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エスメラルダ  作者: 古都里
第二章 王の蜜月
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3 彼女が愛を勝ち得た理由

 エスメラルダは味の解らない夕食の後、訳の分からぬまま人の手を借り湯浴みを行い、今、フランヴェルジュが彼女の為の香りとして贈ってくれたまだ名前のつかない匂いの香油を身体に刷り込まれている。


 ユリエは指揮を取りながら、自らその香油をエスメラルダの身体に馴染ませる仕事を嬉々として行った。女官長という立場を考えるのなら監督だけでいい筈であることをエスメラルダは知っている。だから不思議だし、そもそも何故今自分が所謂ところの初夜の準備をしているのかすら、今もって解らないままで。


 マーグの手が恋しかった。けれど後宮には侍女であるマーグは立ち入る事が出来ない。自分の認識が確かなら、この身が確かに王の花嫁になったのなら、王の蜜月の三日間はどうやってもマーグの優しい手には縋れない。


 それどころか、婚姻後一ヶ月はアユリカナに会う事を望むことも出来ない。

 その期間は姑が花嫁に関わる事はならじ。自分が本当に婚姻を済ませたのなら、あの厳しく優しい女性と一ヶ月間会えない、会いたいと口にすることも出来ない。

 もしかすれば、一ヶ月の間はアユリカナの元にいるルジュアインとも会えない。


 訳が分からぬまま、このまま初夜を迎えるのだと思うと泣き喚き叫びたかった。


 せめて色々と、もう少し現状を理解出来たら、納得出来たら。


 考えて頭に浮かんだ者達を想い、また泣き喚きたくなった。

 わたくしに忠実な筈の者達。アシュレの遺産。


 カスラは教えてくれなかった。


 こんなことは初めてで、もし鞭を持っていたならばカスラに対してそれを振るったかもしれないくらいに怒ったのに、カスラはただ笑顔で言ったのだ。


 ――古い忠誠ではなく、新しい忠誠にお尋ね下さいませ。カスラの一族が出来るのは祝福のみでございます――


 そう言って、エスメラルダの頬に口づけたかと思うとカスラは影に溶けてしまった。そこからは何度も呼んだがカスラは決して姿を現さなかった。


 わたくしは……カスラに見限られたのかしら。

 頬への接吻が別れの接吻だったら……駄目だ、耐えきれない。


 けれど、このまま当たり前のように初夜というものを迎える事も、エスメラルダには無理だった。


 新しい忠誠に尋ねろ。

 カスラはいつでも正しい道を教えてくれた。

 ならば、わたくしは……。


 息を吸い込み、腹に力を籠める。覚悟を決めるのよ。怯えて何も出来ない、わたくしはそんな女ではない筈だわ!


「ねぇ、ユリエ」


 エスメラルダの言葉にユリエは喜色を浮かべた。


「何でございましょう? エスメラルダ様」


 エスメラルダは俯せの姿勢を取らされている上、髪も手足も、いや、身体中全てに香油を刷り込まれたりマッサージをされたりとしており身体の自由は全くない。だからユリエの顔を見る事が出来なかった。それでも、ユリエの声に、エスメラルダには何故だか理由の欠片も解らない事に愛情が灯っているように感じられる。少なくともユリエは名を呼ばれた事に喜びと幸せの感情を垂れ流す様にエスメラルダに応える。


 これが役者だとしたら、メルローア一の役者だわ。


 そう思ったけれど、もう時間がない。ユリエが抱くものが忠誠だと信じてちゃんと話を聞くしかない。


「わたくしは……どうしてこんなに祝福してもらえるのかしら? 凱旋した王に選んで頂いたから、なのかしら?」


 何故婚儀を挙げた事になっているのかしら、とは流石に聞けなかった。それは問うてはならない事だと本能的に知っていた。

 だから二番目に気になっていた事を問うと、何と仕事熱心な女官達の手が、言い合わせたように総て、ぴたりと止まった。


 質問を間違えた!? 


