36 深紅
りぃぃん、ごぉぉん。
鐘が鳴り響く。
その音の賑やかさに、エスメラルダは息を呑んだ。
舞台の上では、赤々と火が焚かれている。
神殿のなかでも、この『誓句の間』より更に奥の奥にある祭壇で燃えている聖火から火を分けて、燃やしたかがり火の数は七つ。
聖火はメルローア建国の折から燃え続けているという火だ。
魔法の力だけでなく、神殿内の中でも特に許された者達が注意深くその火を見守り、時には薪を加え、絶やさぬ努力をしてきたのだ。
その火の燃える様は流石に壮観である。
広い舞台の上の祭壇は、神殿の中では二番目に大きなものだ。
背後に飾られた有翼の像は芸術の女神の姿を映している。
モデルは始祖王の妃ディケナ。始祖王バルザ自身の作といわれているそれは、豊満で優しく、聡明な美女の姿であった。まさに女神がいるのならばこの様な風貌であろう。
芸術の女神と並び、このメルローアが崇めている神はスゥ大陸全土で『主』と呼ばれている神である。
アーニャの地に住まうその主の娘こそがメルローアの守護神、芸術の女神エスカーニャ。
だが、主の像はない。
如何にメルローアが芸術の国と謳われようとも世界創造の神を表現する術は持ち合わせていなかった。
表現しようと努力した先人達もいるにはいたが、粗悪なものなど作れぬと思い、自らの限界に挑戦し、そして筆を折り、鑿を捨て、喉をかきむしった。
エスカーニャの像を背後に、マーデュリシィは立つ。
マーデュリシィ自身も緊張していた。
国王の結婚式である。
それは大祭司であれど一生に一度、あるかないかの盛大な婚礼であった。
それ故胸がやたらと早く脈打つのか?
何か、何だか、不思議な気分であった。
だが、マーデュリシィはその不思議な気分を上手く形容できない。
きっとわたくしは緊張しているのだわ。
彼女の目は一身に祭壇からあふれ出す水を見つめる。
祭壇にしつらえられたこの泉は、マーデュリシィの心の安らぎ。
甘い水の匂いがする。
霊山ホトトルから引いてきた水。
この水を花婿が口移しで与える事により、主から与えられる食物は、夫が責任を持って妻の口に入れる事が出来るよう努力するという誓いをこめた儀式は終了する。
春だというのに、冷たいであろう水。
ホトトルの水は真夏であっても氷水のように冷たい。
儀式が全てつつがなく終りますように。
マーデュリシィは祈った。
何かが引っかかった。
何かを忘れているような気がした。
だけれども思い出せない。
こぽこぽとあふれる祭壇の水。
白い大理石と、微かに薔薇色がかった大理石で、美しく作られた祭壇。
何もかもが見慣れている。
なのに『この場所』に何か違和感を覚えてしまうのは何故だろう?
りぃぃぃん……!!
鐘が鳴り止んだ。
それは合図だ。
花嫁は花婿に誘われ、この祭壇に進んでくるはず。
「いと尊き御身なれば、神々の祝福を受け、許しを得、御身の負われる荷を、その娘と分かちおうたならば」
古代から伝わる祝詞が神官長バジリルの口から上げられる。
その祝詞にあわせ、マーデュリシィから遥か遠くの、正面の扉が開いた。
その途端、神殿が揺れるほどの歓声に包まれた。
「「「「おおおおお!!」」」」
マーデュリシィの耳を打つ歓声。
それはそうだろう。
先代の王は美丈夫であったし、王太后は未だその容色に衰えがない。
だが、それでも、メルローアの民がこれほどまでに美しい王と王妃を戴いた事は今までになかった事であろう。
何よりも愛情が二人を柔らかく包んでいた。それ故人々は声を惜しまず讃え、祝う。
舞台の上に、メルローアの王族はたたずんでいた。
国王とその花嫁が出てきた扉から、祭壇のマーデュリシィの元まで一直線に緋色の毛足の長い絨毯が敷かれており、その絨毯を挟むように、向かい合わせになって王族達は立っていた。
レーシアーナは知らない人間が余りにも多い事に愕然とした。
リドアネ国王の妾妃の血筋は、この舞台上にはいない。それなのに、結構な数がいるものだとレーシアーナは思う。
ブランシールと結婚して、それなりに親戚づきあいもしたが、その血脈の複雑さに混乱したものだった。それでもレーシアーナは王弟妃だから許されるがエスメラルダは許されないだろう。
アユリカナは祭壇のすぐ横に立っていた。
そこが一番の上席である。
国母たる彼女の地位が、フランヴェルジュその人を除けば王族の中で最も高位なのだ。
その隣にレーシアーナが並ぶ。
丁度儀式の時に花嫁の隣に並ぶ事になるであろう。
レーシアーナの真正面にブランシールがいる。だが、やはりブランシールはレーシアーナと目を合わせようとはしなかった。
