1 王と王妃の婚姻
フランヴェルジュが凱旋を果たし、その婚姻に彼が心から思う民衆のその祝福を受けて王城に帰還した後、エスメラルダは王妃となった際につけられる筈であった女官長のユリエに当たり前のようにかつてのリドアネ王の後宮に、フランヴェルジュが整えた王と王妃の為の部屋に案内された事に漸く夢から醒めたような不思議な、そして確かな恐怖感を覚えた。
王城への道すがら、ありとあらゆる人々の祝福を受けた。フランヴェルジュへの帰還を祝福する声が嬉しくて、そして若き国王との愛を祝福してくれる声が嬉しくて、エスメラルダは生まれて初めて酔っていた。どんな酒にも酔った事はないが、間違いなく酔っていた。自分の身体を強く優しく抱きとめる最愛の人の存在はその酔いをさらに加速させた。
けれど王城に帰還するなり引き離された。
勝利を得て帰還した王にはその政務がある。解っていたから不満など欠片もなかった。
しかし、今はいない親友とともにこっそりと『敵』と呼んでいた人々が自分に対して表面だけとは思えない礼を取り『王后陛下』『王妃様』と呼んだ事で混乱が始まった。ごく当たり前のように飾りの一つもない白いドレスに接吻を受け何がなんやらわからないまま、示された忠誠に礼の一言も述べる余裕もないまま、エスメラルダはユリエとユリエの後に続く女官達に連れられるままその寝室に辿り着いたのである。
かつてのリドアネ王の後宮。今はフランヴェルジュが整えた彼の為の後宮であり、夫婦の寝室。
「ユリエ……わたくし……」
民は祝福してくれた。婚姻を許してくれた。だから正式に神殿での婚姻がもう一度行われ、そして初めて王后陛下と、王妃様と呼ばれ、それからこの寝室へ……国王と王妃が結ばれる寝室へと足を踏み入れるのではないのか?
しかしユリエはそんな葛藤に気付かず、ただ恥じらい故にエスメラルダの表情が強張っているのだと信じた。だからユリエは彼女の新しい主人に微笑みながら言う。何という愛らしい我が主様。心の底からそう思い口を開く。
「何でございましょうか? 我が王妃様」
「……名で、名で呼んで頂戴」
エスメラルダはそういうのが精一杯だった。
女官長という位につくためには高位貴族の血が絶対に必要だ。王妃の位を望めるだけの血が必要だ。
だから、商人の血が半分流れるこの身が正式な王妃になっても、ユリエという娘が今浮かべているうっとりとするような表情で自分を見つめる事はないだろうと思っていた。更に言うならば父の身分はまだはっきりしているが、母は名門中の名門の血を引きながらその名を名乗るを禁じられている身。エスメラルダには何の後ろ盾もないのだ。
将来王妃となるだろう事は受け止めている。フランヴェルジュが民に頭を下げてまで祝福を望んでくれた。しかし、それはあくまで未来の事であるし、王妃となっても今はただの平民なのだ。フランヴェルジュやアユリカナの好意で王家の末席に座ることが出来ても、まだエスメラルダは王妃ではない。故にユリエの態度はまるで理解出来ない。
いや、それを言うなら『敵』達のその対応も不思議で仕方なかった。
何が、一体何がどうなっているの?
エスメラルダは、フランヴェルジュが帰還を果たすまで彼の事で頭が一杯で、そして親友の遺した可愛い赤子とその父親であるブランシールの事で頭が一杯で他人を顧みる余裕が欠片も存在しなかった。もし彼女に余裕という物がほんの少しでも残っていたならエンキアの勝利の後、少しずつ、だが確実にメルローアに生きるほぼすべての人間の瞳に自分への愛が灯り始めた事に気付き、もっともっと早くに驚き慄いた筈であった。
「エスメラルダ様」
ユリエは優しくエスメラルダの名を呼ぶ。
「わたくしは……真白塔に部屋を賜っていて、それにルジュアインが……」
混乱しながらのエスメラルダの言葉にユリエは心底驚いた顔をした。
「エスメラルダ様、『王妃様』のお部屋は後宮の『ここ』、だけです。そして初夜に赤子と共に王を待つ王妃はエメローアの歴史上存在しなかった筈ですわ。身罷られた王弟妃様も身二つになる前に初夜をブランシール様と過ごされたはずです」
初夜……?
エスメラルダははっきりとした眩暈を覚えた。
今すぐ真白塔に帰りたい。そしてアユリカナにどうなっているのか問い質したい。
そう思ったが聞くまでもなかった。頭の中に不意に答えが閃いたのである。
つまり……広場で受けた祝福は婚姻の許可ではなく、婚姻そのものへの祝福だったということ?
