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エスメラルダ  作者: 古都里
第1章 王はただ一人を追い求める
38/93

38 足搔きの絡繰

 夫の横に身体を横たえながら、レイリエは忙しく頭を働かせていた。

 まだ夜が始まったばかり。なのにハイダーシュは、今日の婚礼の席での惨状故に、何度も嘔吐し、その後は疲れて眠ってしまった。

 なんと頼りない男であろう、と、レイリエは思う。

 たかだか血に酔うなんて。


 それが普通の感覚であることがレイリエには解らない。レイリエはただ、残念に思うだけだ。エスメラルダが死ななかった事を。


 アシュレ・ルーン・ランカスター絡みの恨みも勿論あった。しかし、レイリエはそのためだけにあの日の午後、ブランシールを唆したのではなかった。


 あの日、を、思い出してレイリエの顔に微かに笑みが浮かぶ。

 たくましい身体を思い出し、ほんの一瞬、彼女の顔に情欲の炎がついた。


 ハイダーシュとは何もかも違う。ブランシールは女の扱い方を心得ていた。とりわけ、レイリエの悦ぶやり方を心得ていた。

 それはブランシールがレイリエを讃えていない事。

 先代の王、兄であるレンドルですらレイリエを讃えていた。心からアユリカナを愛していたというのに。

 だが、ブランシールはそういったところがなかった。

 最愛のアシュレとそっくりの顔で、アシュレのように彼女を讃えず、それなのにアシュレとは違いレイリエを抱くブランシールを、レイリエは愛しているといっても構わないかもしれなかった。レーシアーナに嫉妬はしなかったけれども。


 そう、何故レーシアーナは邪魔をしたのかしら? あの侍女風情が。


 また、レイリエの顔に苦々しい色が浮かぶ。


 レイリエはエスメラルダの死を利用し、内乱を起すつもりであった。

 レーノックスを使い、ルジュアインを擁立させ、フランヴェルジュを廃嫡に追い込むための内乱。

 そこにファトナムールを介入させ、この後子を授かる予定のないフランヴェルジュを追いやり、ブランシールを立てる為に動かし、その見返りを受け取るつもりだった。


 たとえどんなにブランシールがフランヴェルジュを愛していても、国の動きにまで逆らえない。そして、レイリエはこっそりと仕掛けをすればいい。フランヴェルジュにその花嫁を殺した下手人を知らせるための仕掛けを。

 

 きっとあの男は激昂するはず。

 全て上手く行くはずだったのに。


 エスメラルダさえ死ねば。


 内乱となれば舞台は王都カリナグレイになるであろう。で、あれば、簡単に考えてエリファスが受ける被害は最小で済む筈であったのに。


 忌々しい小娘。


 思って、しかし、レイリエは何とか事態を自分の思うがままに持っていこうと画策する。


 まだだ、まだ諦めない。

 大体、まともにファトナムールとメルローアが戦争になったら、ファトナムールが負けるに決まっているのに何を愚かしい事を考えているのだろう、夫といい舅といい、馬鹿としか言いようがない。

 エリファスに火の粉が降りかかる。

 ファトナムールは負け、レイリエは殺される。ロウバー三世に殺されるか、フランヴェルジュに殺されるかは知らないが、どう転んでも彼女は殺されるであろう。

 面白くない未来だ。

 そんな未来を容認できない。


 それに、ブランシールが国王となったならば、彼はレイリエには逆らえないであろう。

 その心はともかく、身体は。


 レイリエはその事に関しては自信があった。

 だから、ブランシールがこの国の玉座に昇れば、わたくしはこのつまらない夫と離婚して、メルローアに戻れるかもしれない。


 それはレイリエの甘い夢。

 命をとって彼女はメルローアを出たが、それでも、彼女はファトナムールを愛せなかった。ファトナムールの美質である質実剛健もレイリエから見たならばただの貧乏臭い人間の戯言にしか聞こえないし、見えない。

