28 芽吹き
結局、レイリエの華燭の典から帰ってきたアユリカナの側に張り付いていても特に収穫はなかった。
レイリエの婚姻の儀の様子や何かを話すだけに留まったのだ。
勿論、アユリカナはレイリエがまだ何かを企んでいると明言したが。
ちなみにアユリカナは一寸した嫌がらせをした。この嫌がらせしたさに鄙びた土地の、積極的に嫌悪感を感じる相手の婚儀の祝いの使節になったようなものなのである。
新婚の夫婦の間にひびをいれてやろうとアユリカナが用意したのはレイリエへの贈り物として丁寧にラッピングされたアシュレの愛用していた万年筆。それを他の贈り物とは別に、個人的な贈り物としてアユリカナは持参した。螺鈿の筆入れに入れて、それを更に薄紫の透かし紙でくるんだ万年筆がどんな波紋を齎すか、アユリカナは生涯で自分がここまで嫌な女になったことはないと自覚しつつも、どうしても止められなかったのだ。
この自分のどす黒い心境を伏せてアユリカナは二人の娘に説明した。
一寸、驚かせようと悪戯心が湧いてしまったの、と。
大切に梱包されたその万年筆はサファイアがあしらわれたもので特注の品だった。
レイリエにはすぐに何かと解る筈だ。
アシュレはどんな書類にサインする時もその万年筆を使っていたのだから。
レイリエはきっと動揺するだろう。それを見たハイダーシュは何事かと思うであろう。
それが楽しみで、けれど最初はアユリカナとて自己嫌悪を覚えてはいたのだ。
幾ら憎んで憎んで気持ちが止まらない相手でも、アユリカナの一存でレイリエとハイダーシュを目茶苦茶にしたら愛しいメルローアにどんな災いが齎されるか。
それでも、幸せを装い、人目には幸せそうな花嫁を演じるレイリエを見て、アユリカナの何かが壊れてしまった。
そして、義理の姉の立場を利用したアユリカナは式が終った昼食の席で、レイリエにその『個人的な贈り物』を渡し、開封するように命じたのである。
そう。頼んだわけでもなければ促した訳でもない。文字通り命令したのだ。なんともアユリカナらしいとその話を聞きながらエスメラルダは思ったものだ。
アユリカナ様だけは敵に回したくないわ。
アユリカナの心に沸いたどす黒い心情をエスメラルダは聞かされていない。
自分がやったことをアユリカナは『一寸した悪戯心』と言い切る。
だからこそ、余計に敵に回す恐ろしさを知ったともいえるだろう。
贈り物を受け取ったレイリエは笑顔を絶やさないようにしてその透かし紙から螺鈿の箱を解放したという。
レイリエがどんなに鬱陶しく思おうとも、アユリカナは義理の姉。無暗に高慢な態度に出て跳ね除けるには躊躇する相手だった。おまけに、同じテーブルに着いたものが吸い付くようにアユリカナとレイリエのやり取りを見守っている。
ハイダーシュが興味深そうにアユリカナと妻となったばかりのレイリエの顔を交互に見やったという。その顔にはまだ子供らしいあどけなさが残っていたというが、二十五歳で子供らしいは誉め言葉ではないであろう。あどけないだなどと女に言うならまだしも成人男性に言う言葉ではない。
レイリエは本心は嫌でたまらなかったのかもしれないが、その場でどう振舞うべきかは流石に解っていた。唇に笑みを作りながら螺鈿の筆入れに括り付けられている組紐を解き、レイリエはその箱を開けて――そして箱ごと万年筆を落としたのだという。
大理石の床の上を万年筆は転がっていったという。ハイダーシュが必死に万年筆の後を追い、壁際で捕まえ、そしてその時初めて妻の異変を見たのだそうだ。
レイリエは屈んで螺鈿の箱を拾う。その顔に浮かんだ限りなく優しい笑みのようなものを、恐らくハイダーシュはそれまで見た事がなかったのではないかとアユリカナは言った。
ハイダーシュはひたすらに食い入るような眼差しでレイリエを見ていたらしい。
その笑顔は、壮絶なまでに美しく、誰もが膝を折るのではなかろうかと思える程、愛情に満ちた幸せそうな表情で。