何故?
まだ、レーシアーナの喪中なのよ?
よろめいたエスメラルダをユリエは慌てて支えた。
「失礼致しました、大丈夫でいらっしゃいますか?」
そう言いエスメラルダが体勢を整えるまで彼女を支えたユリエに、他の女官達からの羨望混じりの視線が向けられた事にエスメラルダは気付かない。ユリエは気付きながらも意に介さない。
可愛いわたくしの王妃様。なんて処女らしく恥じらわれるのでしょう。
ユリエの中にはただひたすらの愛がある。仕えるべき主人への愛が。
「ええ、大丈夫、大丈夫です」
何とかエスメラルダはそれだけを口にした。
アユリカナ様にお会い出来ないなら、真白塔に行く事が今はかなわないのならば、一人にならなくては。カスラならば、あの忠実な女ならわたくしの知りたいことを全部教えてくれるはずだわ。
ユリエはそんなエスメラルダの思惑に気づかずにそっとエスメラルダを支える手を離すと跪いた。他の女官達もユリエに従い跪き深く頭を垂れる。
「国王陛下は日付の変わらぬうちに必ず王妃様のお待ちになる寝室にお渡り遊ばされるでしょう。今宵の御正餐はこの後宮にて。その後に湯浴みのお手伝いをさせて頂きますが、色々御心の準備もありますでしょう。控えの間に我ら女官が控えおりますが、王妃様が御望みになられるなら御正餐のお時間まで我々は誰も王妃様のお時間を奪い煩わせることはしないと誓い申し上げます」
ユリエの言葉にやっとエスメラルダは普段の彼女らしいことをした。
「有難う。貴女達の心遣いを受け入れます」
感謝の言葉を言う事。そんな当たり前の事が今の今まで出来ないほどエスメラルダは自分を見失っていたのだ。
「一つだけ。ルジュアインがどうしているかを、それだけを教えて頂戴」
自分の声が震えもしない事にエスメラルダは今更ながらに驚いた。そして、眩暈のままよろめく姿を見せてしまった事は恥ずかしいけれどそれ以上の醜態をさらさずにいる自分をほんの少しだけ褒めてやりたいと思う。
泰然とあれ、そう、頭の中で自分の中で口伝えの呪文を紡ぎながらエスメラルダはしかし、混乱しきっていたのだけれど。
「ルジュアイン様のお傍には王太后様がいらっしゃる筈でございます。どうかご安心下さいませ」
その言葉に、やっとエスメラルダはほっとした。
まだ訳の分からない事ばかりだけれど。
レーシアーナ、何がどうなっているのかしら? 本当の本当にわたくし、おかしくなってしまったようよ。
◆◆◆
フランヴェルジュは最初に議会での報告やらなんやらの些末事を済ませなくてはならない事をよく知っていた。戦後処理は大事だが大事なのはそれだけではない。フランヴェルジュが城を離れて十五日間、国内でどんな問題が起こっているか書簡のやり取りだけでは把握しきれるはずもない。
だからこそ、ユリエ達にエスメラルダを任せ会議場へと足を向けたのにもかかわらず、入室するなりフランヴェルジュに向けられたのは不思議そうな、そして次に遺憾という言葉がぴたりと当てはまりそうな、そんな表情で。
驚くフランヴェルジュは、更に、初めて面と向かって言われたのではないかという文官達の非難を聞いた。
「何をやっておいでですか。今日は何をさておいても王妃様の下にお渡り遊ばすべきでしょうに」
「全く、その通りです」
「一体こんなところで何をやるというのですか、本当に」
そんな風にフランヴェルジュが会議場にいる事を、エスメラルダの傍にいない事を文官達は当たり前のように非難する。
何なんだ? 何だというのだ?
民衆からの自分への支持が厚い事は知っていた。だからエスメラルダとの婚姻を確定する為に民からの祝福を願った。
帰城してエスメラルダを王妃、王后と呼ぶ声は勝利した上での帰還を果たした自分が隣にいるから、途中まで婚儀を果たした仮の王妃への敬意を示してくれているのだと思った。
議会で自分や文官の発言は公式の書類として半永久的に保存される。ここでの発言は、ある意味金より重い。
その場で、かつてエスメラルダを認めないと言った者達ですら口々に彼女を『王妃様』と呼び、自分が彼女の下ではなく此処にいる事を非難している。
五人の書記官に目をやると、誰一人手を止める事なくペンを走らせている。虚偽の記録を残すことを禁じられている彼らは文官達の不敬と言ってもいい言葉をちゃんと何百年と残る事が解っていながら書き記している様子。
一体、何なのだ?
