「そろそろ起きる頃だと思っていた、おはよう、エスメラルダ」
言いながらフランヴェルジュはソファの前のテーブルに向かい、そしてそのテーブルに皿を並べ始める。
「フランヴェルジュ様!そんなことわたくしが……」
我に返ったエスメラルダが、わたくしがやりますから、そういって大慌てでベッドから滑り降りフランヴェルジュの前に行くとフランヴェルジュは一瞬固まり、そしてソファに投げ出されていたシャツを、昨日フランヴェルジュが着ていたそれを無理やり羽織らせた。
「フランヴェルジュ様……?」
名前を呼びながら己の恰好を確認したエスメラルダは顔から火が出るかと思った。
夜着は、本当に儚い作りだとは思っていたが、薄いそれは自分の裸体を殆ど隠してはいなかった。無言でエスメラルダはシャツの釦を留める。これだけでも随分マシな筈だと思いながら。
小柄なエスメラルダには、男物のシャツは随分大きくて、それが救いだった。
そうやってフランヴェルジュのシャツを着て彼の匂いに包まれていると、カートの上の皿はテーブルに全て並べ終えられてしまっている。
簡素な恰好ではあるがシャツにぴったりとしたズボンにと、フランヴェルジュは着替えまで済ませていた。
「早く座れ。腹が減っただろう?」
優しく言うフランヴェルジュにエスメラルダは頷く。食欲はなかった。けれど食欲のない理由を……あの罪深い夢を口に出来ようはずもない。
それにしても。
いつの間にフランヴェルジュ様は起きられたのかしら? 気付かないなんて、そもそもこの方はお眠り遊ばされたのかしら?
余りに心配でそれを問いかけるエスメラルダにフランヴェルジュはあっさりと答える。
「眠っていない顔に見えるのか? すぐに寝た。一時間前に起きたが、三時間か四時間しか日頃眠らない俺としては本当によく寝た」
その言葉を聞いて心の底から良かったとエスメラルダは思う。
「座れ、とりあえず食って、それから着替えろ。悪いがドレスを着る手伝いは出来そうにないが……それよりマシな夜着は沢山あるだろうしドレスと違って一人で着られるだろう? 上に羽織るガウンもあるはずだが……衣装室のガウンを持ってこなかったのは、俺の落ち度だ。すまない」
ソファに座らされたエスメラルダは謝られた事もさておき、フランヴェルジュがドレスを着る手伝いを拒んだ理由に思い至り赤面した。
コルセットの紐を自分で結ぶ事など出来るものか。けれど、手伝ってもらうにはまずこの夜着を脱がねばなるまい。こんなに明るい朝の光の中で素肌を晒す勇気はエスメラルダには無かった。下着すらつけていない裸体を晒す事は無理だった。
「謝らないで下さいませ、フランヴェルジュ様のシャツまで貸して頂いているのに謝られては、わたくし、余りにも心苦しいですわ」
エスメラルダの隣に座ったフランヴェルジュは苦笑する。
「敬称も敬語も要らぬと何度言えば分かる?」
「それは……急に変えるのは難しゅうございますわ」
そう言いながら、エスメラルダは意識せずシャツの袖を握りしめた。エスメラルダには大きすぎるシャツ、自分とは全然体つきの違う彼女の王。
駄目だわ、わたくし、また変な事を考えてしまっている。
エスメラルダが微かに唇をかんだことにフランヴェルジュは気付く筈もなく空のグラスにピッチャーからミルクを注いだ。
「とりあえず食おう、話はそれからだ」
「はい」
食前の祈りを捧げ、印を切り、二人はまずスープに手を付け、そして会話のない食事を進めた。
機械的に食べながらエスメラルダは思う。
わたくしは、フランヴェルジュ様が欲しいのかしら?