可哀想なハイダーシュはただ万年筆を新妻に渡し、彼女は涙を浮かべながら微笑んでそれに応えたという。
「有難うございます。メルローア王太后陛下」
レイリエは生まれて初めてアユリカナに礼を言ったのだそうだ。
アユリカナとしては面白くなかったらしい。
ここで一揉めすればと思っていたのにと。
それなのにアユリカナが見たのは、レイリエが生まれてこの方ずっと見守ってきたが、その日まで見た事の無かった満面の笑みだったのだ。
ハイダーシュは訝る事を恐れていたように見えるとアユリカナは言っていた。
それは確かにあれだけの噂になった姫である。一々疑っていたらキリが無いのであろう。
だけれども、これはアユリカナも知らないし予想もつかない事だが、ハイダーシュは後に気が狂うのではないかと思う程、後悔する羽目に陥るのだ。
万年筆の謂れを聞く事を躊躇した、その為に。薄い蒼色の瞳に浮かぶ恍惚とした感情を見てみぬフリをした為に。
だが、哀れなハイダーシュは死ぬまでその苦しみを口にする事すら出来なかったのだ。
そうするには、ハイダーシュはレイリエを愛し抜いていたのだ。
彼女への疑いは彼女への愛に対する不忠。ハイダーシュはそう思い、胸の痛みを抱えたまま、レイリエを愛し続ける事になる。
アユリカナも認めたくないが、万年筆を受け取ったレイリエは、少し野暮ったいウエディングドレスを着ているというのに吃驚するほど美しかった。しかし、これは自分の胸に収めておく事にした。口惜しかったのだ。
まぁ、アシュレの万年筆を見出すまではただの野暮ったい鄙びた地の花嫁に過ぎなかったのに、美しさを齎したのはアユリカナなのだから、それが解っているが故にアユリカナはレイリエがあの瞬間とてつもなく美しかったことなどさっさと忘れてしまおうと思い、そして記憶の奥底へと押しやる。
アユリカナから話を聞いた娘達はハイダーシュは臆病者だとか弱虫だとか犬だとか散々に罵った。
レイリエの変化に気付いたのであれば問い詰めれば良かったのに、と。
信頼なくして結婚生活なんて遅れるのかしら? そう言ったのはレーシアーナ。
亡き人を愛し続けているでしょうに、それで他の男の花嫁になるだなんて理解できないわ! そう言ったのはエスメラルダだった。
「レイリエなんて女を愛したら、国が傾きそうね」
冗談交じりにレーシアーナが口にした言葉は、――真実になった。
◆◆◆
お茶会を終え自室に戻ったエスメラルダは、カスラから報告を受けていた。
華燭の典の後、アユリカナが馬車に揺られている最中にレイリエとハイダーシュは赤ん坊の玩具を大量に購入したという。色彩は黄色でまとめたらしい。
「あの二人、もう子供が出来たの?」
レイリエの身体の秘密を知らないエスメラルダはそう言ったが、カスラは否定する。
「恐らく王弟殿下の和子様に贈られるのではないかと。ファトナムールの紋章を刻んだ品は一つも無かったと報告を受けております」
「そう、ご苦労様。続けて見張りを」
機械的に命じ、エスメラルダは思考の海に沈んだ。レーシアーナの和子? それなら自分とレイリエの対決も思ったより近いかもしれない。
◆◆◆
レイリエは、ファトナムールの『月華夢弦城』の後宮で溜息をついていた。
暇である。
暇であるが出来る事が何も無い。
ファトナムールは質実剛健を持ってよしとする国柄であり、華美な事は一切許されていないのだ。華燭の典が簡素に思えたレイリエだったが、あれでもハイダーシュが心を砕いて父王達を説得してくれてあれだけの規模となったという。
そして初夜が明けるとレイリエは籠の中の小鳥宜しく、後宮に閉じ込められた。
ファトナムールでは男達が活躍する。
女にも、限られていたとはいえ、活躍する場が与えられていたメルローアとは大きな違いであった。
何が質実剛健よ! 単なる吝嗇! くそったれ、お金は使うべきところに使って初めて意味を為すと知らない愚か者どもめが!!