「……余がここにいるべきではないと言いながら、そなた達は何故ここに集まっているのだ?」
フランヴェルジュがそう言うと文官達は心底呆れたような不思議なような、そんな表情を浮かべる。
ざわざわとざわめく会議場に咳払いが響き、ようやく静かになったかと思うとその咳払いの主である壮年の文官ハルシャ・シズリアがさも当たり前のように口を切った。
「何を仰っておいでですか、陛下。戦とその後の対応について話し合う為に決まっているでしょう」
「ならば!」
馬鹿にしているのかという怒気をはらんだ言葉に、しかし誰も驚く事もなければ畏れの表情さえ見せない。そしてハルシャはフランヴェルジュが好き勝手に怒鳴り散らす事をさせず、彼の、否、彼らの意思を言葉にした。
「陛下の海より深く天より高い御意思は書面より我ら周知のところ。残りの仕事は将軍や上級武官そして勿論我々が全力で勤めます。臣にお任せ遊ばし、早く王妃様のもとへお渡り下さい。婚姻当日に暢気に議会の議長を務める王などメルローアには存在しませんでしたよ」
「婚姻当日……?」
フランヴェルジュは王の顔をしている時に出したことのない間抜けな声を出してしまった。
「確かに神殿は何か難癖をつけてくる可能性が無きにしも非ずですが、陛下、民という民の祝福を受けて今更……本当に今更ではございませんか?」
ああ、とフランヴェルジュはやっと合点がいった。
そして、次に血の気が引いた。
確かにホトトルの水などくそくらえと言い誓いの言葉を交わし唇を重ねた。支持をより堅固にし誰にも無視できない許可を欲したあの行動は、どうも『婚姻そのもの』と受け取られたようである。頭の固さでうんざりさせてくれる事ばかりだった文官達がこの状態であれば議会の勘違いなどという事では済まぬであろう。恐らくは、神殿を除くメルローア中から、この国中からフランヴェルジュとエスメラルダは婚姻を上げたと認められたのか。
神殿は今ほぼすべてが止まっている筈である。大祭司が目覚めぬまで何も言う事はない。
「陛下、婚姻の日とそこから数えて三日間の王の蜜月は歴代の国王全て、一切の政務から解放されたはずです。それとも、たかだか数日陛下が政務をこなさなければ国がどうにかなると仰り、我ら臣民を侮辱するおつもりですか?」
ハルシャの言葉に、静かにしていた文官達が同意の言葉を上げ、再び会議場は賑やかになった。
他の事なら、エスメラルダが関係しない事であるならば、こんなことがあれば面白いと腹を抱えて笑っていたに違いない。いや、レーシアーナが生きてさえいれば、そうか解ったと笑顔で言って愉快な気持ちでこの場を後にしただろう。
そういえば、ハルシャの顔は単に見知っている以上によく知っていた。ブランシールが可愛がっていたからだ。自分より年上の文官を『可愛がる』という言葉が正しいのなら、本当に可愛がっていた。
その時、鈴の音と共に扉が開く。
文官達の視線が一瞬フランヴェルジュから外れ、フランヴェルジュ自身もその扉を、入室者を見つめた。
よく、見知った顔だった。
轡を並べた将軍とその側近達。
「遅れて申し訳ない。お許しあれ。……陛下? 何でこんなところにいらっしゃるのです?」
そう言いながら周囲を見渡し、そしてフランヴェルジュがそこにいる事に将軍リンデルもその側近も、そろって真剣に不思議そうな視線をよこした。
お前達もか。お前達までそうなのか。
何処か解っていた事であったが、それでもフランヴェルジュは頭を抱えたくなった。それでもフランヴェルジュは王であった。王であるが故にきりりと前を見つめる。項垂れる事はしない。それが彼の矜持。
本当に皆がフランヴェルジュとエスメラルダが婚儀を済ませたと思い込んでいるのならば、ならば。
「一つだけどうしてもやらなくてはならない仕事を忘れていてな。仕方なくここに来たのだ。会議の進行はリンデル将軍と新しい宰相に任せる。レーノックスの後任を未だ決めておらなんだは余の失策だが……ハルシャ・シズリア、そなたをメルローアの宰相に任ずる。否やはないな?」
半ばやけくその人事は失敗ではなかった、と、この後何度も何度もフランヴェルジュは思うのだが、この時はまだ最愛の弟がハルシャを可愛がっていた事を思い出し、ハルシャがまるで正気であった頃のブランシールが言いそうな言い回しで自分をこの場から追い出そうとしている事しか解っていない。
「……謹んでお受けいたします」
口先だけの辞退、つまり宰相という立場の重要さに対しての謙遜を示したりする事などせずハルシャ・シズリアは最敬礼を取り受け入れた。
文官達が手を叩きながら祝福の言葉を口にする。冷静なフランヴェルジュならハルシャの就任が本当に喜びをもって迎え入れられたことが解った筈だしその事に驚きもしたはずである。宰相という地位の意味を皆知っているはずであるから。
