彼は面倒を嫌う 後編
「あれですか? 兄上が将来選ぶ方が不愉快になられるだろう噂でしたから……時間薬での立ち消えでは後々、また持ち出された時面倒ですから当人達に否定して頂いただけですよ。普通に女性とベッドを楽しむのが僕は好きなのだという事を皆様方に身体で解って頂きました。兄上が禁忌を犯すだなんてとんでもないとついでに寝物語を囁いておきましたが……駄目でしたか?」
噂を流した淑女で名前が分かったそれらを片っ端から食い散らかしたのだと理解した時、あの面倒で面倒で鬱陶しい女達にそんな手段を取れる弟に対して悪かったと思うべきなのだろうが……先に尊敬の念が沸いてしまった。
その上更にブランシールはやらかしてくれた。恋人面してしつこくてたまらない女に悩まされている事をうっかり口にしてしまった時、酷くまじめな顔をして聞かれたのだ。
「つまり好きでも何でもないと。目の前で死なれたら後味が悪い位で、知らぬところでどうなろうが構わない程度の女性だと、そう受け取ってよろしいですか? 兄上にしがみつくことなく自然に消えてくれたらホッとするタイプの女性だと、そう考えて宜しいですか?」
常のフランヴェルジュならそこまで言うかと思ったかもしれない。いや、弟に対して甘えている自分は常であれ取り繕えなかったかもしれない。
その時、悩まされていた女の顔が脳裏に一瞬浮かんで思いっきり頷いてしまったのだ。
するとブランシールはその女をあっさり寝とってあっさりと捨てた。
寝取られ男とフランヴェルジュが呼ばれる事すらなかった。いや、殆どの人間がブランシールのやった事に気付きさえしなかった。
ブランシールは秘密の恋を持ち掛け、猛毒のような蜜の時間を与えて虜にしてから破れたハンカチのようにあっさりと捨てたのだ。
事情を知らぬ者達は、女が何故かフランヴェルジュから去り、その後廃人のように抜け殻のようになってしまったのを見て『自ら幸せを捨てたものの失くしたそれの大きさに気付き壊れてしまった馬鹿な女』と嗤いさえした。
流石に弟が厄介かつ面倒極まりない女と褥を共にした事に気付かない程馬鹿ではないフランヴェルジュは悩み、こればかりは謝るべきかと思ったが、ブランシールが誰にも、勿論自分にも、気付かれないように事を運ぼうとした事、それもやはり解ってしまったのだ。
謝っても知りませんの一言しか恐らく弟は口にすまい。ただ女性関係で余計な事は、ブランシールには言わないでおこうと決めた。傍にいて自分の事をよく理解してくれる弟に何処まで隠し通せるか知らぬが、口は災いの元とフランヴェルジュは学んだのだ。
もし、もし万が一、この壊れた欠陥人間である自分が恋をしたら、その事は伝えよう、けれど負の感情は口にすまいとフランヴェルジュが誓ったのはこの時である。
ただ、自分とは違うながらもブランシールも壊れているのではないかとフランヴェルジュは思い、兄として苦しみ悩みはしたが、しかし何処かで安堵している面もあったのである。
こんな風に女という物に溺れることなくあっさりと手玉に取り、そして切り捨てる弟もまた、女を愛せないというフランヴェルジュと同じ壊れ方をしているのではなかろうか。
そんな考えは、無意識の底で働いていたものではあったがフランヴェルジュを何処か安心させていた。
ところがそんなある日、彼は弟が当たり前の用に将来この娘を娶ると言い切ってフランヴェルジュを混乱させたのだ。
何故ならその蒼い目には熱が。
上っ面の言葉ではなく、ブランシールはレーシアーナを求めているらしいと気付いた時、フランヴェルジュの中で何かが音を立てて崩れた。
「兄上は僕がレーシアーナを妻にするのを喜んで下さると思っていましたが? 兄上がレーシアーナがお好きだと仰っても彼女だけは渡す気はありませんよ?」
淡々とそう言いながらブランシールは紅茶を口に含んだ。それを淹れてくれた娘を何が何でも将来自分の妻にすると、ずっと昔、出会って数日で決めてしまったのだ。それだけは絶対の事。
真剣に言い切るブランシールに、生きてきて最大級の敗北を覚えた。ブランシールにはしょっちゅう敗北の苦い味を味あわされているけれど此処までではなかった。
ブランシールは壊れていない。ただ一人の手を選ぶことが出来る人間だ。そう、フランヴェルジュは思い知った。少なくともこの時のブランシールは単純に使えるものは使う、けれど心に大事な娘を宿している、そんな人間だった。
「確かにレーシアーナが義妹になるのは俺の望みではあるが……」
言葉が途中から出てこなかった。
フランヴェルジュが全く関わらないところでも、ブランシールはそれなりに浮名を流している。妻としたい娘がいて、未来を考えているようでいて、それなのに。
「ああ……僕の女性関係が気になるのですね、つまりは」
言われてフランヴェルジュはびくっとした。ブランシールには読心術の心得があるのだろうか。
