後編 金の鬣、青い目のポニー
「レイデン侯、嘘をついたな。鬣は金じゃないし目だって青くない」
丸い輪郭の愛らしい頬をぷぅと膨らませたブランシールはそう言ってオルレアスを睨んだ。
朝食前。足下の芝生は露で湿り、きらきらと煌めいている。
馬の事と聞いてフランヴェルジュも付いてきていた。
馬は嫌いではない、だがそれよりオルレアスとブランシールを二人にしたくない。
幼いながらに異様に大人びたフランヴェルジュは自分が割り込める話題ならどんどん割り込んでレイデン侯爵オルレアスを弟と二人っきりにさせまいとしていたのだ。
「兄上にさんざん自慢したのに、これでは僕が嘘吐きになってしまうではないか」
泣きそうなブランシールの頭をフランヴェルジュはくしゅっと撫でた。
「お前は嘘吐きではない。多分あれだ。妖精に取り換えられたんだ。そうだろう? レイデン侯」
「いえ……それが実は『ポニー』はもう一頭いるのですよ。ブランシール様のお部屋に檻を運ぶよう命じてあります。両殿下ともきっとお気に召していただけるかと」
「本当か!? レイデン侯!」
「はい、勿論です」
オルレアスはその時が来るのをわくわくしながら待っていた。この純真な王子が純なまま、鞭を振るう様を。それが『エリザベッラの』娘に対してなされる所業だと思うとそれだけで頭がくらくらしそうなほどだった。
フランヴェルジュはじっとオルレアスを見た。ブランシールはまだなんでも信じてしまう年頃であったが、フランヴェルジュは疑う事も騙される事もこの世にはあると知っていた。
何だか嫌な予感がする。
母は親友の夫だからと自分達の近くに侍る事を嫌々許しているようだがフランヴェルジュはオルレアスが嫌いで嫌いで堪らない。
「金の鬣。青い目。金の鬣……」
ブランシールが歌いながら自室へと急ぐ。フランヴェルジュとオルレアスはその後を追うような形になる。
そしてついにブランシールの部屋についた。
侍女達が戸惑っている。
それはそうであろう。檻などがいきなり運び込まれたら人は大抵驚く。
「レイデン侯。ポニーなら何故部屋に運ぶ必要がある?」
フランヴェルジュの言葉にオルレアスは笑った。
「この世に一頭限りのポニーですから殿下が飽きられる前に盗まれては大変と」
「部屋でポニーと暮らせと弟にいうのか?」
「気に入らなければ捨て置いてくださっても」
フランヴェルジュはこれ以上の問答は無駄だと思い弟の跡を追った。
フランヴェルジュとブランシールの共同の遊び部屋のど真ん中に『それ』はあった。
その遊び部屋を通じてこの兄弟の部屋は繋がっているのであるのだが、家一軒入る位のその部屋の広さの中で、その檻は不気味な存在感を放っていた。
赤くて分厚い天鵝絨が檻を覆っている。
「レイデン侯。早くあの布を取って」
興奮した面持ちでブランシールが急かす。
はいはいと、丁寧にお辞儀してからレイデン侯は天鵝絨に手をかけた。
その瞬間。
フランヴェルジュとブランシールの時が止まった。
レーシアーナは唐突に明るくなった事に驚いたように目をぱちぱちとさせ、父と二人の少年に目をやった。
そして震えだす。
こんな姿を……!!
貴族の娘としての教育を受けていなくとも、五歳にもなった女児が肌を見知らぬ人間と父親に晒す恥辱は耐え難いものである事は想像に難くない。
しかもレーシアーナはエリザベッラに大切に大切に育てられていた。
嫌だ、嫌、嫌、お願い、嫌……!
