34 記憶に刻む
時間を少し遡ろう。
「兄上、余りお召しにならないのですね」
ブランシールが不思議そうにそう問うた。
「? ああ……、そうだな」
独身最後の夜、その夜を共に過ごすのにフランヴェルジュが選んだのはブランシールだった。
最愛の弟、子供の頃から余りにそばにいた為に半身のように思える相手。
大切な兄弟というならもう一人、妹がいる。
人参色の髪の姫、エランカ。
エランカは一番最初に結婚を決め、海の国ディルレイアの王太子のもとに嫁いだ。
ディルレイアから祝いの品は届いているし、丁寧な書簡も届いてはいるがエランカは式に出席しない。
ディルレイアは半鎖国の国。男たる王太子には若干の自由が許され遊学中にエランカに一目ぼれして彼女を口説き倒し妻としたが、女には国内での自由は兎も角国外での自由は全くない。
ディルレイアで生まれた女はディルレイアを出ることなく一生を終え、ディルレイアに嫁いだ娘は生涯をそこで暮らす。
自由もなく閉じ込められるような、そんな婚姻生活になるぞとフランヴェルジュはエランカの婚儀に反対したものだった。
ディルレイアに嫁ぐという事は、単にメルローアの王位継承権を手放して人妻になるというだけでなく両親兄弟に二度と見える事叶わない一生を送るという事になる。
だが、エランカの意志は固かった。
自分と同じように反対していた父も、最後には降参した。
あの時のフランヴェルジュはまだ恋を知らなかった。
唯一の人間というものが心に出来る事も、その相手と永遠を誓えるなら他の何を手放すことも厭いはしない事も、……そんな感情を知らなかった。
そんなエランカではあるが、ディルレイアの民に愛され、夫たる王太子だけでなく義両親たる国王と王妃にとても愛されているようだ。
その証拠に、フランヴェルジュの手元には手紙がある。
エランカは封蝋に使う蝋に紅色を好んだ。紅色の封蝋にディルレイア王族の紋章。
本来外様と触れ合う事は許されぬはずのエランカからの手紙だ。
ペーパーナイフで開封して中身は何度も読み返したが相変わらずエランカは可愛い言葉を連ねる娘だった。
詩的な、韻を踏んだ手紙ではない。
情熱の限りで自分の婚姻を祝う手紙だった。そしてブランシールの婚姻を祝う手紙でもあった。
流石に王弟であるブランシールの為に手紙を書いても、それを出すことは出来なかったようだ。
それでも、ディルレイアに嫁いでしまえばもう何の言葉のやり取りも出来ぬと思っていた妹からの手紙は、心をとても幸せにしてくれる。
自室で寛ぎ、酒を傾ける。
フランヴェルジュもブランシールも、エランカからの手紙はすっかり内容を覚える程何度も目を通したので、後は特に何かすることも出来る事もない。
フランヴェルジュはゆっくりとワインを口にする。
独身最後、とはいえ全然それを惜しむ気にならないのが不思議だ。
随分と色々あったが、エスメラルダはウエディングドレスを身にまとい、ヴェールを纏い、フランヴェルジュに嫁す。
正直胸が躍る。
エスメラルダが霊廟に赴く事は知っていた。
だが、フランヴェルジュは『血杯の儀』の事は知らない。
それは国母と王妃、もしくは王太子の妃のみが知る秘密なのである。
だから、フランヴェルジュはただ訪れる華燭の典の事だけを考えている。
「兄上、もしかして緊張なさっていますか?」
「……んー? 緊張? 緊張なぁ」
一拍以上遅れて、フランヴェルジュは生返事を返す。彼の目は時計を見つめていた。
かち、かち。
秒針の音が響く。
かち、かち。
そして、鐘が鳴った。
それは凄まじい音。
国中の鐘が鳴っているはずだった。
どんな小さな神殿の鐘も、今日だけは盛大に鳴らされる。
普段は決してならされることのない零時の鐘。
「来た……」
「おめでとうございます。兄上」
ブランシールは複雑な気持ちを抱えながら、兄に祝福の言葉を述べた。
今日、何が起きるか、それが誰によって起こされるか、もし兄上がお知りになったら……僕は……。
それでも、兄と二人きりの時間というのは嬉しくて、葛藤が顔に出ないようにブランシールはごくごくとワインを口にする。水を飲むように、ごくごくと。
酔ってでもいなければ、やっていられない。
だというのに。
「有難う、ブランシール」
フランヴェルジュは、やっと、笑った。
「お前の祝いの言葉が、一番に聞きたかったんだ。一番に、お前に祝福されたかった」
その言葉は甘い毒。
かつてブランシールが溺れた水煙草よりも危険な毒。
身体ではなく心を蝕む喜びと───罪悪感。
僕は……!! 兄上!!