 焦るエスメラルダにユリエは驚きを隠さない声で問う。


「本気で……本気でそれお聞きになっていらっしゃるのですか?」


 完全に間違えた、とエスメラルダは思った。しかし覆水が盆に返らぬのと同じで口から出た言葉は無かったことに出来ない。


「わたくし……」


 脳味噌をフル回転させて言い訳を探すのにまともな言葉が見つからなくて、どうすればいいか解らないエスメラルダに、しかしユリエも女官達も優しかった。


「愛しいわたくしの、わたくし達の王妃様」


 ユリエの声に呆れはなく、ただ心震える者の声で、エスメラルダは驚いた。今日何度驚いたか解らないが、本当に驚いた。


 啜り泣きの声がそこかしこから聞こえる。女官達が泣き出したようだが、主人であるエスメラルダに声をかけられたユリエ以外、この場で言葉を紡げる女官達はいない。


 王妃というのはそういう身分なのだ。


 ユリエは少し間をおいて、優しく言葉を紡いだ。


「エスメラルダ様が本当に驕りと縁がなく、そして謙虚で美しい魂の持ち主であることはわたくし達の幸せであり誇りです。ですが……まさかそれに気付かれぬほどに謙虚であらせられるとは、思いもしませんでした」


「ご免なさい」


 咄嗟に謝るエスメラルダに、ユリエは心底愛おしい存在を見る眼差しを向ける。

 仕えるものとしては、主人に謝罪の言葉などを使わせた自分を恥じるべきなのかもしれないとユリエは思う。思うがこのタイミングでごめんなさいという言葉が出たという事は、エスメラルダは本当に何故自分が祝福されているのか理解できないでいるのだと解らぬほどユリエは愚かではなく、恥じ入るより先に更に心に愛おしさを感じた。


 ユリエとて、もしあの戦がなければ、こんな風に愛情をもって仕える事はなかったであろう。エスメラルダのその血筋、決して高貴とはいえぬ、ユリエや彼女の下につく女官達にはるかに劣る血筋を嗤いながら表面だけの忠誠で俸禄をんでいたに違いない。女官達の殆どが、それは恐らく同じ事。


 けれどあの戦が起きて。


 その意味を誰もエスメラルダに告げる事がなかったのは何故だろう? それはユリエには解らぬ事であったが、このまま何も知らせずに王の閨に送る事など出来る筈がないとユリエは思った。自分如きが語って良いのかと一瞬思いはしたが、もう他の誰かに代わりに語らせる暇もない。香油を身体に刷り込む作業はもう殆ど終わったも同然、後は夜着を着せ掛けて閨へ導くのみ。そして王がいつその閨に渡るかユリエをはじめとする女官達には解っていない、既にエスメラルダを待っているかもしれない。本当に、ユリエしか話せるものがいない。


「仕上げをしましょうね、エスメラルダ様。ゆっくりと(・・・・・)準備致しましょう。その間わたくしが喋る事をどうかお許しくださいませね」


 息を呑んでエスメラルダは頷いた。女官達の手がユリエの言葉と共に動き出したので本当に小さくしか頷けなかったが言葉を紡ごうとしても何故か紡げず頷くしかできなかったのだ。


「エスメラルダ様は、確かにメルローアに生きる者達ほぼ全ての祝福を受けられましたが、陛下が選ばれた方だからではなく、エスメラルダ様だからこそなのです」


 フランヴェルジュ様ゆえでは、ない?


「エスメラルダ様、考えて頂けますか? 百万の兵士に関係する人間、その数は果たしてどれほどの数になるでしょうか」


 エスメラルダの頭の中は混乱しつくしたせいであろうか、ほんの少しだけ落ち着きが戻りつつあった。ユリエが謎の一つを解いてくれるという安心感からかもしれない。ただ、少しの落ち着きでは数学の問題には挑めず、具体的な数字は思い浮かばなかった。だからか、先程出なかった声が、何とか、出た。


「途方もない数に、なるでしょうね」


 それが一体何だというのだろうか。


 ユリエは続ける。


「百万の兵士の親、兄弟姉妹、妻、恋人、友人、……貴族平民関係なく集められた百万の兵士と全くの無関係な人物がこのメルローアにいると思われますか?」


「……それは、皆何処かで繋がってはいるでしょうけれど」


「エスメラルダ様はその百万の人間に一人余さず文を、もしくは守り石を持たせられました。わたくしの兄も自分のザックから文を見つけ喜びの声を上げた兵士の一人です」


 頭の中でパーツが繋がりかけて、エスメラルダは息を呑んだ。


「ただ、ただ、わたくしに出来る事はそんな事しかなかっただけで……」


 すすり泣く声がいつの間にか途絶えている。けれどエスメラルダには女官達の顔に浮かんだ表情を見る事が出来ない。ただ、ユリエの言葉を待つことしかできない。


「『そんな事』に歓喜しなかった男達は、あの戦に向かった男達の中には恐らく一人もいなかった筈です。でなければ、その感動を綴った手紙を読んだことがない人間はこの国にいるのか? などという事になりますでしょうか? 兵士の手紙の回し読みはよく行われることと物語にありますが、兄から両親に届いた手紙も、友人が受け取った手紙もわたくしは読みました。殆どの男達は自分の上げた武勲よりも王の雄姿よりも……エスメラルダ様のくださった一言や守り石を子供のように自慢して、歓喜して、己の誇りにしたのです」