レイリエは声に出さず悪態をついた。
どうせ男をたぶらかすのならこんな吝嗇臭い国の王太子ではなくもっとほかの国のそれにすれば良かった。
思いっきり、判断を間違えた己を悔いる。
せめてこの黴臭い後宮を整理しようとしても予算が無いのだ。
窓を大きく開け放ち、侍女達をあと十名でも良いから雇って埃や蜘蛛の巣を払って掃除させ、クッションを膨らませてカーテンを洗うか取り替えるかし、それからシーツも洗いざらしのもので無く新しく買い換えられたならばと思う。羽根布団も万年床になっている所為で心地良くない。羽根を入れ替えて外に干したい。
清潔な暮らしを求めるだけでも華美だといわれなくてはならないのだから、レイリエが憂鬱に成るのも仕方ないといえた。
そして、何故豊かな金鉱を有するこの国がこんなにも吝嗇臭い……否、経済的なのかを夫に寝物語で問い、レイリエは驚いた。
余りにも非現実的な話である。
ファトナムールはメルローアに戦を仕掛けるつもりらしい。
皮肉な事にレイリエがこの国に身を寄せた事からハイダーシュの父親、ロウバー三世がその事を思いついたのだという。
ハイダーシュはお酒が入ると饒舌になる。
そこでレイリエは紅茶にたっぷりとブランディを注ぎ、頭の弱い、守ってやらなければならない女を演じながら、どれ程の脅威からレイリエを守る為にハイダーシュが苦労しているのかという自慢話を聞きだしたのだった。
話を総合して、ハイダーシュは理想主義者過ぎる、と、レイリエは断じた。
ハイダーシュの言葉だけ聞いていると、いかにも簡単そうな事に聞こえるのだが、実践に移した時は何もあてにならないという事がレイリエにはひしひしと伝わってきたのである。
心の底から、レイリエは後悔する。
机上の論では頭脳の優秀さを見せるがそれが即、賢さになるとは言えない。強く賢いという噂を信じすぎた。強いと謳われども、自国のトーナメント位しか経験の無い男。
巻き狩りさえした事がない男に実戦で兵を率いる事など可能なのだろうか。
ハイダーシュは駄目だ。努力をしているようだがその努力が見事に成果に繋がらない。
自分の身は自分で守らなければならないとレイリエは痛感した。そのためには策を練らないと。
ハイダーシュの父、ロウバー三世はレイリエを人質として使う気であり、その事でハイダーシュとは真っ向から対立している。
メルローアの民なら、自国の王族の為なら、例え王位継承権を放棄し国を捨てた女の為でも、剣を取るであろう。国王自ら馬上の人となり、槍を構え、長剣を腰に佩き、軍を率いるであろう。
そう。レイリエが捨てた者達は彼女の為なら嫌々でも剣を取る。
それがメルローアの男というものだ。
戦争を起こさせてはならない。
レイリエはそう思った。
それが一番確かな身の守り方であり、そしてファトナムールと境を接するエリファスを、彼女の兄の愛した土地を守る方法だった。
メルローアが灰になっても、兄の愛したエリファスだけは守らなくてはならない。
だからレイリエは甘えたようにこう言ったのだ。
メルローア王弟妃の出産祝いには是非里帰りがしたい、貴方の愛に守られていれば国王とて恐れるものではないから一緒にメルローアに行きましょう、と。
戦を起こす国の内情も調べたほうがいいでしょうしね、と、付け加える事も忘れなかった。そうやってロウバー三世を説得する時の言葉をハイダーシュに覚えさせたのだ。
女の浅はかさというけれども何処まで通じるかやってみようじゃないの。
ブランシールに接触できたらこっちのものだ。彼は兄と深く結びついている。もう一度溺れさせるのは訳ない事のように思えた。
男が此処まで馬鹿な生き物だとは知らなかったわ。兄様はご聡明であらせられたもの。
ファトナムールがメルローアと戦争をしたとして、ファトナムールの国力では勝ち目なんてないに決まっているというのに……本当に、愚かしい。
わたくしは、戦争なんておこさせやしない。エリファスを戦火に巻き込んだりしない。
先日、玩具も買った。
後はレーシアーナが早く子供を生むのを待つだけだ。それまでは退屈な時間を利用して色々な策をシュミレートするのがいいのかもしれない。
◆◆◆
「戦争?」
エスメラルダはカスラの言葉を鸚鵡返しに唱えた。
「はい、ファトナムールは着々とその準備をしておりまする。今日まで確証が取れなかった為ご報告が遅れましたこと、大変申し訳なく思っております。我が首刎ねよとのご下命あらば、直ちにカスラは喉首かっ切って果てて見せまする。ですが我らの誰も現実になるかならないかの事でエスメラルダ様を悩ませとうございませんでした。責は長である私一人にあります」
「何故確証が得られたの?」
エスメラルダはカスラの懺悔を無視して会話を進めた、カスラはそれに文句を言わない。
「はい、昨日大聖堂にて戦勝の祈りが国王と王太子、大司祭の三人で捧げられたからです。これは聖戦であると」
「聖戦? 何故? 理由も無く他国を蹂躙せんとしているのでしょう? それの何処が聖戦だというの?」
「民を飢えさせないための戦であるという大義名分の許に祈りは捧げられました」
淡々と答えるカスラの前でエスメラルダは爪を噛んだ。エスメラルダの悪い癖だ。
「雪解けを待って春攻めてくるとしたら植え付けが出来ないじゃない。夏だって麦や米は手をかけてやらないと出来ないわ。秋は収穫時期だしそんな時期に男手を持っていかれたら大変だわ。冬は戦いに向いていない。いつ、戦が始まるの?」
「解りません」
「何ですって?」
エスメラルダは爪を噛むのも忘れ、自分の忠実な部下を見やった。
自由になりなさい。
何度も何度もエスメラルダが飲み込んだ言葉はそれだった。
そう言ってやりたいけれども、エスメラルダ自身がなくてはならぬものだと感じている為に解放できないでいるカスラとその一族。
更にカスラは彼女らの忠誠がどのようなものかを教え、エスメラルダの解放の言葉を封じ込める。
しかし、カスラは常に有能で、賢く、聞けばなんでも答えを与えてくれる女だった。
そのカスラが解らないなんて?