「レーシアーナを妻にするのはまだ先の話です。もう暫くは、何も口にする気はありませんよ。結構、淑女達はお喋りでベッドの中で面白い話をしてくれますから利用させて頂いていますが、レーシアーナを迎える時は全部綺麗に清算しなければなりませんし……それは今ではないと思いますので」
「……なんのタイミングを見計らっているんだ?」
「さぁ、時期ではないと感じるだけです。とはいえ、お互いが二十歳になる前にはちゃんと話を纏めたいと思ってはいますよ? それ以上長引かせるつもりもないですねぇ」
「女性の適齢期を考えると今すぐ求婚していいと思うんだが?」
自分が知らないうちに遠い未来の事をちゃんと考えている弟がフランヴェルジュは羨ましかった。この娘と添い遂げたいと思う相手がいる事に関してはもっと羨ましかった。そんなに羨ましい想いをこちらにさせながら、浮名を流すブランシールが理解出来ない。
「兄上……適齢期とか言うならさっさとまともに恋愛して結婚してください。一応僕は弟なんです。順序を考えるともうどうしてもそうするしかないというまでは僕も動きようがないんですけど」
「……弟が先に結婚して何が悪い」
言いながらフランヴェルジュは自分の言葉を笑いそうになった。
面倒この上ない事に普通に行けば王位を継ぐのは自分だ。そうなるとやはり、順序だのなんだのという話になるのは仕方ない。継承権の問題がある。
ああ、本当の本当に面倒くさい。
来世とやらがあるなら、こういうしがらみのない人生が良い。いや、どんな身分のどんな人間になろうともしがらみも面倒もあるに違いないのだろうけれど。
「俺が不甲斐ないせいでお前は求婚出来んのか」
この事実は酷く落ち込まされる。
「そういう訳ではないのですがね、僕が勝手に時期を見ているだけですから。僕は絶対王にはなりたくないですし、レーシアーナに母上のような苦労をしてくれと言えません。それだけなんです」
ブランシールがレーシアーナの名前を口にする時、ひどく柔らかで優しい表情になる事にフランヴェルジュは気が付いた。口にしながらその名を愛でている。甘い飴を転がす様に、口にするたびに可愛がっている。
ブランシールは一言も好きだの愛しているだのと言わない。言わないが、そんな言葉を百万連ねるより、解りやすかった。
ブランシールにとってレーシアーナが特別であることを知っていた心算だったし義妹と呼べたらと願っていたけれど、ただの特別以上だという事を理解するには、この時のフランヴェルジュには荷が重かった。愛どころか恋も知らず、特別と呼べる女に巡り合った事のないフランヴェルジュには頭をフル回転させ、想像力を必死で働かせ、それでもやはりブランシールの気持ちが解らない。
これが女を愛するという事なのだろうかと、フランヴェルジュは思って悲しくなった。自分にはとてつもなく遠く手に入らない世界に思えたからだ。
経験値が足りないのは解った。けれど経験値をためるのにはどうすれば良いのだろう。
誰かを愛したかった。それなのに女という存在が近づいてくると面倒臭さでおかしくなりそうな自分がいる。
「兄上、焦ってつまらない女性と未来を誓うのだけはやめて下さいね。一生が無駄になりますから。満足いく女性が現れるのはもしかしたら七十や八十の老人になった時かもしれませんが、まぁ多分いつかこの人だという女性が現れますよ。多分、恐らく、きっと」
多分と二回言った。多分も恐らくもきっとも、そう言っておけば嘘にならない、便利な言葉だ。そういう所に生真面目なブランシールがフランヴェルジュは好きだった。
ブランシールにももしかしたらフランヴェルジュが生涯まともな恋愛をしないかもしれないという危機感はあるのだろう。誰より傍にいるブランシールは随分とフランヴェルジュを知っている。本人以上に知っている。
「兄上、落ち込んでおられます?」
そう聞くブランシールに、フランヴェルジュはただ頷いた。
◆◆◆
フランヴェルジュの人生にとんでもない転機が訪れたのは理解者である叔父が黄泉路を辿り、その遺品を受け取った時だった。
その時のフランヴェルジュの年齢は二十一。
思春期などとうの昔に終わっているがやはり彼には未だ恋愛というものが理解すら出来ない話であった。
一番面倒臭さがマシな女を探そうとぼんやり思っていたら、叔父の死を知らされた。自分に強い影響を与えたその人が何を見ていたのか知りたくて、もう会話も出来ぬ事が悲しいと思っていた。不思議とアシュレという男を思い出して、心を馳せるのを面倒だとは思わなかった。
そんな時に与えられた遺品、アトリエの鍵。
アシュレ・ルーン・ランカスターのアトリエに入る権利を心の底から欲するものは恐ろしく多いだろうとフランヴェルジュは思う。
アシュレは王弟と呼ばれるがそれより高い知名度は画家としてのそれ。
芸術の国と謳われるこの国が希代の天才の名を惜しげもなく捧げた男はこの四年間、人々が切望してやまないというのにその絵を一枚も表に出していない。
フランヴェルジュとブランシールはアシュレの領地であるエリファスに馬を走らせた。
そして緋蝶城と呼ばれる城の地下のアトリエで、フランヴェルジュは運命の出会いをする。
