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エスメラルダ  作者: 古都里
第二章 王の蜜月
56/93

2 積み木

 すれ違う相手が身分の高い低いに関わらずフランヴェルジュに対し心の底からの笑顔を向けて祝いの言葉を向けるのに対し、笑みを浮かべて右手を上げながら歩く、フランヴェルジュは心の底でひたすら『我慢』という文字を囲っていた。挙げた実感のない婚儀への祝福を素直に受け取るのはとても困難で、しかし誰の顔を見ても幸福に満たされた顔をしており、あれは違うのだと、正式な婚姻は先の未来だと、そんな言葉を述べられる訳がなかった。


 本来なら喜ぶべきはずの『婚姻』なのに素直に喜べない。だが、全て無かったこととリセット出来る身分ではない、王という者は人の期待にこたえ続けるのが運命さだめ

 メルローアの王が無視出来ぬのは神殿だが、服従しなければならないのはメルローアの民、メルローアの意思。


 故に、誰も彼もが破顔しながら述べる祝福が真実ならフランヴェルジュは従うしかない立場なのだ。


 そして、自分が少々平静でない事を自覚しているフランヴェルジュには、祝う皆の顔にも言葉にも、嘘偽りは見出せずにいる。


 頭も感情もついていかない。


 そんな苛立ちだの混乱だのを感じながら、フランヴェルジュは兎に角真白塔に急いだ。


 こんな事を意図して実現させられるのは母しかいない、フランヴェルジュはそう思う。だから、その母と話をしなければならない。


 そして、もう一人会わなければならない人間がいる。本当の本当に夢を見ているのでなければ、自身が意図せぬうちに婚儀を挙げた事になるが、それでも、『花嫁』たるエスメラルダの傍に行く前に会うべき相手がいる。


 しかしやっと真白塔についたと思うと、母は混乱の極みの顔をして立ち上がる事もせず息子に縋るような目を向けているのである。乳母のラトゥヤを与えた部屋に下がらせるだけの理性は残っていたものの、そのラトゥヤはルジュアインを抱いて頭を下げてから辞する前にはっきりと「ご成婚おめでとうございます」と言い切り、母はフランヴェルジュが見た事もない表情で……声を上げれば悲鳴になるのではなかろうかと思う程取り乱しているように見える表情を浮かべフランヴェルジュを見やったのだ。


 ラトゥヤはアユリカナのその表情には気付くことなく続ける。


「そして、ルジュアイン様の為に、陛下のご決断に心より有難う御座います、と申し上げる事をお許し下さいませ。陛下と花嫁たるエスメラルダ様の百年の幸せを祈念します」


 そして赤ん坊を抱いた体勢で出来る最大限まで腰を曲げ頭を下げ、やっとラトゥヤはルジュアインを抱いて退出した。


 礼を言う余裕は、フランヴェルジュの中にはやはり、なかった。

 フランヴェルジュはラトゥヤが辞してきっちり百秒数える。


 ラトゥヤは真白塔の三階に部屋を与えられている。エスメラルダが使っていた部屋の隣。


 人払いをして百秒数えるのはメルローアの王族なら当たり前の事だ。少しでも余人に聞かせる可能性を減らすために人払いするのに扉が閉まってすぐに喋りだすなど人払いの意味がないからというのが理由である。


 長い百秒だった。

 しかし、百秒程度では、アユリカナはいつもの泰然とした姿勢を取り戻せなかった。


 質問するのはフランヴェルジュの筈だったのに、母である女性のこの様子を見ていると彼女こそ自分を問い質したいようだとフランヴェルジュは感じる。


 アユリカナに腹芸をさせれば天下一品。

 しかし、今回息子を騙す動機がない。


 そしてラトゥヤが下がった後、祝いの言葉を口にするでもなく、そして喜びを顔にするでもなく、金縛りから溶けたように立ち上がったアユリカナは、ただ泣きそうな顔でフランヴェルジュに問うたのだ。


「貴方、結婚したの? 今日のあれは、華燭の典だったの? まだ、まだ……」


 レーシアーナが死んでひと月も経っていないのよ?