 言いながらユリエは兄の手紙を思い返す。無事を知らせる言葉でも勝利に酔う言葉でもなく、一番最初に書かれていたのは自分のザックに忍ばされていた文への驚きと歓喜だった。友人から見せられた手紙も内容は違うとはいえその事だけは共通していた。


「……ただの文と守り石だわ」


 エスメラルダの囁くような声をユリエは無礼を承知で無視した。時間はそう沢山ある訳ではない。


「更に、これはどうも一人のみに起きた奇跡ではないのですが、流れ矢が甲冑の縫い目に刺さってその上で無傷だった者達が、何人かいるのです。彼らに共通していたのは、家族が持たせた守り袋に守り石を入れて首から下げていた事。彼らに起きた奇跡、矢はその守り袋に刺さって、でもエスメラルダ様の守り石に防がれた矢は兵士を貫く事はかなわなかったと」


「嘘……あんな小さな守り石が、矢を防ぐだなんて」


 エスメラルダの口から出た言葉に、ユリエは驚く事はしなかった。神殿で祈りを込める守り石がどんな大きさかユリエも知っている。初めてその話を聞いた時、あの親指の爪ほどの大きさの石に矢が阻まれたというのは兵士達の法螺ほら話だろうと思ったのだ。想像しかできないが戦場というのは精神的に高揚し興奮する物だろうからその感情が生んだ話だと思ってはいたのだが。


 そうやって守り石に救われたという兵がただ一人なら、そして救われたものが何度も何度も執拗に信じさせる為の文章を手紙にしたためるような真似をしていたのなら、きっと誰も信じなかった。けれど救われた兵士も、その戦友も、奇跡の話を強調して大袈裟に騒ぐ真似はしなかった。

 繰り言にならなかったのは戦場に立った誰にとって心の底から大事にしたい宝物のような奇跡で、見せびらかすのですら勿体なかったからなのだが、彼らの不在を守る人々はそこまでは推し量れなかった。


 それでも、今までこんな事を為し得た王の想い人など存在しただろうか?


「だから奇跡なのでしょう。ここにいる女官でありわたくしの親友であるアンジュの婚約者が、そうやって救われた一人ですわ。百万の兵が貴女に愛と忠誠を覚えるのならば、その兵士の家族恋人友人、その者達も貴女を愛すると思われませんか? つまり、メルローアの六千万の民は、貴女様を愛しているのです。感謝申し上げておりますが、わたくし達はそれ以上に貴女様を愛してしまっているのですよ」


「そんな……」


 神様。主よ。


 エスメラルダは心の中で呟いた、もしくは叫んだのかもしれない。


 なんという、なんという恐ろしくも畏れ多い事でしょう。


 エスメラルダはそこにいるであろうアンジュという女官に真偽を問い質すことは思いつかなかった。

 ただ、ユリエが言う言葉に誇張がないのならば、もしそうならばエスメラルダはメルローア中の人間に祝福されただけでなく、彼らに……愛されている、ということだ。


 ただ一言を示した文、ただ頭から冷水を浴びて祈りを込めた守り石、そんなものの為にこのメルローア六千万人の民が、エスメラルダを愛している、と?


「愛する人が望み望まれて結ばれる事を祝福出来ない者がいると思われますか? 愛しいわたくし達の王妃様。わたくしの兄もほんのかすり傷一つ負わなかったと、手紙にはしたためておりましたよ」


 それゆえの祝福なのかとエスメラルダは震えた。あの広場で誓いの言葉と交わしたキスに対しての祝福も、エスメラルダが考えていた物以上のものなのだろう。


 こんなにも、おそろしいと思った事は、エスメラルダの人生ではかつてなかった。


 神様。主よ。


 喜ぶべきことの筈なのに、あまりにも途方もない話にエスメラルダは恐怖した。

 もう、何故誓いの口づけが即婚儀となったのか、意図せぬままに花嫁になり今、初夜の閨に送られるための準備をしているのか、そんな事より、ただ恐ろしかった。今思うと、今日自分に向けられたのは、どんなに思い返しても偽りを疑うことも出来ぬ程、その顔に心からの祝福を浮かべた顔だった。それ以外のどんな表情も思い出せず、そして今日、自分はどれだけの人間と触れ合いすれ違ったか。

 それがもし愛ゆえならば、そんな余りに大きすぎる愛は、怖いとしか言えなかった。

 侮られる事には、慣れているのに……。

「震えていらっしゃいますね、さぁ、夜着をお召しくださいませ。きっと花婿たる陛下の御胸は熱いほどに感じられますでしょうが、兎に角まずはこちらをお召しになって」

 震え?