レーシアーナは、目を見開いて、夫のその姿を心に焼き付ける。
自分から目を逸らす夫。
全て知っているのだと、そう伝えれば彼を助ける事になるのだろうか。
何度も何度も考えて、レーシアーナは否、そう思ったのだ。
ブランシールはひどく不器用な性格で、普段は何処までも真っ直ぐだから、だからこそ、あっさりと均衡を崩し壊れる弱い男でもある。五歳の頃から見つめ続けた愛しい相手の性格を考えると、レーシアーナが知っている事を全て曝け出したら、確実に壊れてしまう。
わたくしは、何が何でも貴方を守る。
だけれども、ねぇ、ブランシール様、わたくしは、エスメラルダの事もとても愛しているのです。
貴方の想いに添わなくとも、わたくしは、そうするしかないの。
どうしても、貴方とエスメラルダを、わたくしは選べないのだから。
隣に並んだ王族の事などレーシアーナの眼中にはなかった。
真正面の夫を、歩を進める親友を、見つめる。
愛するものを、見つめる。
ルジュアイン、ごめんなさい。
母様を許してね。
花嫁と花婿は、三歩進んでは一歩下がり、また三歩というように足を進める。
エスメラルダの長い白いトレインが絨毯を丁寧に撫でる。
フランヴェルジュの羽織るマントが、はらりはらり、揺れる。
嗚呼、悲しい程全てをレーシアーナは知っていた。
ほうら、全部全部夢の通り。
レーシアーナの顔が蒼白になった事に誰も気付かない。そして気付かれない事をレーシアーナは知っている。
唇の端が持ち上がった。
『その瞬間』まで笑顔でいなければとレーシアーナは思うのだ。尤も、誰もレーシアーナの表情など気にはしていないのだけれども。
晴れやかな顔でフランヴェルジュの手を握り、小さな足を動かすエスメラルダに詫びたいと、レーシアーナは痛切に思う。
それは叶わぬ事ではあるが、夢見る位なら主もお許しくださるだろう、そう、言い聞かせるレーシアーナの心は、もうボロボロだった。
そんな妻の葛藤を知らない真正面のブランシールの心は、ボロボロだった。
注ぎ込まれた毒と、夢見ていた未来と、歪んだ欲望。
そして、ブランシールは傀儡になった。
ただ、ブランシールはその瞬間まで誰も彼がただの人形と化している事を知らないとそう信じていたのだ。
今すぐ大声を上げて、式を中止したかった。
そうすれば、そうすれば?
兄は幸せかもしれないがブランシールは。
臆病な自分が、ブランシールには呪わしい。
遂に兄が目の前にやってきて、視界からレーシアーナをかき消した。
ブランシールはほっとする。
妻の瞳を見るのは落ち着かない。
金と銀の色彩の王弟夫婦の心は誰も知らず。
儀式が、始まる。
大祭司の祝詞が延々と続いた。
エスメラルダの顔は兄の身体に隠れて見えないが、その兄の顔が誇らしげなのを見て、ブランシールは叫びたくなった。
だが、舌が喉の奥で張り付いたかのようで、とめようと声を上げたつもりなのにひゅーぅ、という音がむなしく響いただけ。
ああ、兄上、お許し下さい!!
きっとファトナムールの貴賓席で、レイリエが笑っているだろう。
だが、ブランシールは笑えるような状態ではなかった。
国王が誓句を述べる。
「今、我が隣にいるエスメラルダ・アイリーン・ローグを我が生涯にただ一人の妻とすることを、神と我が臣民の前に誓わん。契りは千切り。例え我が肉体が千に分かたれようとも、ただ一人を思う気持ちに変わりなし。偉大なる主よ、祝福を垂れたまへ」
フランヴェルジュが印を切り、誓う。
人々の歓声を聞きながら、エスメラルダは自分の誓句を唱えようとした。
ああ。
ブランシールが絶望する。
今、わたくしはわたくしの愛するものを全て守る。
レーシアーナは弾かれた様に飛び出した。
決して健康とは言えぬその身体で、レーシアーナは守る為に全身全霊の力を籠めて、体重をかけた上で身体ごとぶつかる。
そして、彼女はエスメラルダをフランヴェルジュの方に向かって思い切り突き飛ばしたのだ!
その渾身の力で突き飛ばされたエスメラルダを、フランヴェルジュも咄嗟には支えきれず、共に、身体が投げ出された。
───ぶつん、という音がした。
そして、世界をさかさまに振るったような音が続く。
何が起こったのか一瞬、誰にも解らなかった。
混乱しながら花嫁と花婿は身体を起こし。
エスメラルダはその緑の瞳を見開く。
何故?
何故わたくしの立っていたその場所にレーシアーナがいるの?
何故、何故?
唐突に落ちたシャンデリア。
計ったようにエスメラルダのいたその場所にそれはあって。
けれどその下敷きになったのはエスメラルダではなくレーシアーナだった。
真紅が広がる。
とめどなく……。