 その言葉に、フランヴェルジュは母も自分と同じようにキツネにつままれたような気持ちでいるのだと、何とか理解した。


「メルローアに生きるものは、どうもあれを婚姻だと受け取ったようです」


 婚儀の触れを出したわけではないのに。

 自分がアユリカナに頼んだのは、民にただあの広場に集まるように『頼む』触れだった。王として初めて民に、命ずるのではなく頼みの言葉を用いて触れを出した。母に頼みこそしたが、その触れ、告知の内容はあくまでフランヴェルジュ自身の言葉で、考えに考えて作成した上でこの通りにしてくれと母に頼んだものであった。


 本当に何故、何故婚姻という事になっているのだろう。


 ブランシールが正気ならば、きっと懇切丁寧に一から説明してくれただろうに。

 けれど今のブランシールは。


「母上、俺も全く訳が解りませんが、どうも俺達は婚儀を挙げたようです」


 国王から親たる者への報告として、歴代の王の中で最もおかしな報告だろうとフランヴェルジュは思った。

 けれど、母の謀略でないのなら、母と再会の喜びを交わす時間より何より……ブランシールに会いに行きたい。


 報告は済ませたのだ、花嫁を大事にする誓いを述べるにはまだ婚姻の実感の湧かないこの身では無理だ。それに、まだ何故こうなったか解っていないフランヴェルジュにはアユリカナにこれ以上言える言葉はない。

 ただ、この王城を離れていた間に愛しい少女と同じくらい会いたいと望んだ半身に……大事な弟に会いたい。


 ファトナムールの王太子が乱心の上、王太子妃を手にかけた際に巻き添えになって重傷を負った……メルローアの民にそう発表し、まだ意識を取り戻した事も正気を手放した事も伏せられている銀髪の王弟は、姿を隠すために『ぬばたまの牢』にいる。


 考える事を投げ出したアユリカナは、自らの寝室への入室許可を願う息子に機械的に頷いた。


 アユリカナの寝室から続く秘密の地下通路は『ぬばたまの牢』に続く。

 何も言えないでいるアユリカナに息子としての礼を取るとフランヴェルジュは母の寝室へと急いだ。そして、初めて恋がかなったと実感した母の寝室に足を踏み入れても何の感慨も抱く余裕を持たずに、フランヴェルジュはただただ行くべき道を進んでいく。




◆◆◆

 ぬばたまの牢は、牢であることが嘘であるように整えられていた。その事にたどり着いたフランヴェルジュは一瞬驚き、そしてすぐに母か自分の想い人が、さもなくばその両方が、ブランシールの為に心を砕いてくれたのだと認識する。


 舌を抜かれた、読み書きも出来なければ家族を持つことも許されぬ牢の番人は敬意をもってブランシールに接して彼を守り抜くだろうが、今のように牢内をどうにかする事は出来ない筈だ。何せ彼はこの牢より動けぬ身なのだから。


 鉢植えではあるが、花に溢れた牢内。

 むせ返るような芳香、というものはない。微かに空気は甘いけれども、それ以上ではない。多分手を入れた人物はブランシールを慰める為に花を持ち込んでも、その香りでブランシールの気分が悪くならないように花を選んでくれたのだろう。


 以前ブランシールの体内から薬物を抜き取る為に籠めた時は薄暗かった牢内は沢山の色に溢れているだけではなく、とても明るい。蝋燭の明かりではなく、天上から吊り下げられた沢山のランタンがこの場所を明るい場所へと変えている。


 さして広くないその牢の中、ブランシールはフランヴェルジュが姿を見せた瞬間、満面の笑みを浮かべた。


「ただいま、ブランシール」


 フランヴェルジュはそう言うと座り込んで積み木遊びをしていた弟の前に膝をついて目と目を合わせた。


「あー、あう、ううー」


 言葉を失ったブランシールの上げる声は、唸り声ではなく歓迎の声のように感じる。それでも、そんな風に赤子のような笑みと声ではなく、皮肉でもいい、どんな言葉でも良いから正気のブランシールの言葉が聞きたいとフランヴェルジュは思った。