 そして、ハイダーシュへの失望。


 わたくしの手駒はレーノックス。

 それしか今のレイリエにはない。


 だが、宰相レーノックスは今日の悲劇の……喜劇のような悲劇の為に忙しくしているだろう。直接は会えない。

 それに鬱陶しい事限りない夫が、レイリエの近くにいる。


 だけれども、寝物語として聞かせなくとも、レーノックスはわたくしの為になら命をも差し出す筈だわ。


 それほどまでに、レイリエはレーノックスを虜にしている自覚があった。

 だけれども彼をどうするか。


 本当、あの卑しい女の所為で目茶苦茶よ、あんな喜劇の……喜劇の。


 不意に、レイリエの唇に笑みが浮かんだ。

 喜劇。あれはもしかすれば最高の喜劇。


 衣擦れの音を立てて、レイリエは寝台から起き上がると、侍女の控えの間に向かった。

 頭の中を、凄まじい勢いで計画が繰り広げられる。


 女の浅はかさ、その場限りの思い付き、浅知恵。

 けれど、そんなものが歴史上、一つの国を滅ぼした事など、幾らでも先例がある。


 レイリエは、諦めるわけには行かない。

 愛する男が大事にしていたあの緑為す大地、あれだけは守らなければならない。

 もうアシュレはいないのだ。

 レイリエが縋りつけるものはアシュレの思い出だけなのだ。

 だから絶対にレイリエは諦めない。無様だろうが知った事ではない。


 ただ、アシュレへの愛の為にレイリエは諦められないのだ。


 兄は雪嵐の日に死んだ。敗れたヴェールで婚礼を挙げるわけには行かないと飛び出していった兄。愛しいアシュレ。

 何故、あんな嵐の中に飛び出してまでエスメラルダとの婚礼に拘られたの?


 貴方がそんな風にわたくしを愛してくれていたならば、あの花嫁衣裳をこのわたくしの為だけに用意し妻として求めてくれたのなら、なんだってわたくしは出来たわ。

 でも貴方はわたくしを視界にも入れようとしないから、だからわたくしはあのヴェールを引き裂く他なかったの。


 破れたヴェールの為にアシュレが命を落とす事を知っていたならば、レイリエはそんな罪を犯さなかっただろうか?


 否だ。


 わたくしの物にならないのなら、他の女を愛するなら、わたくしは許せない。

 けれど兄様、わたくしのアシュレ、エスメラルダさえ現れなければ貴方はきっと誰も愛さず一生わたくしと一緒に暮らしていたに違いないの。

 だからあの女が全ての罪の元凶よ。

 あの女の所為で貴方がおかしくならなければ、わたくしはきっとそばにいられるという事に満足しておいて死んだのに。


 今はもう、アシュレは思い出を辿るか幸福な夢でしか出会うことは出来ない。

 レイリエのエリファスへの妄執は、レイリエを支える力だった。


「フィオーナ」


 ファトナムールで見つけた腹心の侍女の名を呼んだ。

 フィオーナは十七歳の、レイリエと歳の近い侍女。そしてレイリエを愛するが故に決して裏切らない、同性愛嗜好の娘。


「はい」


 フィオーナは愛らしい声で返事をした。


 この娘にならば、わたくしの代わりが勤まるわ。


 にっこりとレイリエが笑むと、フィオーナは頬を赤らめる。


 他の侍女は二人しか控えていなかった。

 質実剛健、の、ファトナムールのしきたりに感謝しなくてはならないとレイリエは思った。


「エイル、ローディラ。席を外して頂戴。フィオーナには罰を与えなくてはなりません。この娘がした無礼を思い出したものですから」


 びくっと、フィオーナは身をすくめた。

 レイリエが侍女を鞭打つのはよくある事だったからだ。しかも、レイリエは侍女達に見せ付けるようにしてそうするのが好きだった。

 エイルとローディラと呼ばれた侍女達は好奇心を抑えきれない顔をしている。

 見せられない程残酷に鞭打たれるのかしら? そんな酷い事をしたのかしら?