「お気に召しましたか? ブランシール殿下。金の鬣に青い瞳の『ポニー』です。さぁ、鞭をおとりになって」
オルレアスは腰から鞭を引き抜くと恭しくブランシールに差し出した。
ブランシールは動いた。
鞭をひったくるなり幼いながらも渾身の力でオルレアスを打った。
「な、何を為されます!?」
「人じゃない人じゃない人じゃない人じゃないお前なんか人じゃないひとじゃない!!」
フランヴェルジュは檻に向かって走った。
鍵はかかっていなかった。扉を開き取り敢えず耳の綿を引き抜き、猿轡を外そうとする。きつく結ばれていたので手ではどうしようもなかった。仕方なく腰の短剣で紐を切った。その調子でザクザク縄を切っていくと馬具が転がるように床に落ち、素肌が露わになってきた。
これはまずい。七歳の少年にもそれは解った。
「誰ぞ! 誰ぞ侍女か女官かおらぬか!!」
すぐに侍女達が飛び込んできた。
だが皆一様に言葉を失う。
「そなた、名は……?」
フランヴェルジュの優しい声音に、少女は涙を流しながらも必死で言葉を紡いだ。
「レ、レーシ、アーナ。……レーシアーナ・フォンリル・レイデン、です」
貴族の娘がこのような痴態を晒す事など、許されない。
幼いレーシアーナはそんな難しい言葉は思いつかなかった。けれど、感覚としてそう捕らえた。
もうわたくしは貴族ではいられない。
「あれは父親か?」
泣きながら、ブランシールは今もなお鞭でオルレアスを叩いていた。顔をめがけて。喧嘩の時は鼻っ柱をぶん殴れと教えたのを覚えていたらしい。
「とうさ……いや、嫌、嫌、違う、あんな、あんな──!!」
後はもう言葉にならなかった。涙が止まらなくて嗚咽も止まらなかった。
檻の眼隠しに使われていた、広げられたままの天鵝絨を取るとフランヴェルジュはレーシアーナの身体を隠した。
「母上の親友の娘御だ。戒めを総てといて風呂へ。誰かこの出来事の報告を父上と母上に。衛兵! レイデン侯を拘束せよ。ブランシール、もういい、もういいぞ」
侍女にレーシアーナを託したフランヴェルジュは今度は弟の方に向かって走って行った。
衛兵が二人掛かりでオルレアスをがっちりと拘束していた。そこに鞭うつブランシールの息は上がっている。喉がヒューヒューと鳴り、身体全体が小刻みに震え、真っ赤になった頬は涙の跡で汚れている。
「大丈夫か!? ブランシール!! お前達、何故止めなかった!? 御典医を呼べ。今すぐにだ!」
慌てて何人かの侍女と衛兵が部屋を飛び出した。
普段温厚なブランシールの激情に人々は呑まれてしまっていたのだ。ブランシールは優しいだけではない事を知っているフランヴェルジュとは違って。
「あに……うえ。あの、子は?」
「ああ」
ブランシールに問いかけられて、フランヴェルジュは檻の方を見やった。もう娘の姿は消えていた。赤い天鵝絨ごと。
「侍女と女官達が連れ出したようだ。戒めを解いて湯を使わせるよう言ってある。後は父上と母上にお任せすればいい」
「良かった……」
「お前はオルレアスをどうしたい? お前の意見を父上母上に申し上げる」
そう言ってぎゅっと自分の手を握った兄を、ブランシールは悲しい目で見つめた。