普通であれば嫉妬に塗れた狸爺達が必死に感情を押し隠そうと努力する顔をフランヴェルジュは目にする筈であったのだが。
だが、今のフランヴェルジュには余裕がなかった。文官と、轡を並べた将軍、そしてその側近が余裕を削り取った。
いや、彼らに限った事ではなく今日の誓いと口づけを婚姻と受け取っているメルローアの国民なら皆、フランヴェルジュが花嫁の傍にいない事を様々な言葉を用いて責めそうである。
急に全身が重くなったのをフランヴェルジュは感じていた。
戦自体の疲れは大したことなかったが、その戦の後始末、そして今すぐ最愛の娘のもとに帰りたいと思いながらの帰途は酷く疲れるものだったと思い出す。
エスメラルダとの再会の瞬間に忘れていた疲労がいつの間にかずっしり全身を包んでいる。
「宰相ハルシャ・シズリア。よく努め、よく励め」
それだけ言うと、フランヴェルジュはこれ以上此処にいても仕方が無いと思いさっさと会議場を後にしようと思ったが……三秒でもう一言、言っておかないといけない事があるのを思い出した。
多分此処にいる誰かが、まっすぐ自分がエスメラルダのもとに向かったかどうか、人に確かめさせるだろう。
「……婚姻の報告を王太后に行い、それから花嫁のもとに渡る」
その言葉には誰も反論しなかった。
国王もしくは王太子の婚姻は、その父母の内片方でも存命ならば、婚儀が終わったその日の内に、花婿からの報告が義務とされている。息子が、駆け落ちならばともかく国を挙げての婚儀を行い、知らぬ親が何処にいようか? 報告という名を取っているそれは国王、もしくは王太子が父母へ花嫁を大事にすると誓う意味を持つのだ。
リンデルが大きく声を上げる。
「メルローアに栄光あれ!」
武人らしく腹の底から出されたその声は気持ちよく響き渡った。
その言葉にその場の全ての人間が唱和する。
会議場で湧き上がる声に普段のフランヴェルジュなら鷹揚に笑みを浮かべて見せるなり手を振って見せるなりしたであろう。
しかし、余裕のかけらもない国王はただ頷くことが精一杯で逃げるようにその場を後にした。
将軍や文官の思い込みがこの国の共通認識であるのならば。
自分がいつ婚儀を挙げたというのだ? などという祝うものを馬鹿にするような問いを口にせずに良かったと思う反面、フランヴェルジュは本当の本当に胸が痛いと思う。
まだ、あの可愛い義妹の喪は開けていないというのに、俺の軽はずみがとんでもないことになった。
心の中で金の髪をした優しい娘に詫びつつ、フランヴェルジュは真白塔に足を向けた。
◆◆◆
まさかこんなことになるとは思ってもいなかったとアユリカナは思った。
自分が今日は一日ルジュアインを引き受けるといったのはフランヴェルジュが戦後処理の会議を行った後まっすぐエスメラルダの元に向かうだろうと考えたからだ。
けれどアユリカナの頭の中にあったのは民から祝福された『恋人達』が二人で過ごすさまであり『花嫁と花婿』が睦みあう初夜では、決してなかった。
滑稽な話であるが、当事者とその母だけがメルローア中の意思を正しく解っていなかった。決して愚かではない筈の三人だけが、理解しきれていなかった。
アユリカナが息子と可愛い少女の誓いをこの国が婚姻と認識している事を知ったのはフランヴェルジュよりほんの少し先に帰城し、真白塔でルジュアインを乳母のラトゥヤに渡して彼女と戯れのお喋りに興じた時だ。
「明日の戦勝祝いの夜会はエスメラルダは喪服で参加することになるのね。フランヴェルジュは喪服で踊るエスメラルダに一目で心を奪われたそうだけど」
「そんな事あり得ませんわ」
アユリカナの言葉にラトゥヤは素っ頓狂な、心底驚き切ったという声を上げた。
その言葉をアユリカナは誤解した。ルジュアインを大事に大事にするエスメラルダに対して愛情を覚えていたように見えるラトゥヤは、エスメラルダがレーシアーナへの忠義の為に戦勝祝いとあれど欠席すると思い込んでいると、そう考えたのだ。
長く一緒にいるラトゥヤに対し、それなりに心を許しかけていたアユリカナは苦笑する。
「ラトゥヤ、気持ちは解らないでもないけれどエスメラルダは自分の立場を弁えているわ。フランヴェルジュの為に、あの娘は絶対に夜会に出るしかないわ」
「そりゃ夜会には出られるでしょうけど明日という事はないと王太后様もよくご存じのはずですわ。王と王妃の三日間の蜜月が終わるまで幾ら戦勝を祝うと言っても夜会なんて行われるはずがありませんし、婚姻という慶び事の後では、喪服なんてブランシール様でさえ御脱ぎ遊ばすはずですわ」
アユリカナは頭が真っ白になった。
この子は何を言っているのかしら?