 朋輩に対する思いやりよりも、興味が先にたってしまったその侍女達を見て、レイリエは溜息をついた。


 ローディラは勇気を出して言う。


「お見せくださらないのですか? 妃殿下」


「……好奇心は猫をも殺すものよ。わたくしが鞭をとってくるまでに残っていたなら、不服従の咎で、まずお前を鞭打つ事にするわ、可愛いローディラ。エイル、お前もよ」


 二人の侍女が身を震わせるのを見て、レイリエは哂うと、一旦寝室へと引き返した。鞭を取るふりをして、彼女は寝室に活けられていた白薔薇の蕾を一本、花瓶から抜き取ると控えの間に戻る。


 エイルとローディラは姿を消していた。

 それを確かめて笑みが浮かんだレイリエの視界の端で俯き、震えていたフィオーナがレイリエの足元に駆け寄ると跪き、彼女の上履きに口づけた。


「どんなご無礼をしてしまったのでしょう!? お許し下さい!! レイリエ様!!」


 『妃殿下』ではなく『レイリエ様』と呼ぶこの侍女が、不意に、可愛らしく思えた。


 この娘も大事なわたくしの手駒。


 そっとレイリエは膝を曲げると、フィオーナの顔を、手に持つ白薔薇の蕾で撫でた。


「可愛い子ね」


 驚いたようにレイリエを仰ぎみたフィオーナの唇を、レイリエは塞いだ。


 女の唇は、男の唇より柔らかく弾力がある。

 何もかも違いながら、しかし、女の唇という物もまたとても蠱惑的なものなのだとレイリエは知った。

 それを味わい、舌を差し入れる。

 フィオーナは目を見開いたまま、慕い続けてきた女主人の突然の行動に、ただ驚く。


 唇が吐息と共に離れ、唾液が後を引いた。


「可愛いフィオーナ」


「レ……イリエ様……」


 フィオーナの栗色の巻き毛が揺れた。細くて薄い肩が上下している。

 あらまぁ。女もそう悪くないわ。


 きっとフィオーナの心臓は小鳩のそれのように激しく鼓動をたてている。

 可愛らしいこと、なんて可愛らしいわたくしの手駒。


「お前はわたくしを愛しているのよね? フィオーナ」


「は、はい。勿論です!!」


 フィオーナの声が上ずる。


「だったら、わたくしのお願いを聞いてくれるわね?」


 レイリエは膝を突いてフィオーナの顔を、その鳶色の瞳を真っ直ぐ見詰めた。

 こくこくとフィオーナは頷く。そのフィオーナにレイリエは持っていた蕾を握らせた。棘を抜いていないその薔薇の茎に、フィオーナの血がにじむ。

 けれどフィオーナが覚えるのは歓喜。侍女としてレイリエに仕えるようになったその日から彼女は主人からの寵愛をひたすらに思い続け、そして今、それが叶ったのだ。


「わたくしに出来る事でしたら……どんな事でも致します。この身の愛を示して見せます」


 フィオーナの口から漏れた心のままの声。

 忠誠ではなく、愛を。


「いい子ね。じゃあ、お前は今夜だけ『娼婦』の『リリエ』になって、その『白薔薇の蕾』をメルローア宰相、レーノックスに届けて頂戴。これからわたくしが書く手紙と一緒にね」


 『娼婦』『リリエ』『白薔薇の蕾』はレイリエとレーノックスのキーワード。


「見事役目を果たしたら、わたくしが、ベッドの上でご褒美を上げてよ、フィオーナ」


 フィオーナは、恐れと喜びに魂を震わせ、頷いた。

 



