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エスメラルダ  作者: 古都里
第1章 王はただ一人を追い求める
43/93

43 血に濡れた狂気 後編

 レイリエは最後までいう事が出来なかった。


「ふふふ、ふ、あはは、あはははははは!!」


 ハイダーシュは笑う。


 愛していたのに。

 愛していたのに。

 与えうる全てを与えようとしていたのに。


 温室の鉢植えが幾つも割れていた。

 そして、薔薇が土と共に愛する妻の死体に彩りを加えていた。


 一閃で、妻と間男を切り伏せた。

 間男が誰だか、ハイダーシュには興味がなかった。

 レイリエが自分を裏切っていたという事しか興味がなかった。

 既に命が尽きているだろう妻に更に剣を振るいながら、何故か涙が零れて止まらない。


 血塗れのハイダーシュは笑い続ける。

 その血が、どんどん冷えていき、身体に張り付く。

 血を吸った服は重い。


 レイリエの下敷きになっている間男は、ハイダーシュの目には妻が命を懸けて守っているようにも見える。間男に対してどうこうしたいと、そんな欲を抱くにはハイダーシュはレイリエを愛しすぎていた。だから、裏切られた痛みを妻に抱けども最初の一線で命を落としているであろう間男の事など考える余裕もない、憎む余裕もない。


 レイリエが顔だけをこちらに向けて、その目を見開いている。

 その顔が、憎悪の顔にハイダーシュには見えた。


 愛していたのに。


 レイリエの横腹から、内臓がはみ出していた。

 ピンク色のそれがひくひくと蠢いているのを見て、ハイダーシュはそれを引きずり出して頬擦りする。

 この臓物の名前はなんと言うのだろう?

 それだけが、レイリエの中で忠実なものであったような気がして、ハイダーシュはそれを握り締めたまま、よろよろと温室から出た。


 彷徨い歩く。


 自分を呼び出した間男からの手紙には書名がなかった。ただの悪戯だと思っていた。

 レイリエが自分以外を愛するなどという事が起こりうるはずがないと信じていた。

 だから、火にくべて燃やした。



 まさか本当に裏切られているなんて思わなかった。



「あはははは!!」


 涙が零れてくる。


 ああ、臓物の痙攣が弱くなってくる。

 永遠にレイリエが自分から去る。


「きゃああああああああああ!!」


 甲高い悲鳴が聞こえた。


 何があったというのだろう?

 だが、もう自分には関係のない事だ。

 レイリエのいない世界など、ハイダーシュにとっては何の意味もない。


 あちこちで悲鳴が聞こえる。


 人がまばらに休む庭園の中央まで歩いてきた事に、ハイダーシュは気付かなかった。

 彼の精神はもう死んでいたのだ。

 レイリエを殺した時に、彼の精神も黄泉路を辿ったのだ。


 誰かが、ハイダーシュの両脇を押えた。

 ぽとり、と、もう冷えて固まりつつある臓物が落ちる。


「ご乱心ー!! ファトナムール王太子殿下ご乱心―!!」


 衛兵が叫ぶ。

 兵達が、騎士達が、国葬の出席者達が集る。


 フランヴェルジュも、庭園に飛び出してきた。エスメラルダも、彼の後に続く。

 フランヴェルジュは声を失った。

 ハイダーシュは誰を斬った?


 大切な義妹を悼むこの日を血で穢した。

 けれど、その血は誰が流したものなのか。

 おまけに、嫌でも見える。彼が衛兵に脇を固められているそのすぐ傍らに落ちているそれは……臓器ではなかろうか。


 ハイダーシュの手から、血に塗れた剣が音を立てて落ち、野次馬の貴婦人達が悲鳴と共に次々に気を失った。


「血を辿る! 余に続け!!」


 ハイダーシュの歩いてきた道を、彼が浴びた血の滴りを頼りに辿ったフランヴェルジュは、そして、言葉を失う。

 ガラスの壁面が大破した温室に満ちる血。

 そしてそこにある銀の髪。


「レイリエ叔母上……?」


 フランヴェルジュは恐る恐る呼んだ。

 ハイダーシュが手にかけたのは己の妻だというのか?


 けれど、そこに横たわるのは彼女だけではなかった。

 誰かが彼女の下敷きになっている。


 誰? 誰だ?


 フランヴェルジュの全身から血の引く音がした。


「ブラン……シー、ル?」


 血に塗れた手が、レイリエの体の下から投げ出されている。

 その小指にはめられた指輪に、心当たりがあった。

 レーシアーナの指輪だ。


「ブランシール!! ブランシールゥゥー!!」


 フランヴェルジュは吼えた。

 破られた硝子の壁から、フランヴェルジュは身体を滑り込ませるとレイリエの身体を乱暴に引き離し、転がすようにそこから退ける。

 がしゃん! という音と共に硝子が割れ、いまやただの物体となったレイリエの身体が温室の外に転がり出た。


「ブランシールゥゥー!! うあああああ!!」


 叫び声が天をつく。

 フランヴェルジュは弟の身体を抱いて叫び続けた。


 フランヴェルジュにとってブランシールは二年遅れで生まれてきた半身のようなものだった。

 大事な大事な存在だった。

 何故、義妹を悼み弔う日にブランシールまでも喪わなければならない?


