42 血に濡れた狂気 中編
会場を抜け出して、回廊から庭に出る。
五月に相応しい、初夏の濃い緑の香りも、花咲き誇る風景も、ブランシールの心には何も残さない。
彼はただ、目指すべき場所へと急ぐのみだ。
会いたいと、心から会いたいと願う女の元へと急ぐのみだ。
庭の奥に、温室があった。
この庭園には幾つもの温室がある。その中の薔薇の温室。
一年中、メルローアの王族の女性が髪に薔薇を飾れるようにと様々な株を育てているその温室は幾つもの部屋がある。
四季折々の気候に合わせて花を咲かせるため、部屋ごとによって設定されている温度が違うのだ。
そこに、氷姫・レイリエはいた。
髪に飾っているのは、手折ったばかりの蒼氷薔薇と呼ばれる薔薇である。白い薔薇なのだが、その余りの白さゆえに青白く見えるその薔薇はレイリエのお気に入りだった。
きいっと扉を開ける音に、レイリエはゆっくりと振り向いた。
顔には優しいといっても構わない笑み。
「淑女を待たせすぎだわ、ブランシール」
レイリエは彼の姿を見るや赤い唇を舐めた。
「……二人同時に消えたならおかしいでしょう。少し時間を置かないと」
ブランシールが笑みを浮かべる。
暗い笑みだった。その青い瞳は底なしの悲しみを浮かべていた。
だが、レイリエはそれに気付かない。
彼女は自分に対しての好意以外を感じ取る力に欠けていた。
表面しか見ない彼女。
ただブランシールの唇の端が持ち上げられている事が彼女には重要で。そして妻を亡くしたばかりだというのにレイリエが帰国する前に逢いたいと強請られた事の方が重要で。
それはとてつもなく自惚れが過ぎるレイリエを満足させるのに充分だったのである。
「そうね、確かにそうだわ」
レイリエはそっと髪に挿した薔薇に触れた。
喪服に男は興奮すると言う。
勿論、レイリエは自分の企みがばれぬよう喪服は持ってこなかった。だが、黒いドレスは用意してあった。
胸元が大きくくられたドレスは葬儀の最中、春物の薄いケープで露出度を押えてあったが、そのケープは今は身に付けていない。
エスメラルダの死の為に用意した黒いドレス。
けれど喪服を用意する時間があったとて彼女はそれに手を通したりはしなかっただろう。エスメラルダの為にその死に敬意を示す事はなかっただろう。
一応の体裁を整える為だけのドレスだが、レーシアーナの為に着る事は完璧に想定外だった。
でも、ブランシールはエスメラルダを殺す事に失敗しても、もうフランヴェルジュが誰も娶れない状況を作ってくれるのには成功したわ。忠義なレーノックスはちゃんと毒を撒いてくれた。わたくしは段階を踏んで、もはや子を為す事の出来ぬフランヴェルジュを上手く廃嫡にもっていけばいい、手駒は多くないけれど、そのゴタゴタを上手に内乱へと導いて見せるわ。
笑顔の裏で自分の都合のいい未来を夢見るレイリエをブランシールはじっと見つめる。
ドレスの黒と対比する白い肌が艶かしかった。
しかし、ブランシールはそれを見ても、もうかつてのような劣情に襲われることはなかった。そして嫌悪感すらもなかった。
彼はもう、完全にレイリエから解放されている。けれど、それを彼女に教えてやる義理など欠片もない。
ただ、目的を遂行するだけだ。
他の感情はいらない。
「レーシアーナの事はお気の毒だったわね」
無神経に、レイリエはブランシールが本当に愛した女性の名前を口にする。
ブランシールは答えない。それを見て、レイリエは肩をすくめた。
「でも、もう一つの約束は守るわ。フランヴェルジュは貴方のものよ」
ブランシールは微かに哂った。
兄上。
その想いがブランシールから全てを奪った。
今でも兄を愛している。
だけれども、彼はもうそれに絡めとられることはない。
兄はブランシールの理想そのもの。大切で守らなければならないもの。
だが、ブランシールは兄弟愛に敬愛と信頼、希望、その他様々な心を乗せて想ってはいたが、一人の女を想い愛するその気持ちと兄への想いは全然違うもの。