思考が停止しているアユリカナにラトゥヤは更に追い打ちをかける。
「王太后様の先代のレンドル国王の喪が明ける事のないお立場は理解しておりますが、素晴らしい慶び事ですし、まだお若く美しいのを考えると……喪服に包まれておいでなのは本当に勿体なさすぎますわ」
まるで死ぬまで喪服を着る運命のアユリカナにその喪服を脱げと言わんばかり。
ラトゥヤは腕の中の赤子を見つめた。可愛い、守るべき存在。ラトゥヤは乳母という役職だからではなく、ただただこの青い目の赤子が可愛くて仕方ない。乳で腹を膨らませて眠るルジュアインの為ならラトゥヤは本気で死んでもいいとさえ思う。
だから次に口にした場は、ラトゥヤの偽らざる本心だった。
「陛下はよくぞご決断なさいました。ご婚儀が早ければ早い程、お世継ぎの誕生が早ければ早い程、ルジュアイン様が利用される可能性が減りますものね」
そう、この赤子は利用されてはならない。
言いたい事を言ってしまうと、呆けて返事の出来ないアユリカナを置いてラトゥヤはルジュアインと二人の世界に入ってしまった。
あれ、が……王族の婚儀だというの?
アユリカナの頭は頭痛を訴え始める。始め微弱であった痛みはどんどん強くなる。
他国の貴賓を招く事もなく、神殿で大祭司からの、いや、大祭司の身体を借りた神の祝福もなく?
フランヴェルジュからの手紙を見て、アユリカナはエスメラルダに『白いドレスで行け』とは言った。しかしあの何の飾りもないドレスが花嫁のドレスだとアユリカナには思えなかった。
メルローアの王妃となる娘が白いだけの喪服とただの花冠で華燭の典に挑むだなんて!
アユリカナは必死で考える。
自身が真白塔にたどり着くまでに何度『おめでとうございます』という言葉を聞いただろう?
王太后という立場の者への改めての戦勝祝いだと思っていた。そして息子が無事に帰ってきた母親への祝福であると思っていた。
そういう意味ではなかったのだろうか? ラトゥヤが思い違いをしているだけなのか?
いや、いや違う。
ただの思い違いだとそう判断したならば、『アユリカナ』という女なら笑顔を浮かべて優しく諭したはずだ、そうではないときっぱりと。
王妃として長く国王の隣にあり、今若い国王の母であるアユリカナは本能的に察してしまった。混乱しきっている自身を自覚しながらも、自分の息子が妻を、王妃を娶ったという事だけは……事実なのだろう、と。
民からの支持と許可を手に入れようと考えた息子を賢い子だと感心はしたが、その息子はそれを婚儀に代えるとはただの一言も記していなかった筈だ。読み落としたのだろうかと一瞬考えすぐさまアユリカナは否だと思った。王族の婚姻という物をフランヴェルジュはちゃんと理解していた筈である。恋に狂おうとも、それはそれ、これはこれ。
何がどうなっているのかしら?
本当の本当に、訳が分からない。
アユリカナはフランヴェルジュとエスメラルダが結ばれた事までは解っても、どうしてそうなったのかという事だけは未だ理解出来ないでいる。
自分の諜報網であるバジリルは、いや、神殿、それに連なる血族は使えない。大祭司が眠り続ける今、神殿は完全に静止し、戦勝や王の帰城を祝うどころか正午の鐘さえ鳴らさないでいるのだ。
情報を……集めなければ。
アユリカナはそう思い、しかし動く事は出来ずにいた。揺り椅子を揺らす事さえできず、ただただ、座り込んでいた。
お久しぶりです。
お読み下さりどうも有難うございます。
この第二章につきましては12話構成、毎日零時更新となります。
宜しくお願い致します




