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エスメラルダ  作者: 古都里
第1章 王はただ一人を追い求める
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41 血に濡れた狂気 前編

 国葬の後、一種の酒宴が開かれる。

 祝いの酒ではない故に恩赦はない。だが、民草へは振舞い酒が支給される。その酒は本来、フランヴェルジュとエスメラルダの祝い酒として振舞われるはずだったのだから皮肉と言えば皮肉な話だ。


 亡き人に思いを馳せて、その冥福を祈る為の酒宴は、賑やかな夜会などとは違いしめやかな空気の中で進行する。


 棺が霊園の土の下に埋められ、王城でその酒宴が始まったのは十四時からであった。随分早い時間から設けられるその酒宴は明日の朝まで続くはずであった。

 皆、料理を味わい、酒に酔う。


 そして、密やかに囁く。

 メルローアの行く末を。

 レーノックスのばらまいた毒は、彼の望み通り確かに国内外に広まった。


 エスメラルダは王妃として相応しいのか?


 そこから始まって、国の貴族の中にはルジュアインの将来を心配する者も出ている。


 メルローアの貴族達は、変貌したフランヴェルジュに恐れを抱いていた。

 レーノックスを牢に突っ込んだそれは、とても彼らが慕ってきた賢君の仕業とは思えなかった。

 恋で狂う男なのだと周囲は思ったのだ。

 そしてその男に王冠を戴かせる事が果たして正しいのかといった事まで意見として出ている。


 ただ一度の暴挙に貴族達が此処まで突き詰めて考えるのにはレーノックスのばらまいた毒の威力だけでなく、今までのフランヴェルジュがあまりに完璧であったが為であろう。

 フランヴェルジュに理想を重ねすぎた者達は、王であれども人でもあり、時に間違いを犯す事、感情に引っ張られる事を容認できないでいるのだ。


 国外の貴賓達は、式の不吉さにエスメラルダを恐れた。花嫁は呪われているのではないかと思い、それを裏付けるようにレーノックスはアシュレ・ルーン・ランカスターがエスメラルダとの婚礼直前に他界した事を吹き込んだ。


 ちびり、と、ブランシールはゴブレットの中の酒を舐めた。


 酔うわけには行かなかった。

 自分にはやるべき事がある。そう思い、彼は唇を噛み締める。

 

 そんなブランシールに人々が悔みの言葉を投げかけた。

 優しく綺麗な言葉を聞きながら、ろくにレーシアーナの事を知りもしないくせに、と、ブランシールは思う。そんな内心を隠し、悔む言葉に礼を言う。


 しかし、自分は彼女の事をどれだけ知っていたのだろう? 一体どれだけ?


 ふと湧いた疑問に、ブランシールは眉を寄せた。何も解っていなかったのかもしれない。


 ブランシールの眉がひそめられた事に気付いた人々は慌てて口をつぐんだ。

 慰めの言葉すら、傷に塩を塗りこむようにブランシールには感じられるのではと、そう思ったからだ。

 麗貌によぎる影がもたらす、ぞっとするまでの美しさは同性であっても息を呑むほどのものであるが故に、余計にブランシールの痛みが伝わってくるような気がした。

 実際に彼が抱いている痛みは、ただ妻を喪ったというだけでなく、その妻を殺めたのが自分であるという、立っているのもやっとなほどの深く鋭く激しいものであったのだが。


「失礼致しました」


 ブランシールを取り巻いていた貴族のうち、一人があわてて言った。


「不用意な言葉でした……申し訳ありません。王弟殿下」


「大丈夫……一寸、風に当たってきます」


 そう言うと、ブランシールは手をひらひらと振った。そして軽く頭を下げ、人混みをかき分ける。

 向かうは兄の許。


 白い長衣の裾がはためく。踵が音を鳴らす。

 誰ももう、ブランシールを引き止めなかった。そんな事ができよう筈がなかった。


 ブランシールの瞳が兄を捕らえる。


 フランヴェルジュは人々に取り囲まれて、レーシアーナの思い出話をしていた。

 如何に悪い噂が立とうとも、怖れを抱こうとも、フランヴェルジュという人間は人々にとっての甘い蜜のような存在だった。堪らなく惹かれ焦がれるもの。彼の魅力は、抗いがたいそれである。

 目頭をハンカチで押えながら、フランヴェルジュの話に聞き入る人々。そのハンカチは飾りではない。そして彼らはレーシアーナの為だけでなく、彼女を亡くした義兄の為にも泣いている。


 ブランシールはほっとした。

 これなら、大丈夫だ。


 フランヴェルジュが落ち着きを取り戻し、政務に没頭すれば、誰も影口を叩くものはいなくなるであろう。

 フランヴェルジュの魅力ゆえに、人々は彼に屈服するであろう。喜びを持って。


 そのフランヴェルジュの隣に、エスメラルダが落ち着かない気持ちを必死で隠そうとしながら立っていた。泣き出したいのを必死に我慢しながら、それでも前を向いているエスメラルダ。


 本当は、エスメラルダは此処には居たくないのだと、ブランシールには痛いほど良く解った。


 彼女はきっと、ブランシールの次にレーシアーナを喪った事でダメージを受けている。レーシアーナが身代わりとして死んだ事に罪悪感を欠片も抱いていない訳では無いだろう、けれど、それよりもエスメラルダはレーシアーナの死そのものを悲しんでいる。