「やっと帰ってこれた」


 顔をくしゃくしゃに歪めてフランヴェルジュは弟を抱きしめる。

 ブランシールは大人しく腕の中に納まり邪気のない笑顔のまま、そのまま動かない。


 正気のブランシールなら「恥ずかしいのでやめて下さい」と笑いながら胸を押して抱擁から逃れたかもしれない。いや、きっと「お帰りなさい」、そう言ってフランヴェルジュの背を撫でるかとんとんと軽く叩いただろう。


 しかし、それを言ってもどうにもならない。


 自分がこの王城を離れてからこの牢に身柄が移されるまでに今の医学で出来る事は恐らくやりつくされたはずだ。誰もフランヴェルジュに希望の欠片もないという真実を伝える役回りをしたくなかったのだろうが、この場所にブランシールの身柄がある以上、答えはつまりはそういう事だ。


「俺達が話したようにエンキアの野で戦ってロウバー三世は死んだよ。あの男の命を終わらせたのは俺でもメルローアの兵でもなく、ファトナムールの民だったが、俺達はそこまで予想出来なかったよな」


 物語るようにフランヴェルジュは語り続ける。文字を認識できない、どんな手紙を書いても伝わらない弟。どんな言葉を選び語り掛けても戦場の事を理解出来ぬのは解り切っているけれど、伝える。ファトナムールへの戦は、何度もフランヴェルジュとブランシールが夜中考え議論し続けた事だったから、だから、やはりその事についてブランシールにフランヴェルジュが彼自身の言葉で伝えなくてはならないと思うのだ。


 それにしても、ブランシール、お前が正気を手放す必要なんか欠片もなかったんだ。


 ファトナムールとの戦争はフランヴェルジュが我を忘れ王太子であるハイダーシュを手にかけなくとも避ける事は出来なかっただろう。何があっても戦争は起こった。もし、戦争がなかったとすれば怒れる民衆が立ち上がりファトナムールという国が瓦解した結果だったはずだ。だが。


 フランヴェルジュはブランシールの思いも想いも、そして犯した罪も知らない。


 だからフランヴェルジュはレーシアーナを殺したのはレイリエと彼女の駒であるレーノックスであると当たり前のように信じていた。レイリエの死体の下敷きになり傷を負ったブランシールは、恐らくレイリエを詰問したのだと信じていた。

 如何にレイリエという女が恐ろしい女でも、男を操る魔性であれども、フランヴェルジュも、そして他の関係者も、ブランシールが虜になるまま罪を犯し、贖罪と復讐の為に間男を演じハイダーシュに斬られたと思っていない。


 理由は二つ。


 姦淫は、裸で繋がっているその現場を抑えられるか当事者両方の証言がない限り、メルローアの法でもスゥ大陸の常識でも裁かれることはない。

 最も今回に関してのみ言うならば、上記の理由は、歴史に記す為に書類を作成した者や、レーシアーナを失った婚姻に参列をしていない他国の書記官レベルの人間しか引っ張り出しては来なかった。あの婚儀に参列した者と参列者から話を聞いた者はレーシアーナを喪った時のブランシールのあげたその声を、狂いざまを、知っている。


 あの声は人の上げる声とは思えぬ声であった。


 ある国の王族は日記にレーシアーナの死よりも、その死に際したブランシールの慟哭の声が心に刻まれ痛みを感じたと記した。けれど、メルローア人ではない貴賓達の中にはそう思った者は決して少なくなかったのだが。


「お前の妻を殺したのがレイリエなら、たった一言それを言ってくれたら……お前が一人でレイリエに立ち向かわなくとも俺は、……躊躇わなかったぞ」


 ハイダーシュを殺すまで人を手にかけた事がなかった自分を信頼しきれずに、ブランシールは孤独にも一人でレイリエと対峙したのだとフランヴェルジュは信じている。


 勿論、フランヴェルジュはかつてブランシールがレイリエの虜になったことは知っているし、忘れた事もない。しかし、レーシアーナを喪いその上でレイリエの魔性に屈したとはフランヴェルジュは露ほども思わなかった。更に、ブランシールを失ったと信じて我を忘れていたフランヴェルジュが見逃していた事を、後に報告という形で聞いている。曰く、ブランシールとレイリエの衣服に一切の乱れ無し、と。疑った事もなかった姦淫の証拠は、少なくともスゥ大陸の常識の上での証拠は、なかったのだ。