答えは解り切っている。
けれど、それをフランヴェルジュにだけは絶対に言えない。言えるわけがない。
エスメラルダが亡き友を思う気持ち故に待つと言ってくれた男に、欲しいという勇気はエスメラルダには無かった。
彼が愛しているのは、レーシアーナを悼む自分。
本当に機械的にエスメラルダは食べ物を口にする。味が解らない。そして、フランヴェルジュとはレーシアーナやブランシールを交えて何度も朝食を摂り、その際お互い雄弁だったことを思い出して溜息を必死で噛み殺した。
わたくしが何を望めるというの? 待たせている身で。それに確かに欲しいけれど、でも、わたくしには自らこの身体を捧げる勇気など、ないじゃない。
夜着ではなく、そんな頼りない物ではなく、ドレスを着たいと思った。
控えの間に女官達が詰めているのは知っている。
この部屋のベッドの隣に垂れ下がっている紐を引けば、この完全防音の寝室ではなく寝室の外にある鈴が音を鳴らす。その音を聞き、彼女らは食事の手配をしてくれるが、部屋の前にカートを置くなり彼女らも、料理人なども、皆必死で姿を隠してしまう。彼らが残すのはノックのみだ。
蜜月の期間に鈴を続けて五回鳴らすと控えの間から女官はすっ飛んでくることになっているが、それをやって良いのは命の危機がある時だけ。
鳴らして良いのは食事を求める為の鈴のみ。
湯殿の湯はいつでも湯浴み出来るように火を消されることはないが、二十三時から零時の間は湯を入れ替えて徹底的に清掃の時間に入る。それ以外の時間ならいつでも入浴は可能だがこの三日限りは入浴の介助は無しだ。衣装室で着替えを手伝う者もいない。
王と王妃が完全なる私人として過ごす蜜月は、誰にも邪魔されないが、人の手を借りる事も殆ど出来ない時間なのだ。
いつの間にか皿が空になって、フランヴェルジュもエスメラルダもミルクを口にし、そして食事に感謝する為の印を切り、どちらともなく溜息を吐き、そしてお互いの顔を見て笑った。
「片付けは俺がやるからさっさと着替えてこい」
フランヴェルジュの言葉にエスメラルダは素直に従った。フランヴェルジュのシャツは膝上までの丈があった。絶対に見られたくない場所はちゃんと隠してくれているが、何時までもこんな頼りない姿でいるのは嫌だった。足を晒した姿で平気でいられる淑女だなどといるものか。淑女は胸元をくったドレスを纏い肩を晒しても足は隠すものなのに。
ちゃんと下着を身につけ、もう少しまともな夜着に着替えよう。太陽が光を投げかける時間に夜着を着るしかないのは嫌だったが、自分一人で着る事を考えると選択肢は自ずとそうなる。
「有難う御座います。すぐに戻りますわね」
そう言ってエスメラルダは寝室から衣装室へと急ぐ。
ぱたん、と、扉が閉まる音が小さく響いたのを聞いて、フランヴェルジュは重い溜息を吐いた。右の手で顔を覆う。
こんな顔は愛しい娘に見せられやしない。
俺はやる事しか考えられない猿か!?
自嘲なんて可愛いものではない。フランヴェルジュは自身に対して怒りを抱いている。
エスメラルダの夜着を、胸の先端の色まで透けるそんな姿を隠す事は出来た。けれど、自身のシャツにくるまる姿は裸同然の夜着と同じくらいかある意味それ以上に煽情的で、本当によく耐えられたものだとフランヴェルジュは思う反面、頭の中が最愛の娘に触れる事ばかりで一杯になっている今の己が心底腹立たしかった。昨夜明かりを求めたが、もし明るい室内で、あの儚い夜着姿で自分を待っているエスメラルダを見ていたらと考えると、昨夜は暗くて本当に良かったのだと思う。
そして不意に、あの夜、レーシアーナの喪が明けるのを待とうと、自分は待てると考えられた理由に思い当ってフランヴェルジュは微かに震えた。
弟はかつて性欲を生理現象だと言い切った。けれどフランヴェルジュはそう多くない恋愛遍歴の中、自ら相手を求めた事などなかったのだ。
ただ、相手に望まれるから口づけて抱いた。
相手に求められなければ、ベッドを共にする事などなかっただろう。キスの一つもしなかったかもしれない。何故なら彼女らに抱いていたのは恋でも愛でもなかったからだ。