 ブランシールにとって、レーシアーナの代わりがいないように、エスメラルダにとってもレーシアーナの代わりはいないのだ。


 レーシアーナがどれ程エスメラルダの話をしていたか、ブランシールはよく覚えている。

 親友、と、その言葉だけでくくるのはどうであろうと言うくらい、レーシアーナはエスメラルダを愛していた。

 出逢ってそれほど経ってもいないのに何故そこまで愛せるのかと言うほど、レーシアーナはエスメラルダを愛していた。そして、彼女の会話から推測するに、エスメラルダもまた彼女を深く深く愛していた。

 故に、エスメラルダが味わっているであろう喪失感は、きっととてつもないものであろうと、ブランシールには想像がつく。


 それでもそこにいるのは、今逃げたなら二度とフランヴェルジュの隣に並べなくなるという事、悲しみだけでなく周囲からの誹謗に負けた事になるという事を、エスメラルダは知っているのだろう。


 気丈な娘だ。

 メルローアの玉座に相応しい娘だ。


 背を伸ばし前を見詰めるエスメラルダの瞳は涙の膜の所為で、いつもよりより鮮やかに輝いている。 


 ブランシールは不思議と、エスメラルダが死ねば良かったのに、とは思わない。

 エスメラルダが死んで、レーシアーナが取り残されていたら、……操られるままの傀儡だった自分はその事を考えようとしなかった。

 けれどもし、自分の策略通りに全てが進んでいたならば、心を添わせたいと思った兄の絶望より、レーシアーナがどれ程の痛みを覚えるか、いや、壊れて粉々になってしまいやしないか、そう思うのは恐怖だった。

 

 頭がまともに動くからだろうか、レーシアーナがレイリエの呪縛を解いてくれたからだろうか、それは解らない。解らないけれど、そういう仕掛けを作って殺そうとした、なのにエスメラルダが今生きている事を安堵と共に受け入れている自分がいる。


 自分がやろうとしたのは、レーシアーナの心を殺す事であり、それが実現しなかった代わりにレーシアーナを永遠に喪う事になった。


 理解したとて、時計の針を巻き戻す事も、死んだ人間を呼び戻す事も出来ないけれど。


「兄上」


 ブランシールが声をかけると人混みが割れた。その隙間をぬって、ブランシールは兄の許に行く。

 フランヴェルジュが片眉を上げた。


「どうした? ブランシール」


「少し、風に当たってきます」


 兄の問いかけに、ブランシールは簡単に答える。


 そろそろ『時間』だ。


「そうか」


 フランヴェルジュは素気ないと言ってもいい返事をした。

 フランヴェルジュは義妹を失った悲しみだけでなく、自分が愛した少女を守らなくてはならなかったのだ。


 きっと兄上は氷姫がこの会場にいないことにもお気づきではないだろう。


 ブランシールは兄が自分とは違い愛する娘を守ろうとしている事に安堵した。

 自分はレーシアーナを守ってやったことがあるだろうか?

 頭によぎった疑問に、ブランシールは即答する。自分はひたすらに守られている人間だった。


 兄が守ろうとしている娘を見やった。

 彼女が兄の隣に立つ事を、玉座を分かつ事を、自分は心の底から望んでいた。そして、今もだ。

 

 だから、申し訳ないとは思うけれど、僕は貴女を逃がすわけには行かない。

 最後の足掻きは許して欲しい。


「『義姉上』、ルジュアインを『頼みます』」


 こくりと頷いたエスメラルダには知りようがなかったであろう。それが遺言であるとは。

 

 エスメラルダが頷いた事でブランシールはほんの少し安堵する。

 他の誰でもない、エスメラルダに、ブランシールは妻の遺した大切な子供を頼みたかった。


 踵を返そうとするブランシールの背に、フランヴェルジュが声をかける。


「剣をもっていけ。今日は人が多い。警備のものもいるが混乱に乗じようとするものもいるやもしれぬ」


「今日は帯剣しては……」


 困ったようにブランシールは言った。


 葬儀にあたり帯剣など考えてもいなかった。

 当たり前である。

 ブランシールには己の身を守る事などこれっぽっちも念頭になかったのだから。


「ではこれをもっていけ」


 フランヴェルジュは自分が下げている剣を弟に差し出した。

 宝石が鏤められた、儀式用の宝剣。

 国王の持つ、国宝である。

 常に身に着ける実用性の高い剣ではない、国宝たるその剣をフランヴェルジュが帯びているのはレーシアーナへの敬意を表す為。

 けれども、飾りではない。


「兄上、何を酔狂な……この剣は……」


「身を守る事が出来るという意味では普通の剣と何の違いもない。もっていけ。余の命に逆らうでない」


 ブランシールは泣きたくなった。

 フランヴェルジュはブランシールがこれから何をしようとしているのか、まるで気付いていないのだ。


 この剣を身に帯びる資格など僕には……。


 それでも、ブランシールは押し戴くように剣を受け取った。

 決して引かぬであろう相手と言い争う時間も惜しい、そして、その気持ちが有難いという想いもある。


「有難うございます、兄上」


 フランヴェルジュが顎をしゃくり、ブランシールは今度こそ踵を返す。

 

 有難うございます、兄上。


 その一言に、ブランシールは沢山の想いを込めた。

 生まれてからこの瞬間までの感謝を全て込めた。


 本当は懺悔の言葉を連ねるべきなのだろう。

 そして残りの命を贖罪に使うべきだのだろう。

 だが、王族として生まれたブランシールは全ての罪を吐いたところで生涯幽閉される未来しかない。

 それで罪が贖えるなどと思える程頭はお花畑ではなかった。


 だから、自分の裁き方は自分で決める。


「『義姉上』……」


 去っていく背を見送りながら、エスメラルダはか細い声で反芻した。





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