「これが叔父上の女神か」
それだけをフランヴェルジュは言うので精一杯だった。目は奪われている。心もまた。
アシュレが残した絵は人手に渡っているものもあるが、余程気に入った相手にしか絵を渡すことはなかった性分を考えるとアトリエを埋め尽くす勢いの絵が生涯に産みだしたそれの大半だと考えていいだろう。
彼の女神を見出す以前は、アシュレは人物画を描いた事がなかった。
だというのに恐ろしい事に若き日にアシュレが描き続けた様々な風景画よりも、たった四年間、彼の心に君臨していた少女の絵の方がはるかに多かった。多いなんてものではない、少女の絵を描く以外の事をやっていたのか、そんな疑問すら湧く。いや、食事を惜しみ睡眠を最小限にし、残りの全ての時間を総て少女を写し取る事に捧げても、ただ人ならここまでの枚数の絵を残すのは不可能だった。
アシュレは本当に少女に狂っていたのだろう。何もかもを捧げたのだろう。
「エスメラルダ……」
ランカスター公爵の心を奪った少女、そうやって宮廷の雀蜂が囀った時覚えようとすら思わなかった名前はキャンバスの裏に丁寧に記されていて、もう忘れられない。
キャンバスに封じ込められた少女の浮かべる様々な表情は既に心にこびりついて離れない。
その感情につける名前を未だ知らず、フランヴェルジュは画布に閉じ込められた少女をひたすら見つめた。何枚あるのか数えるのも馬鹿らしいキャンバスの数、そこに閉じ込められたエスメラルダは同じ顔をしたものが一枚も見出せない。目が離せない。もっと、もっと彼女を知りたいといつの間にかフランヴェルジュは切望している。
二割増し、希代の天才が恋に狂い有り得ない量の絵を残したのだから最低でも二割は余計に美しく描かれていてもおかしくないとそう思う。だが、このアトリエに溢れるエスメラルダという娘から美しさを二割削って、それで魅力がなくなったと言えるだろうか?
二割減、いや半分以下だとしても、それでもやはり気になる。知りたい。実物の彼女を知りたい。
何度も少女の名前を口にしている事にフランヴェルジュは気付きさえしなかった。ただ夢中だった。面倒を避ける為減らす為ではなく、ただ知りたいと思う事、そんな事は初めての事だったけれど今ひたすらに我を失くし絵に見入る彼はまだ何も分かっていない。
絵から視線を外し兄を見やったブランシールは苦笑した。二十歳まで待つ必要はなさそうだ、恐らく近いうちに兄は自分の心の中に特別な娘が棲み始めた事を知るだろう。そして遠くない未来に自分は想う娘に求婚するだろうとぼんやり思う。
エスメラルダという娘を閉じ込めたキャンバスを夢中で見つめる兄を見て心に深い安堵が広がるのを感じた。
ただ、不思議とブランシールは直感する。
恐らく、二度はない。
それは珍しい事ではないかもしれない。自分も出会って数日経ったか経たないか、気付いたら恋をしてそのまま今に至るのだから。そしてこの先も他の誰かと恋を育む可能性は限りなく低い。
ただ兄上は底抜けに不器用なんですよね。
ブランシールにとってそれも兄の愛すべき点ではある。このどうしようもない兄がとても愛おしい。大抵の事は器用にこなしてしまうのに、一部分が、全く手に負えない程に不器用なそのアンバランスさはブランシールにとって堪らなく大切なものだった。
最後の一枚を見てしまって呆けた兄にブランシールは声をかける。
「会いたいと望むのならただ招待すればいいだけでは?」
誰に、そして何に、とは言わない。
今のエスメラルダの住処も生活状況も調べようと思えば簡単に調べられるだろう。それが王族の力と言えばそうだ。調べた上、最もふさわしい形で招けばいい。
ぼんやりとしたままフランヴェルジュは頷いた。それがどんな意味を持つかとまで考える余裕もなかった。あれほど女というものは面倒だと常々思っていたくせに、描かれた娘を思うと欠片も面倒という言葉が出てこない。その事を不思議だと思える余裕が生まれるのは遠い先の話。
そしてその日がやってくる。
甘く春の香漂う夜会にて。
喪服で踊る娘を見てやっとフランヴェルジュは自分が恋をした事を知る。
恐ろしい事に希代の天才が描いた絵の何倍もエスメラルダという娘は魅力的だった。
そうしてあっさりと、赤子の手をひねるよりも容易くエスメラルダはフランヴェルジュの心を征服し、その事に気付きすらせず、艶やかに笑って見せたのだった。
お読み下さり誠にありがとうございます。
第二章の準備をしておりますが私生活が多忙でして落ち着くのが二月以降になるかと存じます。
更新等、出来得る限り急ぎたくは思いますがどうしても暫く更新が不可能になるのは避けられません。
もし宜しければ続きをお待ちくださいませ。
2020年、なろうに本格的に拠点を映せたことを嬉しく思います。
どうか良いお年をお過ごしくださいませ。
皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます




