37 喪失と枕辺の謀り
肩と脇腹にぶつかってきた衝撃が何なのか、突然の事にエスメラルダは何もわからないままただ思い切りフランヴェルジュを巻き添えにして倒れこんだ。
そして彼女は、ぶつん、という不吉な音を聴く。
そして、空気を裂く音に続いての音!!
落ちる音、ぶつかる音、くだける音、反響する音、何かが潰れる音───!!
エスメラルダには何が起きたのか解らない。
解らないけれど、けれど理解せねばならない。
だが、しかし。
一体何が起きたというのだろう?
混乱しながらもエスメラルダは体勢を立て直そうとする。
フランヴェルジュも、身体をよじる。
そして、見た。
エスメラルダが立っていた場所に落ちているシャンデリア。
そして、その下に……!!
殆どの蝋燭が、恐らくは落下の時の風圧で消えていた。
一本だけ、エスメラルダの足元から拳二つ分はなれたところに転がり、絨毯を焦がしていた。そのうち火がつくだろう。
だが、そんな事はエスメラルダにはどうでもよかった。
それよりも。
エスメラルダのトレインは、引き摺っている部分の三分の一ほどがシャンデリアの下敷きになっていて。
そして、そこに、手の甲半分と、そこから伸びる指が、乗せられていた。
白い指は血塗れで。
それなのに、磨き上げられた桜色の小さな爪の色が何故かエスメラルダの目から離れなかった。
真白な婚礼衣装が、その手の持ち主が流す血を吸い上げる。
手から少しはなれたところに広がる、赤に塗れながらも鮮やかな金。
『彼女』の身体が、シャンデリアに覆われていないところは、その手の先と頭の先のみ。
その爪を磨くのを手伝った事があった。
その髪を梳り、その見事な金色に憧れた事があった。
「………ブ……さ、ま……き……」
沈黙の帳を、開いたのは『彼女』だった。
ブランシールさま、すき。
彼女が遺した最後の言葉。
「レーシアーナ……!!」
エスメラルダが呼んだ。
その刹那。
「いぎゃああああああああああああぐあああああああああああうううあああああああ!!」
獣の咆哮のような叫びが、『誓句の間』を満たす。
それはブランシールの、魂の叫びだった。
彼は、世界を失ったのだ。
足元に大切な兄がいた。
自分が殺そうとしたエスメラルダがいた。
だが、ブランシールには何も見えない。もう何も聞こえない。
ただ、喪失の痛みに魂が声を上げるのだ。
きっとそれは何より大切なもの。
それを彼は自らの手で、壊したのだ。
「レーシアーナ、レーシアーナ、レーシアーナ、レーシアーナ……」
エスメラルダは呼び続けている。
呼べば、今までレーシアーナはエスメラルダを無視した事などない。
怒っていようが呆れていようが、レーシアーナは必ずエスメラルダに応えてくれたのだ。
いつも、エスメラルダを真正面から支え、初めて友という物がくれる愛を教えてくれたのは、レーシアーナで。
壊れたからくり仕掛けのように、ただ、親友の名前を呼んだ。呼び続けた。
自分で選んだ、自分の初めての友達。
きっと血より濃い絆で結ばれていると信じた親友。
エスメラルダは手を伸ばす。
その身体を、フランヴェルジュが押えるが、エスメラルダはそれを跳ね除ける。
手の指に触った。
エスメラルダの長手袋が血に染まる。
その温もりが、手袋越しに伝わってくる。
フランヴェルジュは、必死でエスメラルダの上半身を抱き締めた。彼女までが何処かへ行ってしまう恐怖に戦き。
それでもエスメラルダの手はレーシアーナの手から離れなかった。
何故?
何故?
何故?