何故ごちゃ混ぜにしていたのだろう。
全てを賭けて愛し守るべきものを見失う程に、自分は愚かだった。
「? ブランシール?」
怪訝そうに声をかけるレイリエを、ブランシールはそっと抱き寄せた。
その身体の柔らかさを、放つ香りを、レイリエを、感じているけれど、もうブランシールは傀儡にはならない。レイリエに対して一片の魅力も感じる事はない。
「ブラ……!!」
抱き寄せられる事に慣れているレイリエが声を上げたのは本能的なものだったのかもしれない。
けれど、その意味まで理解出来るほどレイリエは賢くはなく、大人しく腕に納まっていると、ブランシールが耳元に囁いたのだ。
「無理ですよ。叔母上」
ブランシールのその声があまりに低かったので、レイリエははっと身を強張らせる。
何だろう? 何かが違う。何かがおかしい。
何かが思ったように動いていない。
「どういう意味? フランヴェルジュは……フランヴェルジュはもう妻を選べないわ」
「当たり前です。選んだ後なのですから。婚姻の相手はただ一人きりだと貴女は仰った」
「そうよ」
ぐっと。
レイリエを抱く腕にブランシールは力を込める。
「苦しいわ。離して! 乱暴なのは嫌いなのよ!」
レイリエが抗議の声を上げた。
一体何が? 一体……!!
レイリエの心がざわめく。
ブランシールが霊園に向う前、夜明けに、レイリエのところに届けられた几帳面な走り書き。
『貴女を想うと胸が張り裂けそうだ。酒宴の席を抜け出し、薔薇の温室で待っていて欲しい』
情熱的な文句にレイリエは悪い気がしなかった。普段のブランシールなら韻を踏んだちゃんとした詩を届けるだろうとレイリエは知っている。
逢いたい気持ちが抑えきれなかったのだと彼女は単純に解釈した。
その走り書きが届けられるまでは、レイリエはブランシールが自分を恨んでいるか、少なくとも嫌っているかと思っていたけれども。
男は薄情だとその時レイリエは思ったのだった。確かに、男というものは妻をなくした翌日に新たな妻をもらう事もある生き物だ。
最愛の妻を殺させた自分を想うと胸が張り裂けそうだなんて、なんとまぁ……と、レイリエは呆れる。だがそこが可愛いのだと彼女は思ったのだった。
それなのに、ブランシールは何かがおかしかった。
「ブランシール、離しなさい!!」
レイリエは軽い恐怖に見舞われる。
男が怖いと想ったのは生まれて初めてだった。男とは可愛がり、遊んでやり、微笑みかけ、掌の上で転がすものだったから。
それなのにこれは、まるで。
反乱、だ。
「決して逃げられないようにしないと……だから、離しません」
「苦しいって言っているでしょう!! 逃げやしないわ!」
レイリエの金切り声に、しかしブランシールは淡々とした態度を崩さない。
「貴女が今までしてきた事を考えて、僕はとても自己嫌悪に陥った。貴女はあの時、『真白塔』で殺しておくべきだった」
ふん、と、レイリエは鼻を鳴らした。
「今はもう、殺せないわ。そうでしょう? わたくしはファトナムールの王太子妃なのだから。それに……貴方の身体はわたくしを抱こうとはしても殺そうとは出来ないはずよ」
レイリエのその自信には何人もの、いや、何十人もの男の人生を狂わせてきたという裏打ちがある。
「……その通りだ」
言って、ブランシールは微かに腕の力を抜いた。しかしその腕を解きはしなかった。
「『僕』は殺せない、貴女を」
しかし、ブランシールのその言葉の意味は別にある。
もうレイリエを抱きたいとは思わない。しかし確かに彼女を殺す事はブランシールには出来ない。
レイリエは未だブランシールを彼女の言葉に逆らえぬ傀儡だと思っているかもしれないが、そういう理由で殺せない訳では無い。
ブランシールがレイリエを殺せないのは彼女が『ファトナムールの王太子妃』であるからだ。
それ以上の理由などない。
だからブランシールはレイリエを殺すわけにいかないのだ。