「僕も、兄上に祝いの言葉を述べる最初の人間になりたかったから、とても嬉しいです」
内心を微塵も見せずに、ブランシールは笑って見せた。
兄の好きな笑顔。
自分の愛する兄の好きな笑顔。
「お前はやはり最高の弟だ」
がたん、とフランヴェルジュは立ち上がった。そして、テーブルを挟んで向かい側に座る弟を強引に抱き締める。
その抱擁は温かかった。
ブランシールの胸が早鐘を打つ。
駄目だ、駄目です!! 兄上、僕はそんな事をしていただく価値のない人間なのです!!
レイリエの甘言に乗った事が、呪わしかった。だけれども、もう引けないのだ。
だから、抱き締められたこのまま、死んでしまいたい。
「これからも、頼むぞ。俺を助けてくれよ。俺の側にいてくれよ。正直、お前がいなければ俺は何をどうして良いのかの区別もつかん人間なのだからな。勅命だ。俺より先に死ぬなよ」
「……死、などと縁起でもない。今日は、善き日、ではございませんか」
高鳴る胸の鼓動を聞かれたらどうしようと思いつつ、ブランシールは言う。
兄に抱かれている喜びか。
罪の戦きか。
恐らくは、その両方が、心臓を暴走させている。
「兄上、苦しいです。それより、乾杯しましょう」
ブランシールの言葉に、フランヴェルジュはようやっと弟から腕を離した。そして身を引き、再び椅子に腰掛ける。
「悪いな、興奮してしまったんだ。色々とな。結婚すれば世界が変わりそうだと思わないか? 俺をおいて先に結婚した弟殿に是非聞きたいのだが、やはり、人生は変わるか?」
早口でフランヴェルジュはそうまくし立てると、飲みかけのワインを飲み干して、新しく注いだ。
「受け止め方次第でしょうね。変わるといえば変わりますが、変わらないといえば変わらないですよ」
ブランシールはそう言うと、さっき飲み干して空になったグラスに、兄がテーブルに置いたワインボトルからワインを注いだ。
「兄上の幸せに」
「そしてエスメラルダの幸せだ!!」
フランヴェルジュは満面の笑顔で言った。
二人はグラスを目の高さまで持ち上げると、一気にあおる。
ブランシールは心の中で唱える。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
自分に言い聞かせないと気が狂いそうだったが、誰よりも親しく、誰よりも───レーシアーナよりも───愛する兄に『そのこと』を全く話せないのは承知していた。
罪人が一番痛みを覚えるのは良心の呵責だろうとブランシールは思った。
全ては夜が明けてから。
そして、それから……ああ、まだ先の話だ。
『その時』はまだ来ない。
「夜が明けると、俺が演説するだろう? この国に王妃を戴く事を神に感謝する演説って言われてもなぁ。言ってみれば国民と各国の貴賓に惚気話をする訳だろう? 真面目な演説ならばもう慣れたのだがな、恥ずかしいと思う。うん、かなり恥ずかしい。歴代の王の婚姻の朝の演説の記録を閲覧したのだが、父王の演説はすごかったぞ。母上を妻にすることで完璧に有頂天になっていたみたいだ。読んでいるこっちが恥ずかしくなった」
「僕は国王や王太子でなくて良かったと思います。全国民の前で壮大な惚気話など僕には出来そうにありませんね」
言って、ブランシールはまたワインをあおった。そして、ワインをまた注ぐ。
空になったボトルを、ブランシールは足元に置いた。
それを見て、フランヴェルジュはぎょっとする。
鐘が鳴るまで自分が惚けている間に弟は何本ワインを開けたのだろう?