◆◆◆

 深夜、レーノックスが異国の侍女の処女を奪い、涙にくれるその娘をおいて書斎で手紙を読んでいる頃、アユリカナはバジリルと話をしていた。


「そう、シャンデリアに仕掛けがしてあったのね。お前達は、この国の妃を守る役目がありながら、それを見落としていたのね」


 アユリカナの声は重く、低い。


 フランヴェルジュにその報告を知らせるべきだろうか? 迷うが、アユリカナの心はすぐに否の答えを出す。


 今のあの子には、駄目だ。


 まともな思考でまともな判断が下せる状況ではない。ならば、この件はわたくしが片をつけるしか、ない。


「平に、平に、ご容赦を……!!」


 バジリルは土下座をし、なおかつその頭を石の床に何度も打ちつけていた。

 血が滲んできたその額に、しかし、アユリカナも今は思いやりがもてそうにない。


「この国が、メルローアが、何を失ったのか、考えて御覧なさい」


 冷たく、アユリカナは言い放つ。

 レーシアーナが死んだ事は取り返しがつかない。

 それに、もしかしたなら、『血杯の儀』を済ませた、エスメラルダが死んでいたかもしれなかったのだ。


 アユリカナにとって、レーシアーナもエスメラルダも変わらない。息子が選んだ女性であり、自分の娘と呼ぶに相応しい美質を二人共に持っていた。

 だが、メルローアという国にとっては違う。


 レーシアーナは『王妃』ではないのだ。


「この事の決着がすみましたならば、この首掻っ捌いてお詫び申し上げまする……!!」


「うつけが!」


 アユリカナの声に怒号が混じった。


「命で命が償えると思うか!! その考えを愚かと言う!! そなたの首で償えるものではない。そなたが死んでレーシアーナが生き返ると言うのならば、わたくしはとうにその首を刎ねておる!! 生きて、尽くせ! 血の一滴まで捧げ、王家に尽くすのが唯一の贖罪!!」


 空気が震えたような気がした。


 バジリルには不意に解ってしまう。


 怒りながら、王太后は悲しんでいる。

 本当は、彼女は誰よりも優しい。


「はは!!」


 ばん、と、バジリルは床に額を打ち付けるとその顔を上げた。

 流れる血がまるで血涙のように肌を伝う。赤い血で邪魔された視界のまま、バジリルはアユリカナを見つめた。


 そのアユリカナは、きっと拳を握り締める。

 アユリカナが取り乱すという事は、最悪の事を招きかねない。目の前にいるのがバジリルだったから良かった。忠誠を誓いそれを示しながらもアユリカナを絶対的に信じられる大地か何かと勘違いしている者達とは違うバジリルだから、取り乱してもただ醜態を見せてしまったというだけで終わる。


「……取り乱しました。すみませぬ、バジリル。王は、如何に?」


「華燭の典の後始末と国葬の準備でお忙しく働いていらっしゃいましたが、疲労の色濃く見受けられましたので、侍女がもつ茶に、眠り薬を。此方に伺う直前の事。もうお休みになられていることでしょう」


「……そう、ですか」


 エスメラルダがどうしているかは、アユリカナは聞かなくても知っている。

 『真白塔』に戻ってくる直前まで、一緒に居たのだ。


 エスメラルダは、今はレーシアーナの遺体に付き添っている。

 血はレーシアーナが喜ばないと説得すると、着替えはした。黒いドレスは、ランカスターが死んで喪に服している時のドレスであった。


 そう、あれから恐ろしく時が経ったような気がしたのに、よく考えたなら一年かそこら。エスメラルダは体型も変わってはいなかった。

 そして、彼女は今涙も流さず、レーシアーナの側でルジュアインを抱いている。


 乳の出る女はアユリカナが大急ぎで手配したのだが、その乳母に、授乳の時以外、エスメラルダは赤ん坊を抱かせなかった。


 レーシアーナは白いドレスに着替えさせられ、棺に横たわっている。

 防腐処理が施され、霊廟に祭られるのは王のみ。レーシアーナは王族の眠る霊園に埋葬される。


 レーシアーナの親族であるレイデン侯爵家からは、何の言葉も無かった。


 子供を残して逝くなんて、どれ程辛いことだったでしょうね。


 アユリカナは思う。子供達が大きくなってその手を離れても、子供は子供。変わらず愛しく、大事で、心配の種。ましてやルジュアインは赤ん坊なのだ。


「ブランシールは……?」


 アユリカナは我が子の事に思考を戻した。


「……意識を取り戻されてからは、変わらず」


 バジリルの答えに、アユリカナは泣きたくなった。

 ブランシールは惚けたようにレーシアーナの寝間着を抱き締めたまま、一言も発さないのだと言う報せは受けていた。

 こんな未来を一年前の自分が想像出来ただろか?

 いや、一年前には考えもつかなかったし、昨日の自分などはただただ幸せな未来しか思い浮かべられずに浮かれ切っていたではないか。


「……信じましょう。主の紡がれる運命が、子供たちに優しくあるようにと」






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