頭の中で問いがループする。
ブランシールの声が、五月蝿かった。
「神殿騎士!! 国王と花嫁の無事を確認せよ!! 御典医!! 王弟に鎮静剤を!!」
声を張り上げたのは、アユリカナだった。
そのまま、彼女は背筋を伸ばし、ドレスの裾を蹴捌くようにしながらレーシアーナの許に向かう。
その声に、びくん! とフランヴェルジュの身体が跳ねる。
国王である自分を忘れていた。
ただ、義妹に起こったことと、そして、その事柄がもしかしたならば自分の最愛の女性に起こったかもしれないという事に、我を忘れていた。
アユリカナの命令は、本来であるのならば国王たる彼が下さなくてはならないものだった。
神殿騎士達が、慌ててフランヴェルジュとエスメラルダに駆け寄る。
王室御典医が、ブランシールの元へと急ぐ。
「あ……」
マーデュリシィが、息を呑んだ。
火の爆ぜる音がしない事に、何故、今の今まで気付かなかったのであろう?
聖火から火を分けた篝火が、七つ、全て消えていた。
その不吉さがマーデュリシィから思考を奪う。
主よ、主。お答え下さい。これは何の呪いでしょうか?
立ち尽くすマーデュリシィをよそに、周囲はどんどんと動く。
神殿騎士達が、六人がかりでシャンデリアを持ち上げた。
その下から出てきた肉体は、シャンデリアの重みに潰され、とうに息絶えてはいた。
悲鳴一つ上げなかったレーシアーナ。
ただ、逝く時に愛する男の名を呼び気持ちを置いて逝ったレーシアーナ。
だが、その惨状は殆どが目に付かない。レーシアーナが死に装束として選んだ真紅のタフタは、その流れ出る血液すら、殆ど目立たせる事はなかった。
エスメラルダがフランヴェルジュの腕の中で気を失う。
御典医が、ただ声を上げ、動くことも出来ないでいるブランシールの腕に注射器をつきたてた。それは強烈な麻酔だったのだろう。どさり、という音と共に、ブランシールの身体が倒れこむ。それを御典医が受け止めた。
「大祭司!」
レーシアーナの枕辺に跪き、その頬を撫で、アユリカナは呼んだ。
レーシアーナの身体は神殿騎士の一人がうつ伏せだったのを仰向けにしたのだった。
「王弟妃の為に、……祈りを」
その瞳は涙で濡れている。
アユリカナにとって、レーシアーナは大事な大事な嫁だった。娘だった。
だが、もう……。
マーデュリシィは祭壇から走るようにレーシアーナの許に向かった。
魂がもう黄泉路を辿っている事は、巫力という種類の魔力を持つマーデュリシィにははっきりと解る。その魂の平安を祈るのは、大祭司という地位にある彼女の役目だった。
血溜まりの中、マーデュリシィが跪き、祈りの言葉を紡ぐ。
「可愛い子。お休みなさい」
そっと、アユリカナは大事な娘に囁いた。
アユリカナのドレスは、血に塗れている。レーシアーナの血は、枯れる事を知らないホトトルの泉のように溢れて、止まらない。
舞台の上の王族たちや、貴賓席に座る各国の貴賓達が言葉を思い出したように囁きを交わし始めた。
誰も予想のしていなかった惨事に、祈りよりも混乱が唇から漏れる。
アユリカナは顔を上げた。
「王よ。式の中止を告げられよ」
発せられたその言葉に、フランヴェルジュは漸く頷いた。
腕の中のエスメラルダを神殿騎士に一旦預けると、フランヴェルジュは立ち上がる。
フランヴェルジュは周囲を睥睨し、溜息を吐くように重い口調で言葉を発した。
何が起きたのかを考えなくてはいけないのだろう、それが王という物なのだろう。
けれど、今のフランヴェルジュは、王であることは出来ない。
まったく予想していなかった命の喪失、可愛いと思い本物の妹のように愛でていた義妹の喪失。
頭がおかしくなったのだろうかとも思うし、悪い夢なら醒めて欲しかった。
けれど、夢ではないようだ。
幸せを祈り未来を誓うはずの今日、彼女は失われた。
「我が婚礼を祝う為に集ってくださった皆々様にこのような事を申し上げるのは心苦しいが、神の悪戯か、このような仕儀に相成り申した。式の中止をここに宣言し、皆様には深くお詫び申し上げる。そして心より願い伏し奉らん。我が義妹へ、優しき祈りを」
婚礼の祝福が、神の御許へと向かう旅路への祝福になるなどとは、一体なんという皮肉だろう?