「お前、明らかに飲みすぎだぞ」
嗜めると、ブランシールは笑った。
「だっておめでたいですから。兄上ももっとお飲みになって下さい。結婚ですよ?」
「お前はレーシアーナとの式の時も、飲んでいたな。そういえば」
フランヴェルジュは呆れたように言う。
が、ブランシールは首を傾げるのみだった。
「俺はそんなに飲まんぞ。誓いの時に、ホトトルの水を口移しで飲ませるだろうが。水の甘露さでなく酒臭さをエスメラルダが覚えるのは嫌だ」
「……兄上の頭の中は本当に、エスメラルダで一杯なんですね」
今度はブランシールが呆れる番だった。
花婿という物は、祝い酒で普通は程よく出来上がっているものではなかろうか?
それをまぁ。
エスメラルダ。エスメラルダ。
「……やきもちを妬いてしまいそうですよ。兄上」
「お前も大事だぞ」
フランヴェルジュは即答する。
その顔があんまり真面目なので、ブランシールはまた泣きたくなった。
それなのに、フランヴェルジュはその真面目な顔でこう続ける。
「で、大事な弟殿よ。全国民どころかスゥ大陸中に俺は惚気を演説というこっぱずかしいやり方で発信しなくてはならないわけだが、その可哀想な兄になにか慰めの言葉はないのか?」
「好きなだけ惚気るがよろしい」
ブランシールの答えが投げやりになっているのは仕方がないといえよう。
もう表情や言動が全て惚気に思えるのだからスゥ大陸どころか全世界に惚気れば良いのだ。勝手にすれば良い。
その後に何が起きるかも知らないで。
「冷たいぞ、ブランシール」
「そうですか? 僕、結構体温が高いんですがね。褥を共にした女性には熱いといわれますが」
「同衾はレーシアーナだけにしておけ」
「今はレーシアーナだけですよ」
ブランシールは嘘をついた。
まだ身体がレイリエを覚えていて、そして欲していて、飢えているというのに。
だが、フランヴェルジュは安心した顔をする。その顔を見られただけでも、ブランシールはほっとした。
本当に一番抱きたい人は……。
ブランシールの心中など知らぬフランヴェルジュは呑気に言葉を紡ぐ。
「まぁ、演説はいい。多分勝手に言葉が出てくるだろう」
「兄上はいつもそうですよね。草稿を用意なさらない」
ブランシールが、フランヴェルジュは生まれながらの王だと思うときの一つにそれがある。
今までフランヴェルジュは一回も演説の草稿を作った事がないのだ。
それでいて人身掌握に長け、素晴らしい演説を即興でするのだからすごいと思う。
尤も、宰相のレーノックスはそれをよく思っていない。
万が一の失言があったらどうするつもりかと何度も何度も意見してきた。
自分達議会……と、いうよりはレーノックスの作った草稿を使えと五月蝿いが、フランヴェルジュはいつもすっぱり跳ね除ける。
『余は暗記が苦手なのだ』と言って。
メルローア七百四十七年間の歴史年表や、分厚くて人を殴り殺せそうな法律書や、ややこしい古代めいた言葉で記された憲法や、本棚のスペースを恐ろしくとる神学書や、更には流行り歌や戯曲まで、その他様々な事を完璧に暗記している貴方がそんな事言って良いんですか!? と、出来るならブランシールは、しかし、はっきり問いただしたい。
「……どうせ今日の式も完璧に覚えてらっしゃるんでしょう?」
「大体はな。大祭司の台詞がわからん。お前の時と一緒だというのなら一回聞いているから覚えている」
王弟と王の華燭の典での祝詞が同じ筈がないとブランシールは思うが突っ込まない事にした。