ファトナムールとの戦争は避けられない事だとブランシールは予測している。
レイリエが如何に姦計を巡らせようが無駄だ。だが、『攻められては』ならない。
少なくとも、兄に、メルローアの民に、攻められる事を良しとする理由を与える心算はないし、与えてはならない。
ブランシールはレイリエが何をするか大体の見当はつけていた。
その為にレイリエがレーノックスを使うであろう事も考慮していた。
正気にかえってまず最初にしなくてはならないと思った事は、レーノックスの排除である。
しかしそれは奇しくも兄が既に手をうっていた。
やり方は確かにあまりよくなかったかもしれない。しかしあの程度の失策なら幾らでも挽回できる。
兄にそれだけの力が有る事はブランシールが一番よく知っている。
『攻められる』口実を作らなければ、後は。
「貴女の大事なエリファスは戦場になるでしょう」
ブランシールのその言葉に、レイリエは青い瞳を思いっ切り見開いた。
その表情が、ブランシールには小気味良かった。
どんな言葉よりもレイリエを動揺させる言葉を探した結果だが、見当違いではなかったらしい。
メルローアを戦場にしない為に動かぬ頭を懸命に使って行動しているのだが、レイリエにそんな事を教えてやる心算はない。
「戦争は、わたくしが起こさせやしないわ! 戻ります!! 戯言はもう沢山だわ!! 貴方とはもう口を利きたくない!!」
レイリエの声に混じるのは怨嗟であろうか、怒りであろうか、それとも恐怖であろうか。
歪んだ表情のレイリエは醜いと言っても良かった。
けれど、ブランシールはその醜い女を腕から離そうとしない。
もっと力を込めて抱きしめれば肋骨がきしむ音がするだろうか。
会いたくて堪らなかったレイリエ。けれど、抱きたいとは欠片も思わない女。
彼が為すべき事と信じる事の為に、彼はレイリエを呼び出し、そして……。
「何を!!」
腕から逃すまいとするブランシールにレイリエは苛々した。
虜にした手駒が氾濫する事などレイリエの今までの人生に起こり得なかった事だ。
何故、ブランシールは思うようにならないの? このわたくしに逆らうの?
訳が分からないまま逃れようと暴れるレイリエにブランシールは口づけた。
それは、ただの手段でしかない口づけだが、レイリエは暴れるのを止めた。
鐘が、鳴り響いた。
十六時の鐘だ。
それは、『待ち合わせ』の時間でも合った。
巧みな口づけに、レイリエは頭がぼうっとなるのを感じた。その口づけに欲望がこもらない事に、レイリエは気付かなかった。
こんな風に口づけてくる男はブランシール以外にいない。
硝子の割れる音がして、レイリエは目を開ける。
硝子の壁を叩き割って、ハイダーシュがその場に乗り込んできたのだ。
それこそが、ブランシールの『待ち人』
ブランシールは口づけをやめない。
ただ見せつける為に。ただ、彼と彼の憎む女に裁きを下せる存在を他に思いつかなかったが故に。
神に祈って裁きが下るなら、誰も利用する必要はなかったのだが、神はそんな願いを聞いてくれる存在ではない。
レイリエは夫の姿に瞠目する。
ハイダーシュは剣を抜いた。
ブランシールは腰の剣に手をかけようともせず、『その時』を待つ。
ブランシールがファトナムール王太子妃を殺したのなら、『攻められる』原因になる。
だがハイダーシュがレイリエを殺し、ブランシールをも殺したのであれば?
思いの成就の為にハイダーシュを利用する事にまるで罪悪感を覚えないではないのだけれど、レイリエに狂う男なら間違いなくブランシールも殺してくれるだろうと思う。
利用する事に躊躇はなかった。
他の誰もレイリエと自分の両方を殺してくれる人間はいない。
生きていればレイリエの思うように動くか、そうでなくともこの国に牙をむくことは確実であるファトナムールの王太子。
レイリエが口づけから逃れて叫んだ。
「待って、貴方!! 違うの! これは……!!」
無駄ですよ、叔母上。
ブランシールはとても綺麗に笑って見せた。