それでは行動が決められない。
「どういう事なの?」
「ロウバー三世はレイリエを人質に一気に攻め込もうとしているのですが、ハイダーシュがそれに異を唱えて、昨日も祈りを捧げ終わったかと思うと壮絶なる喧嘩を繰り広げる始末です。ハイダーシュは人質ではなく戦乙女として軍を鼓舞するのに使い、そしてメルローアが落ちた暁にはメルローアの王族の血を引くあの女を女王とするつもりなのです」
その言葉に、エスメラルダは頭痛を覚えた。
「ハイダーシュ、噂とは違って馬鹿なのかしら? そうね、きっとそうだわ」
「ロウバー三世の方はレイリエをあくまで人質として用い、戦勝の後は他のメルローア王族達と一緒にレイリエの首も刎ね、メルローアをファトナムールが飲み込む形で統治出来る様にと考えているようです」
「だけれども、何故? 何故今戦争なの?」
「ファトナムールの金鉱の金の産出量が落ちているのですよ。上手くごまかしていました。王家の所有する金なども混ぜて産出量の低下を他国に知られないようにしていたのです。ですが王家の金にも限界はあります。もう隠し通せるかどうかのぎりぎりの瀬戸際なのです。工夫達はもう三年も家に帰っていません。秘密がばれるのを恐れた王家と議会と教会により軟禁され、逃亡者には死が与えられるのです」
「ファトナムールから金が取れなくなったらスゥ大陸が大恐慌に陥るわ!」
エスメラルダは腰掛けていた揺り椅子から衣擦れの音をさせて立ち上がった。
「エスメラルダ様、どちらへ?」
「アユリカナ様に相談申し上げるわ。フランヴェルジュ様に言っても何故そんな事を知っているのかって所から説明しなくてはならないのですもの。アユリカナ様の方が早い」
「メルローアは恐慌とは無縁です。どれだけの金を代々の王達が溜め込んできたかをお知りになれば吃驚なさいますよ。ファトナムールの民にしてみれば自業自得でしょう。耕しも紡ぎもせず、貧民やら囚人に金を掘らせ、その上で胡坐をかいていた訳ですから」
「戦争は避けなくてはならないわ!!」
苛々とエスメラルダは叫んだ。
「他に報告は? 無いなら引き続き今まで通り、いえ、諜報部員を二倍にして、見張っていて頂戴。わたくしはアユリカナ様のところに行きます」
そう言うとエスメラルダはカスラが影に溶けた気配を身体で感じながら扉に向かった。寝室を突っ切り書斎を突っ切り、応接間の方に、廊下への扉に向かった時、異常な鈴の音が響き、エスメラルダは思わず足を止めた。
こんなに乱暴に鈴がならされたことはあったかしら?