「レーノックスは何か言っていませんでしたか?」
ブランシールは話を逸らした。
フランヴェルジュはそう言うところは非常に鈍く、すぐに乗ってきた。
「? ああ、色々とな。花嫁を選べ、歴史に泥を塗るなと言われた時は俺も大人気なかった。お前の血糊で歴史とやらを真っ赤に染めてやろうか? とか言ってしまった。俺もまだまだ子供だな」
「……そんな生意気な事を言ったのですか? あの阿呆が」
「ん? お前も口が悪いな。流石は兄弟だな。あの阿呆、大きな失態を犯してくれたならなぁ。遠慮なく身分を剥奪してやるのに。父上の代からだからなぁ。あれはあれなりに支持があるし、難しいな」
レーノックスが宰相という地位に登りつめた理由が、閨房でのコトが巧みであったから……というのはこの兄弟はよく知っている出来事だった。
レイリエを満足させたから。
レイリエがレンドルに登用させたのだ。
宰相としての能力は確かにある。それなりに頭も良く、カリスマ性はないが裏工作は大変得意で、根回し大好きという、言ってみれば膿だ。
しかし、膿を出す手術はまだ早いとフランヴェルジュもブランシールも思っている。
手術には出血が伴う。
フランヴェルジュはまだ即位して間がない。
今その手術を行うのは、明らかに時期尚早。
尤もいずれは膿を出し切らなくてはならないだろうと解っているが。
「レーノックスは厄介ですね、本当に」
レイリエの事を熱愛している初老の宰相がやらかした一番の悪事は、エスメラルダを貶めるのに一役買ったということだ。
レイリエがばらまいた毒を、さらに広範囲に撒き散らした。
わざわざ『事実婚』という言葉を使ったのは、もしかすれば『重婚は極刑』という法律があるからか? そんなことをふとブランシールは思った。
考えて言葉を選んでいたならば、たいしたものだ。渦中にいる自分達はそれに気づかなかったのだから。
「いっそ暗殺してしまいますか?」
真顔で言うブランシールに、フランヴェルジュは眉をしかめた。
「やめてくれ、今日は式なんだぞ。寛容な気分でいたいんだ。身分剥奪とか言ったのが自分でも後味悪いのに」
「兄上は純ですね」
「そうでもないぞ。俺も一応国王としてそれなりに汚い事もしているのはお前が一番よく知っているだろう」
うー、とフランヴェルジュは唸る。
確かに彼が自分で言うとおり、フランヴェルジュは汚い事もするようになった。ブランシールにばかり汚れ仕事をさせるのは耐えきれなかったからだ。
気付いたから、知らぬ頃には戻れない。だから、時には自ら泥を被る。
それでも人殺しはした事がない。
罪人でさえ、フランヴェルジュ即位以降一人も死刑を執行されていない。
戴冠式と、ブランシールの婚姻で恩赦が大量に出た。そして今日の華燭の典でもまた恩赦が出るであろう。
レーノックスは甘いと言うが、フランヴェルジュは人を殺す事だけは出来なかった。
「すみません、軽率な発言でした。兄上、少し眠りませんか? 夜明けまで少しありますから……ね?」
「眠ったら、全部夢だったとか言う嫌なオチがつきそうで嫌だ」
「夢ではありませんよ、大丈夫です。花婿が目の下に隈作っていたら大変ですよ」
「じゃあ、隣にいてくれ。眠っても良いから」
兄上は時々、酷く残酷な事を言う。
「解りました、隣にいます……ずっと」
ブランシールはそう言った。
もし眠っている貴方の唇を奪ったら?
それでも、自業自得ですよ?