二十二にもなって、フランヴェルジュは初恋に身を焦がしながら、エスメラルダを求めている。
ただ、女の肌に溺れた事がなかったフランヴェルジュはあの夜は非常時だと割り切っているつもりだった。だから喪が明けるのを待つのを待つ事が出来ると、簡単ではないが出来る、と、そう考えていたのだ。しかし、今そんな自分をフランヴェルジュは殴りつけたいと思う。
女というものに欲情するのではなく、フランヴェルジュはエスメラルダという存在に欲情するようだ。
――それでも、あの夜は耐えられたのに。
フランヴェルジュにはそれが本当に不思議だった。
あの夜。彼女が自らを自分に授けようとしてくれた夜。
時間がなかった。だから与えた愛撫はひたすら性急で、性急過ぎて、それ故愛しい娘の身体はまだ自分を受け入れられる状態になかった。夜明けにやる事は山積みだったしそれ以上時間をかける余裕のなかったフランヴェルジュは、無理やりに己のものにして苦痛をあじあわせるより、次を待とうとそう思ったのだ。
エスメラルダを傷つけるのは嫌だった。
自分の愛撫に一々驚くような反応を示すエスメラルダに性愛の知識など殆どない事を感じ、だから謝って全部自分のせいにしたのだが、その時、感じた事は確信へと変わった。そしてその無知に心から感謝して自分が悪いのだと何度も謝った。まぁ、性急な愛撫しか与えられなかったのは彼だからフランヴェルジュは嘘を吐いたわけではないのだが。
あの夜は触れていたのに耐えられた。
今こんなに苦しいのは何故だ?
半月も前の戦の高揚が残っている訳ではなかった。愛しさを覚える相手と繋がる事を望むのはごくごく当たり前の事であり、そしてあの夜と違って十分に愛する時間がある、そんな単純な理由がフランヴェルジュの理性を奪う、いや殺そうとするのに十分すぎる理由なのだが、フランヴェルジュはそれを知らない。それを教えられる人間は誰もいない。
衣装室へ続く扉がノックされた事にも気付かない程自己嫌悪に陥っているフランヴェルジュは、扉が開いて漸くそっちを見た。
「フランヴェルジュ様……その、おかしくありませんか?」
恥ずかしそうに寝室に入ってきたエスメラルダは今出来る最大限にまともな恰好をしていた。その夜着は白い木綿のそれ、ただし最上級の柔らかな木綿の夜着は首筋まで隠してしまうもので、エスメラルダはきっちりと釦を留めていた。そして上から葡萄色のストールを羽織り、恥ずかしそうにしている。
「何処が変なんだ? お前はちゃんと綺麗だ」
劣情を刺激する姿ではない事にフランヴェルジュは心底ほっとして言った。
「良かった」
そう言いながらエスメラルダはフランヴェルジュの元へ足を運ぶ。彼の近くでいたいという本能が彼女の足を動かせる。
俺も、切り替えねばな。
フランヴェルジュはそう思い、立ち上がった。
「疲れてないか?」
「昨日ちゃんと眠りましたから、大丈夫ですわ」
エスメラルダは知らず微笑んだ。
昨日暗い明りの下で見た顔も、今朝共に食事をとった時の顔も何処か苦し気だったのに、急にいつものフランヴェルジュに戻ったようにエスメラルダには感じられた。
何がこの方に起きたのかしら?
そんな風に思うエスメラルダに対しフランヴェルジュは何度か頷いた後、武骨な手をエスメラルダに差し出した。
「蜜月の間にひたすら行為を続けなければならないなんて法はないからな。庭にでも出よう。いつものようにくだらない会話をしよう。腹が減ったら食事をとりに戻ればいい。それとも書斎で本でも読むか?」
快活で優しいいつものフランヴェルジュだとエスメラルダは思った。思ったから彼女の顔にも素直な笑みが引き出される。
「宜しければお庭へ。わたくし達、まだデートというものをやった事がないではありませんか」
二人で庭園へ、人払いをしている広い広い庭園を歩くのは、確かにデートと言えるかもしれない。
そう思ったフランヴェルジュの手をエスメラルダは握った。
「案内してくださいますか?」
「当たり前だ、俺のエスメラルダ」
フランヴェルジュはそう言い笑みを浮かべる。エスメラルダの小さな手を握り、それでも平常でいられるだけ自分が頭を切り替えられたことにほっとしながら彼は朝の庭園にエスメラルダを導いた。