「本当に、たった一言言ってくれたら俺は手段を選ぶ事などせず可愛い義妹の仇をとったのに。……あの日、押し付けなければ剣も持たずにあの女と向き合って、お前は何をしようと思ったんだ?」


 フランヴェルジュのその言葉を聞いて、不意にブランシールはむずかる子供のように不満気に呻き、フランヴェルジュの肩に噛みついた。


「!」


 痛みに微かに身体を硬直させたフランヴェルジュは、ブランシールを腕から解放し、その痩せた白い頬を両手で掴んで弟の青い目を見つめる。


 かつて知性と理知を湛えた少し淡い青。


 俺の言葉の何が不満だったのか、それとも他の何かが、例えば腕に閉じ込めている事、例えば声音、そんなものが不満だったのか?


 問いかけようとして、フランヴェルジュはやめた。

 答える術を持たないブランシールにそれを聞くことが正しいのか解らなかったのである。


「ご免な、でもあと一個お前に話さなきゃならんことがあるんだ」


 フランヴェルジュがブランシールの頬から手を放してもブランシールは逃げる事をせずにただ兄を見ている。見てはいるが兄を兄だと認識することなく、ただ見ているだけ。


 それでも言わなければ。

 いや、謝罪せねば。


「俺の思慮不足で……俺とエスメラルダは婚儀を挙げた事になってしまった」


 奇妙な言葉を口にしている自覚を持ちつつフランヴェルジュは言った。


「言い訳はしない。しないが、結果的にお前の妻の死を軽んじるような事になってしまった事を済まなく思う」


 喪に服すべき期間の王の婚姻。

 それだけならば、歴史的に別に珍しくもなんともない。王に限らず男というものは妻を喪った翌日に新たな妻を求める事などよくある話である。少なくともスゥ大陸の常識ではそうだった。


 しかしブランシールの妻は、王の華燭の典の最中、王の花嫁を庇い死んだ。王の花嫁の代わりに死んだ。


 だからフランヴェルジュは、せめて一年の服喪は絶対に守るつもりだったのだ。王位継承権やらなんやらを思い急いだ婚儀のやり直しはちゃんとレーシアーナを悼んでから行うつもりであったのに。


 全部俺の判断ミスだ。

 フランヴェルジュはそう己を責める。


「すまない、すまない、ブランシール。もしレーシアーナの魂が迷ったら、それは俺のせいだ」


「ああーう! あう、あ!」


 突然ブランシールはフランヴェルジュから顔を背け真横を向いた。向いてそちらを指さし、そしてまたフランヴェルジュの方を向くとあうあうと声を上げ続ける。


「どうしたんだ? 何なんだ? ブランシール?」


 フランヴェルジュは問うがブランシールはただ意味をなさない声を上げ続ける。それは此処へ来てから初めてブランシールが何か意味を成す行動をしたようにフランヴェルジュには見えた。

 だから何か、何か意味があるはずだと思い弟を見つめ、弟の指さす方角を見つめ何も見出せず、フランヴェルジュは困惑し、やはりブランシールにまともな意思が残されていないのかと悲嘆しかけ、そしてもしブランシールが正気ならば、この現状をどう思っただろうかと考えた。


 身が切られるかと思った。


「そんなに、そんなに俺が許せないか?」


 その言葉に、驚くべきことにブランシールは激しく首を振った。まるで正気の人間の全力の否定のように。


「ブランシール?」


 いやいやをするブランシールにフランヴェルジュはひたすら戸惑うしかなかった。やはりブランシールは何かを伝えたいのだろうか?