兄上は大人の様だ。たった二つしか違わないというのに。
金の鬣、青い目のポニーを欲しがったのももとはと言えばブランシール自身の劣等感ゆえだった。幼い彼には明確にそう言葉に出来いが、何もかもをずっと先にいっている兄にせめて持ち物だけでも、何か一点だけでも自慢したかったのだ。
それがあんな少女にあんな辱めを受けさせた。
ブランシールは鞭で追うのに必死でレーシアーナがオルレアスの実の娘だとは知らない。
だからただ、こう言った。
「レイデン侯の顔を、二度と見たくない」
「解った」
「お待たせ……致しました! 両殿下。シフォルツに、御座います!!」
筆頭御典医のシフォルツが、恐らく全力で駆けてきたのだろう、肩で息をしている。
「お前まで倒れそうになってどうする。弟を頼む。俺は父上母上の許に行ってくる!」
「勿体ない……お言葉でございます。弟君の事は、お任せ下さいませ」
「任せた!!」
再度、フランヴェルジュは駆けだした。
皆が忙しく立ち回っている。
この朝の騒ぎのせいだ。
人波を縫うようにフランヴェルジュは駆けた。駆けながら今日は皆朝食を食べ損ねるだろうなとぼんやりと思った。
◆◆◆
「『ポニー』なんて、人に許された事ではないわ。あんなにも恐ろしい事を、顔色一つ変えずあの人は語るの。いえ、嬉しそうに楽しそうに語るの。殴ってどんな反応をした、蹴ってどんな反応をした、って。そしていうの。子を沢山産めって。王家に献上できる『ポニー』を産めって。そうしたら貧乏から脱出できるって。わたくし、子供は一人しか生まない。男でも女でも構わない。貧乏でも構わない。自分の子を『ポニー』になんてさせないわ。我が子をお金にかえられると思う? アユリカナ」
あの時、わたくしはそんな人と結婚する位ならうちに逃げておいでなさいとエリザベッラに言ったのだったわ。でも結婚は決まってしまったからって、両親には育ててもらったのに逆らえないってあの子は泣いて。
アユリカナは遠い昔を思い返すと溜息を吐いた。
何故わたくしは国王陛下にお願いしなかったのだろう。エリザベッラには相応しい求愛者も崇拝者も掃いて捨てる程いた筈だ。
社交界で研を競った自分だから解る。
エリザベッラの両親は何故あんな男との婚姻を推し進めたのだろう。だけれども、わたくしには止められた筈なのだ。義父上はわたくしのお願いで叶えてくださらなかった事など一つもない。
エリザベッラに相応しいこれとみこんだ男との結婚を命じて頂きさえすれば先のレイデン侯も従わざるを得なかった筈。
そうすればオルレアスなど出番がなかったのだ。
エリザベッラの近況が知りたくて、エリザベッラの家計の負担を減らしたくて、アユリカナは個人の範囲で出来る限りオルレアスを用いた。
それが、子供達にまであの男を近づける原因となった。
さっき、セルヴォン男爵が大至急だといって慣例の取り次ぎや何やらを無視して、知らせてくれた。
エリザベッラは儚くなったという。
ショック死だったそうだ。
総て、わたくしにはどうにか出来た筈なのだ。総てわたくしの責だ。
ああ、我が子を愛する母親として、我が子が『ポニー』とされる事を恐れる事をわたくしは理解できるわ!!