「エスメラルダ様!」
侍女が呼ぶ。レーシアーナの侍女だ。
「何事!?」
エスメラルダが問うと侍女が叫んだ。
「妃殿下、破水なされましてございます!!」
エスメラルダは大急ぎで扉に直進し、それを開いた。
「エスメラルダ様……!!」
侍女は泣いていた。名前は、そうだ、リリアナと言った。レーシアーナが育てた侍女。
「御典医には? 王弟殿下には? 陛下と王太后様のところには人をやりましたか?」
リリアナは困ったようにエスメラルダを見詰めた。
「イエルテが手配している筈です。私は、妃殿下に直接エスメラルダ様をお呼びするようにと承りましてございます」
イエルテと言う名は確かレーシアーナの侍女の中ではリーダー格の侍女だ。
こくんと頷くと、エスメラルダは王弟夫妻の寝室へと直行した。
怖いです。神様。主よ。
エスメラルダは心の中で祈る。侍女達が余計な混乱に陥らないように細心の注意を込めて顔に不安を表さないようにする。
だけれども、エスメラルダの母はお産……正確に言うと流産で亡くなったのだ。
レーシアーナが出産の時はまだ先だと思って安心していた。
まだ二月の終わり。予定日よりほんの少しだが、早い。
そしてレーシアーナの出産の際にはエスメラルダは部屋の外で待っていれば良いのだと思っていた。ところがレーシアーナは自分を呼んでいるという。
王弟夫妻の部屋にはいつもの何倍もの侍女がいた。そしてエスメラルダは寝室へと通される。リリアナはまだ処女だと言う事で産屋と化した寝室へと入る事は許されなかった。
それを言うならエスメラルダも処女である。
いや、処女だのそうでないのだの、たいした意味は今はなかった。
レーシアーナがエスメラルダを求めている。
エスメラルダも、レーシアーナの傍にいたい。
寝室の中は静かだった。
侍女達は芋づる式に何でも知ってしまうから寝室の手前の応接室にいたのは不思議ではない。
だが、他の者達はどうしたのだろう? 寝室にはレーシアーナしかいなかった。
「……きて、くれたのね、エスメラルダ」
ぽつぽつとレーシアーナが呟く。
「御典医は、まだ、なの。……夫も、陛下、も、お義母上様も、まだ」
レーシアーナの額に玉の汗が浮いていた。
エスメラルダは持っていたハンカチでそれを丁寧に拭き取る。だが、脂汗は次から次へと流れ出してくる。
どうしたら良いのだろう? ああ、一体どうしたら!?
「ねぇ、ご免な、さい。貴女、生娘なのに。でも、わたくし、怖く……て」
レーシアーナの途切れ途切れの声は彼女の唇の近くに耳を持っていかないと聞こえなかった。
「何? レーシアーナ、怖いの?」
「だって……お産で死ぬ人、も、いるじゃない。わたくしが死んでしまったら、ああ、赤ちゃんは、どうなるの!?」
どくん、とエスメラルダの胸は高鳴った。
レーシアーナには母親の死因は話していないのに、自分が丁度それを考えていた瞬間にレーシアーナもそれを考えるだなんて!!
「大丈夫よ、レーシアーナ、大丈夫」
「お願いよ、エスメラルダ。わた……くしが死んだら……それでも、赤ちゃんが生きていたら……」
「大丈夫よ。大丈夫。気弱になっては駄目よ」
レーシアーナは妊婦らしくない妊婦だった。
悪阻もなく、周囲が必死になって休ませねば何事もない顔をして動いてしまう妊婦。
だが今はどうだろう。弱弱しく、命の炎が、蝋燭の火のように、少しでも強い風が吹けば消えてしまいそうで……。
嗚呼、レーシアーナ! 貴女を喪うなんて耐えられないわ!!
エスメラルダは必死にレーシアーナを元気付けようとする。だが、処女であるエスメラルダにはこういう時どうすればいいか、全く解らない。絞れるくらいハンカチで汗を拭って大丈夫と言う事しか出来ない。
「エスメラルダ、お願い……」
「元気な赤ちゃんを産んだら聞いてあげる」
「エスメラルダ……!!」
その時、荒々しいノックの音が聞こえた。
漸く御典医の登場である。看護婦を山ほど引き連れて、そしてエスメラルダに寝室から出て行くようにと美髯の御典医は言い放った。
「エスメラルダ!!」
レーシアーナが恐怖に引きつれた声を上げる。ハンカチを握っていた手を、レーシアーナは素晴らしいスピードと握力で掴まえた。死に物狂いの力、そういうのが正しいのか。
「わたくし! 貴女が居ないと! 死んでしまうわ!!」
「ここにいるわ。手を握っていてあげる」
エスメラルダはそう言うと手をレーシアーナに預けたままベッドの横にある椅子に腰を下ろした。
「処女が見るものではありませんぞ!? 仮にも貴女様は次代の王妃様なのですから!!」
「てこでも動かないわ。動かしたかったら、レーシアーナごとにして頂戴」
御典医は溜息を吐くと、もうエスメラルダに構わなかった。そんな暇はなかったのだ。
御典医はてきぱきと看護婦に指示を出し、自らも処置をする。
カスラと離れて十時間半後。
きっかり零時に産声を上げたのは美しい男の子。
二月二十八日、メルローアの王家に男児が授かったのだ。