 王の慟哭を聞きながら、自然と集まった者達は言葉を発することが出来なかった。

 王がいたわしいと思う者も、ただ血に慄く者もいた。


 ただ、誰もそこに転がるレイリエの遺体に触れようとはしなかった。魂が抜け、肉塊となったレイリエに誰も関心を抱かなかったのである。

 レイリエという女の魔性はその魂が身体に宿るからこそのものだったのだろう。


 フランヴェルジュの顔を伝う涙を見ていて、フランヴェルジュを追って温室にたどり着いたエスメラルダは呆けたようになっていた。


 誰が何をしたのか確かめなくてはならない。

 ここでカスラは呼べない。

 自分の悲しみに浸る余りに、フランヴェルジュの大事なメルローアに、フランヴェルジュの大事な家族に、気を配る事をおざなりにしていた。

 なんという愚かさ!!

 カスラは命令されなければエスメラルダのため以外には動かないのに!!


 かちゃり、という音が響いた。

 フランヴェルジュが、声を上げるのを止め、ぎこちない動きでその音の原因を見やる。


 剣、だった。

 自分がついさっき持っていくようにと弟に渡した剣だった。


 血塗れの、だが抜かれてはいない、抜こうとした形跡すらないその剣をフランヴェルジュは片腕で掴むと、ブランシールの身体を横たえ、その唇に口づける。

 そして、フランヴェルジュは駆け出した。


「陛下!?」


「フランヴェルジュ様!?」


 兵や騎士の叫びを無視して、フランヴェルジュは駆ける。

 誰も追いつく事が出来なかった。

 それでも、正気に返ったエスメラルダは叫ぶ。


「陛下をお止めして! 誰か!!」


 それは駄目です……!! フランヴェルジュ様……!!


 しゃっ!! という鞘走りの音と共に剣が抜かれ、宝石煌く鞘は芝生に投げ捨てられた。


「ハイダーシュ!!」


 フランヴェルジュは吼える。

 ハイダーシュが拘束されているその場に、結局彼は誰よりも速く辿り着いた。

 辿り着いてしまった。


「その者を離せ!!」


 拘束していた兵達は、仕える主人の余りの剣幕に咄嗟にハイダーシュから手を離してしまう。

 後ろ手に拘束されていたハイダーシュの身体が前につんのめり、次の瞬間、首が胴を離れ、宙を飛んでいた。


 フランヴェルジュにもたれようとするかのように倒れ掛ってきた首なしの胴体を、フランヴェルジュは蹴り飛ばした。

 そしてその腹に剣を突き立てる。

 金の髪も、白い肌も、白い服も、何もかもが血塗れになった。

 血飛沫をあげ続けるハイダーシュの身体を、更にフランヴェルジュは切りつける。


「王!! お止め下さい!!」


「陛下!!」


 制止の声が、フランヴェルジュには聞こえなかった。

 人を殺す事をフランヴェルジュは心の底から厭うていた筈だった。

 王である以上避けられぬ死刑の執行の許可すら出そうとせず、愛する女を毒を持って殺そうとした女を殺す事が受け入れ難い、そんな自分であった筈だった。


 それでも、それでも……!


 その時、ぽんと何かがフランヴェルジュの身体にぶつかった。それがフランヴェルジュを抱き締める。

 その円やかな感触にフランヴェルジュはようやっと手を止めた。


「お止め下さい……フランヴェルジュ様」


 エスメラルダであった。

 凍りついたようにフランヴェルジュは固まる。

 理性が、息を吹き返す。


「もう、それは死体です」


 そう、フランヴェルジュが剣をつきたて続ける物は死体であった。

 何処が刺されたのか解らないほど執拗に剣をつきたてられたのは、物言わぬ死体であり……隣国の王太子であった。


 エスメラルダの黒いドレスが血を吸い上げる。エスメラルダの涙を吸い上げる。


 フランヴェルジュの中で、凄まじい速さで理性が蘇る。


「……誰ぞ、ハイダーシュの首をこちらに持て」


 その言葉に、兵は動いた。

 生首を手に跪いたものに頷くと、フランヴェルジュはその生首を剣先に突き刺し、頭上に掲げると声を張り上げた。


 戦は避けられない。それは以前からの決定事項だ。

 そして、ファトナムールの王太子は、メルローアの先の王妹である己の妻と、現国王の弟に剣を振るった。

 レイリエはどうでもいいとフランヴェルジュは思う。ファトナムールの王太子妃になったのだ。夫が彼女をどう扱うかなど、どうでもいい。


 王太子の命と、王弟の命。


 王太子を手にかけたこの国にファトナムールは牙をむくだろうが、こちらも血を流した。立太子こそしていない物のフランヴェルジュに子がいない今第一位王位継承者であるという点は、ハイダーシュと変わらない。

 此処で下手に出る事は、国としては出来ない。

 死体をさらに辱めるような真似をしたのは悪手ではあるが、やってしまった事をなかった事には出来ない。

 出来る事は、一つだ。


「余は此処に宣言す! ファトナムールに宣戦布告し、その国土を焦土と化さんことを!! 流されたメルローアの王族の血に、余は誓うものなり!!」


「フランヴェルジュ様……!!」


 エスメラルダが上げた悲痛な声は、人々のあげる声に、王の意思に従い敵を屠る事を決意したその叫び声にかき消される。


 兵たちは声を上げる。いや、兵だけではない。その場にいるメルローア人は天を揺さぶるように声を上げ続ける。


「各国の客人達は直ちに帰国し、メルローアに味方するか敵に回るか決めるがいい! 我が兵達よ、ファトナムールから来た者は老若男女問わず捕虜とせよ! 動け!!」


 正式な文書は即日、発せられた。

 そして、塩漬けにされたハイダーシュの生首と共にフランヴェルジュはファトナムールへと戦線を布告したのである。

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