そしてフランヴェルジュは思い出す。控えの間に来た時のレーシアーナの笑顔。そして言葉。
まるで遺言ではないか、レーシアーナよ。
人々の囁きが祈りへと変わる。
気付けばフランヴェルジュも泣いていた。
◆◆◆
あの日。
何故自分はこの女を抱いているのだろうと思いながらブランシールはレイリエを抱いていた。
苛立ちを、嫌悪と共に持つ憎悪を、この世のありとあらゆる負の感情を抱きながら、身体が勝手に抱きたくもない女を抱く。
操られた様に逆らうことも出来ずにそうするしかない男の動きに合わせてレイリエは腰を振っていた。
汗をかいた身体は、しっとりと吸い付くようだった。
麝香の香り。
レイリエの上げる声。
囁くように悲鳴を上げるようにブランシールの耳に響く。
そうして、気づけば心はただ憎しみのみの色に染まり、殺してやりたいと思いながら、ブランシールは果てる。
憎しみは、レイリエと、そんな彼女を抱いてしまう彼自身に向けられたもの。
何故、この女に逆らえない?
何故、この女が願うとおりに自分は動いてしまう?
ブランシールは自問するが答えは出ない。
シーツに突っ伏した彼の背中を、レイリエの長い爪が這う。それはまた新たな欲望を生んだ。
だが、ブランシールは一言も発せず、黙って溜息をシーツで隠す。
駄目だ、駄目だ、駄目だ。
レイリエの爪は肩甲骨を這い、肩をなぞった。
くすくすと、彼女は笑い声を上げる。その笑い声はひどく癇に障るくせに、いつまでも聞いていたいとブランシールに思わせるものであった。
ひとしきり指を躍らせた後、相手が何の反応も返してこない事に焦れたのか、レイリエはブランシールの肩に噛み付いた。
「痛ッ……!!」
思わずブランシールは声を上げる。
顔を上げたレイリエは、にっこりと笑った。
「わたくしから目をそらしたままなんて、許さないわ」
ブランシールは仰向けになるとレイリエを睨んだ。
その顔に、レイリエは破顔する。
「まるでお兄様……やっぱり似ている」
うっとりと、紡がれる声は甘い。
だが、甘すぎて胸が悪くなる。
「ねぇ、ブランシール……」
レイリエが銀の髪をかきあげる。さらさらと、光を反射して光が揺れる。まるで銀のヴェールのように。
「貴方には、幸せになってもらいたいと思っているのよ」
「ならば、何故」
ブランシールはその声に、今胸に抱いている色のまま、そのままの憎悪をこめようとして失敗する。唇からもれた言葉の響きは、まるで哀願するようだった。それでも彼は必死に言葉を搾り出す。
「何故この国に戻ってきた? 約束が、違う」
「ああ」
レイリエはからからと笑った。
「くだらない」
「くだらない?」
問い返したブランシールに、レイリエは更に笑う。
「そんな事、どうだっていい事よ。少なくとも、わたくしのなかで気持ち良くなって、快楽に溺れる貴方にとってその質問への答えがどれ程の意味を持つの?」
ブランシールの頬が染まる。怒りと、それを上回る羞恥に。
レイリエの笑い声は止まらない。
「意味なんてないわ。貴方はわたくしに溺れたならいい。いい子、いい子だわ、貴方は。だからわたくしは、貴方にだけは幸せになってもらいたいのよ。そしてそれはとても簡単なことなの」
すっと、レイリエの指がブランシールの唇に当てられた。
「簡単なことなのよ、ブランシール。わたくしと似た者同士の貴方なら、きっと決めたならやりとげられるし、やりとげた後、至福が待っていてよ」
「似た者……」
「し、黙って。知っていてよ? わたくしがお兄様を想う様に、貴方も許されぬ想いを抱いているって。解るのよ。だって似たもの同士ですもの……禁忌なのにね」
ブランシールが息を呑んだ。
レイリエは続ける。
「知っていて? メルローアの国王はただ一度しか、妻を娶る事がないと」
「リドアネ王は……」
「あれは正式な妻じゃない。ねぇ、婚姻に『二度』はないの。だから」
ふっと、レイリエの顔から笑みが消えた。
「婚姻の席でエスメラルダを殺しなさい。そうすれば、フランヴェルジュは永遠に貴方だけのものよ」