 嗚呼、そうだ、エスメラルダは裸でいる寒さでも処女の慄きでも最愛の親友の喪を台無しにすることでもなく、ただ、己に向けられているという愛を恐れ畏れて震えているのだ。




◆◆◆

 フランヴェルジュが自分達へ、いや、自分の想い人に向けられる祝福にいい加減違和感を覚えたのは思いっきり地下を歩き回った挙句にやっと心を落ち着けて地上に帰ってきてからである。

 同じく冷静さを取り戻したアユリカナが自分の寝室から出てきた息子に、かき集めた情報を伝えた。


 正餐の時間を少しばかり過ぎていたが、王であるフランヴェルジュが望めばいつ何時であれ食事の時間になるはずだ。しかし、息子が何も分かっていない状態で花嫁の待つ寝室へ渡る、それだけはアユリカナは何としても避けたかった。それ故、アユリカナは料理長や正餐の場にいる従者達に目茶苦茶な言い訳をしてフランヴェルジュの為の正餐は必要ないと説得した。はっきり言ってその言い訳の内容をアユリカナは思い出す事が出来ないでいるが、料理長や従者達がにこやかに受け入れたのは、王は食事をとる時間を惜しむほど花嫁との時間を求めているのだと思い込み、愛する国王と愛し始めた王妃にもう何度目になるか解らない心からの祝福を覚えたからであるし、アユリカナもそれが解ってしまう程には理性を取り戻してはいた。


 本来アユリカナの為に用意された食事を真白塔でとりながら、フランヴェルジュは母の話を聞く。


「わたくしも、荷物の中にエスメラルダの文やら守り石を忍ばせる手伝いをしましたが、まさかこんなことになるとは全く想像も出来ませんでした」


 アユリカナも、そしてブランシールも、フランヴェルジュの隣に彼が愛した娘を並ばせる為にあれやこれや画策し、その中で何より苦労したのが商人の血を引く、醜聞にまみれた後ろ盾のない娘を認めさせること、だった。

 結局アユリカナもブランシールもその件に関して完全に成功したとは言えなかった。レーシアーナが身籠らなければ、きっとアユリカナはまだ時間があると思い認めさせる為の努力を延々と続けていた筈だ。王位の問題からブランシールやレーシアーナ、そして二人の赤子を護る為でなければフランヴェルジュも、婚姻を急ぐことはなかった筈だ。


 もし、レーシアーナが身籠らなければ、性愛が終わって十二時間の間に『蜜』と呼ばれる避妊薬である飴を舐めておりさえすれば、あの悲劇の婚儀は行われなかっただろう。未来に、違う形でフランヴェルジュとエスメラルダは結ばれていたはずだ。


 それでも、アユリカナはレーシアーナがどれだけ我が子を愛おしんだか忘れていない。そして、父親であるブランシールだけでなく、アユリカナの愛する者達は皆、生まれた赤子を愛した。


 レーシアーナが身籠りさえしなければあの可愛い娘がまだ生きていただなんて、考えては駄目、それはルジュアインを否定する事だわ。絶対に駄目。この考えは、忘れなければ。……わたくしも人の親ですもの。


 アユリカナは唐突に浮かんだ考えを必死に殺した。


 『蜜』を舐めるのは貴族の娘なら常識としか言えない。処女で嫁ぐ娘など殆どいやしないのに、民衆が言う授かり婚というものが殆どないのは『蜜』のお陰だ。レイリエがあれほど奔放でありながらなかなか妊娠しなかったのは恐らく彼女も『蜜』を愛用していたのだろう。アユリカナにとって忌々しい事に恐らく先王レンドルとの情事に際してのみ、レイリエは『蜜』を用いなかったのではなかろうか。


 処女で嫁ぐ貴族の娘が少ないのに、エスメラルダが処女性を求められたのは純粋な貴族の娘とは呼べない出自の為だった。彼女に処女性を求めた者達の娘の多くはそれなりに奔放である事を許されていたのに、何というおかしな話だろうか。


 けれど、アユリカナが自身の混乱を晴らすのに必要な情報を得る為に様々な言葉を用いて様々な人間から聞き出した話と彼らの陶酔っぷりを考えると、もう二度とエスメラルダはその出自で貶められることはないであろう。それだけは安堵していい。アユリカナやブランシールの画策の百万倍も、エスメラルダの行動は的確だった。意図せず行った事柄だからこそ、なのかもしれない。