謁見の間で、アユリカナは爪を噛んだ。
国王リドアネも夫レンドルも自分が話をつけると言ってくれた。
だがアユリカナは、二人に懇願した。全て自分に任せてくれるよう必死に頼んだ。
義父は一つだけ条件を付けた。
アユリカナはそれを呑んだ。
その上で義父と夫を朝議に、息子を朝の日課へと送り出した。ブランシールの許には、総て終ってから見舞いに行くつもりだ。オルレアスを打ったときいて、彼女はほんの少しだけ溜飲が下がる思いがしたものだ。流石は我が子と。
ぎぃぃ、と謁見の間の扉が開いた。
「ひぎぃぃぃぃ!! あ、アユリカナ様ぁぁぁ!」
醜いだみ声だこと。オルレアスに呼ばれてアユリカナは眉をしかめた。
ずるずると、鎖で全身を縛されながら引きずられてオルレアスは呻いた。三人がかりである。その後ろに近衛兵が五人。
オルレアスが中央にまで引きずられてくると、玉座の隣に立っているアユリカナとオルレアスの間に近衛兵が並んだ。
「お許し下さいぃ! 私は殿下に喜んで頂きたかっただけです!! それだけなんです」
「だからといってメルローアの法を犯してもいいと? 人身売買はこの国では禁忌」
怒りに我を忘れそうになりながら、それでもアユリカナの声は震える事すらしなかった。
「誰からも買っておりません! あれはわたくしめの娘にございます!!」
「お前は我が子を王室に『売り』渡そうとしていたのですか。このうつけが」
ひっと、オルレアスが息をのむ音が謁見の間に鳴り響いた。
「その罪の重さを思い知りなさい」
じゃらり、じゃらりと鎖が鳴る。オルレアスが何か言おうとしているのだが言葉にならない。
「リドアネ国王陛下からのお言葉を伝えます。レイデン家は建国以来メルローアに尽くしてきた旧家。この度だけは取りつぶしを免除するとす。ただし、我が生きている間に領地から離れる事を許さじ。今日中にカリナグレイから出立し領地へ戻れ、とのことです」
オルレアスは放心したようだった。
思ったより自分に与えられた刑罰が軽かった為だ。
朝、城についた時には木馬として献上した『ポニー』がすっかりブランシールの気に入ってその関心を買い、褒め言葉を賜る事を考えていたのに、今は刑罰が軽いとほっとしている。その落差に笑いだしそうだった。
どうしてだ!? 自分の両親は『ポニー』を差し出した家の年貢を軽くし、『ポニー』が死んだ時は銀貨を一枚恵んでやったというのに。
何故今自分は罪に問われんとしている!?
「わたくしからはレーシアーナに、父親の権利を要求しない事を命じます。エリザベッラに夫としての権利を要求しない事を命じます。これは勅命として聞きなさい。破れば死あるのみです。お前達、この男をレイデン邸まで連れて行きなさい。妻殺しのオルレアスを」
「え?」
オルレアスが身じろぎ鎖が鳴った。
その鎖を三人の衛兵が引っ張っていく。
「妻殺しとは!? 妻は……!?」
「お前が殺したのですよ。今、遺体を引き取りに行かせています。もうじき、城に着くでしょう」
「エリザベッラ!! そんな、エリザベッラ!! 嘘でしょう!? エリザベッラ!!」
娘の名を呼ぶところは遂に見られなかった、と、アユリカナは思った。
「連れて行きなさい」
レイデン侯を自分が死ぬまで領地に閉じ込めておけと言ったのは義父だった。
娘を売るような男はやがて国を売ると。
アユリカナはその通りだと思う。
そしてアユリカナはエリザベッラの親友として最後に復讐した。
葬儀に出る事も同じ墓に入ることも許さない。エリザベッラの夫の権利を持たないのなら当然だ。
エリザベッラ。御免なさい。こんなことしかしてあげられない。
「エリザベッラァァァアアアアア!!」
扉が重々しく閉じられた。それでもまだ愚者が妻を呼ぶ声が聞こえて苛々とアユリカナは爪を噛んだ。
再び、扉が開いた。
今度は限りなく静かに。
侍女達に囲まれて、一輪の花が咲いていた。
「レーシアーナ・フォンリル・レイデンと申します。妃殿下」
そう言った少女は青いドレスの裾を摘んで完璧なお辞儀をした。
思わず、アユリカナの唇に笑みが浮かぶ。
この娘、エリザベッラの小さい時にそっくりだわ。
エリザベッラは大切に、あの男の影響など欠片も受けぬ完璧な淑女として娘を育て上げたのだわ。
「アユリカナよ。今日から貴女の保護者です。宜しくね。これからブランシールのところに行こうと思うのだけれども付いてきてくれる?」
「は、はい!」
自分の為に自身の背丈を遥かに凌駕する大人であるオルレアスに向かって行ってくれた方。
有難う御座います、そう言いたい。
そして運命という名のタピストリに新たな横糸が通される。