 相手の意思がある程度解るだけ、まだ挙げたつもりのない婚姻の祝福を聞く方がここまで困る事はなかった。今のブランシールは本当に理解出来ない。


「怒って、ないのか……?」


 弱弱しくフランヴェルジュがそういうと、ブランシールはやっといやいやをやめて、そして視線を真横に再び転じるとまるで頷くようなそんな仕草を示して、最後にフランヴェルジュににっこりと笑いかけた。


 正気ではない。正気を手放す前のブランシールの笑みとは違い過ぎる。けれどまるで意味を持つかのようなその笑顔にフランヴェルジュは縋り付きたくなった。頷いたのは自分に対してではなかったけれど、それでも全力で縋ってしまったフランヴェルジュに罪はあるだろうか。


「お前は許してくれるのか?」


 泣きたいような思いで許しを求めるフランヴェルジュにブランシールは先程まで自身が遊んでいた積み木の一つをそっと渡してまた笑った。


「これは……?」


 どういう意味だと言いかけてフランヴェルジュはその言葉を飲み込んだ。


 落ち着け。今のブランシールに許すも許さんも、そんな判断が出来る訳がない。俺の半身は赤子と同じなのに、この積み木に意味を求めてもどうしようもないのに。俺は……まだ、ブランシールが壊れている事を心の底から納得しきれていないと、そういう事か。


 ここにきて何度も何度もブランシール自身の意思を、気持ちを、求めてしまっている。

 そんなフランヴェルジュが、半身の心が破壊されていることを納得できる日など、来るはずもないけれど。


「……有難う、ブランシール」


 そう言って渡された積み木をしっかりと握ると、フランヴェルジュは何とか笑みを浮かべて見せた。

 せめて笑っていないと不安を覚えるかもしれない、不意にそう思った。


 ブランシールは笑う。邪気のない顔で笑う。

 そしてまた真横を向いた。


「あー、あー、うう」


 ブランシールの関心は最早兄の上にはなかった。フランヴェルジュが呼んでもまるで聞こえていないかのように、先程から何度も見ていた真横へ、ブランシールの左側へ身体ごと向けて何かを言っている。


 その方角に何があるのだろうとフランヴェルジュは思った。先程ブランシールが指さしていたその方向は、しかし何度見ても瞬きしても何か変わったものは見いだせなかった。

 暫く自分の事が眼中にない弟のすぐそばに膝をついていたフランヴェルジュは、遂に諦めて立ち上がった。


「また、来る」


 そう言葉をかけてみたもののブランシールは反応しない。かつて自分の言葉をただの一言でも聞き洩らしてなるものかとフランヴェルジュに全神経を傾けていた弟は、もう、いない。


 それ以上言葉を重ねれば叫びだしてしまいそうで、そのままフランヴェルジュは牢を出た。牢の番人が恭しく礼を取るのも目に入らなかった。


 ただ、弟がくれた積み木を握りしめて地下を歩く。いや、フランヴェルジュは逃げたのだ。どこに向かえばいいのか解らぬままに、ただ、己の半身から遠ざかる為に、全力で逃げた。無意識のうちに握りしめている物にも思いを寄せる余裕はなかった。ブランシールに渡された積み木、それをまるで溺れる者が藁を掴むように必死に握り、フランヴェルジュは大股で地下を突っ切っていく。




 ――迷うとすれば、ねぇ、ブランシール様――


 自分の方を向いて声を上げるブランシールの頭を『彼女』はかき抱く。

 ブランシールは幸せそうに、そして甘えるように声を上げ、『彼女』はそんなブランシールを心から愛おしそうな眼差しで見つめる。


 『彼女』は最早生あるものに触れる事は出来ない。けれど、ブランシールはちゃんと『彼女』を認識してくれて、それが『彼女』には何よりも嬉しい。


 ――迷うとすれば愛する者が不幸になった時だけでしょうに、ねぇ、ブランシール様――


 人の目に映らぬはずの『彼女』のその困った笑顔はブランシールの眼にははっきりと写っていた。かつてブランシールがその手で撫でて愛おしんだ金色の髪も、胸の痛みを覚える程に大切に思った海の色の眼差しも、全て全てブランシールの眼には見えている。




 ブランシールの壊れた心と理性の中、一つだけ残ったものが愛だったのだ。


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