 フランヴェルジュは母の話を聞き、時折頷きながら、しかし口を挟まない。


 色んな意味で逃げられない事だけは解った。今更あれは違うという事が通じない事はアユリカナからあれやこれや聞く前から分かっていたが、今日の誓いが婚姻となってしまった事についてフランヴェルジュは正しく理解してしまった。とどめを刺されたというべきか。


 百万の兵に歓喜の声を上げさせ、それに連なる六千万のメルローア国民の心をつかんだ娘と王の婚姻は、メルローアの望みなのだ。

 人々はあの誓いと口づけを誤解したわけではなく、遥かに高い視点で見つめ、そして国ごと動かすだけの力で望み、事実にと変えた。


 そうだ、事実、なのだろう。


 レーシアーナの為に心から悼み涙を流したのもメルローアの本音、真実の部分。


 ただ、メルローアを動かす力、そこに生きる者達にとっては。


「レーシアーナの喪と俺達の婚姻は、メルローアにとっては全く別の話、なんですね」


 やっと口を開いたかと思うとレーシアーナの名を出した息子に、アユリカナは溜息と共に同意した。


「わたくし達が訳も解らず混乱していたのは、レーシアーナへの気持ちと貴方達の婚姻を決して別問題に出来ないから、なのでしょうね。どうしてもエスメラルダの元にわたくしは行けなかったけれど、恐らくあの子が一番混乱しきっているはずです。『姑』というものは婚姻後一ヶ月の間は王の花嫁に触れることなかれ、というしきたりは知っているわね? 情けない話、文や言伝もわたくしには出来ないわ。王太后という立場にありながらわたくしはエスメラルダに何もしてやれないけれど……『夫』である貴方ならエスメラルダを混乱から救えるでしょう」


 あらかた皿の上の物が片付いたのを見やり、アユリカナはそろそろ息子をその花嫁のもとに送り出す時間だと思った。


 レーシアーナはエスメラルダを友情に不忠だと責める事はきっとしないわ。


 アユリカナは亡き義娘がどれだけエスメラルダを愛していたか忘れてはいない。

 だから、思う。


 中断された婚姻は兎も角として、今日の出来事が婚姻となってしまったのはある意味都合がいいというか、物事をあるべきように動かす神の采配かもしれない。戦が終わって女の元へ帰ってきた男がその女を抱かずにいられたなどという話はアユリカナは聞いた事がなかった。百万の兵士の中にはファトナムールの娘を抱いた者も大勢いるだろう。その報告は特に求めてもいないのに間諜が笑い話のように付け加えてくれたから確かだ。間諜はファトナムールの娘を抱いていない凱旋した兵士達が我先にと娼館に向かうだろうとまで言った。暗に娼館をまともに機能させておかないと国が大変な事になるという長い付き合いの手下からの忠告はそれなりにそうだと苦笑と共に受け取ったものだ。

 勿論妻や恋人への貞操を守った兵士達も沢山いるだろうが。だが。

 糞真面目な息子も貞操を守った一人であることはアユリカナには疑いようもなくて、だからこそ、息子の愛する娘が、誰憚る事なく抱ける『花嫁』である事は、本当に神の采配かもしれないと、アユリカナは思う。フランヴェルジュはエスメラルダの虜になる以前にまるで色恋の話が無かったわけではなく、アユリカナの知る限り、彼はごくごく健全でそれなりの情欲も持つ若い男であったから。


 ただし、今、息子が何を考えているのかアユリカナには判断出来ない。


 幼いころに一度経験してはいるものの殆ど歴史書でしか知らなかった戦を終え、意識していないうちに婚姻を終えてしまった息子の心中を理解するのは、幾らアユリカナといえども不可能である。


「……幸いな事に親たる者への報告というものは時間をかけるものという今までの歴史がありますが、もうそろそろ夫婦の寝室へお行きなさい。どうせ皆貴方がこの塔から出てくるのを今か今かと待っているに違いないわ。王の蜜月の三日間は誰も邪魔する事は許されていないから、貴方を呼び止めたり貴方の時間を求めたりする者はいない筈だけど」


 フランヴェルジュは食事への感謝を示す印を切り立ち上がるとまじまじとアユリカナの眼を見た。自分と同じ金色の瞳を。


「母上は……納得されているのですか?」


 一瞬の沈黙の後に紡がれたフランヴェルジュの言葉に、アユリカナは少しだけ思案して、答える。


「花嫁が他の娘でなくエスメラルダだという事に、……母は納得していますよ」


 他に何を思い、何を悩もうとも、それだけはアユリカナの揺るがない真実であった。


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