25 『審判』と生誕祭 後編
エスメラルダは拘束を解かれると白いマントですっぽり包まれた。そしてマーデュリシィの部屋に連れて行かれる。
まずは湯浴みをする。マーデュリシィが儀式の時とは別人のように優しくエスメラルダの湯浴みを手伝った。巫女の介入を許さずに。
クリーム状の泥は文様と共に落とされた。髪は三度も洗われた。
それから、エスメラルダは用意されたドレスに着替えた。
それは深緑のドレスだった。胸元を大きくくった黒のレースがあしらわれたドレス。
鏡台の前に座らされて、エスメラルダは首筋に真珠の首飾りを止められた。
「マーデュリシィ様……このように見事なものをお借りしても宜しいのですか?」
エスメラルダがそう問うのも無理はない。
真珠の首飾りはエスメラルダも持っている。
だが、その首飾りは真珠がとてつもなく大きかったのだ。
親指の爪くらいはありそうな、それでいて完璧な真球のみで作られた真珠の首飾り。
「今日は大変だったでしょう? だから、ね? これはプレゼント。ドレスもよく似合うわ。今夜の夜会に出席する為のドレスをと思って仕立てさせたの」
「そんな……頂けません!!」
エスメラルダの言葉にマーデュリシィは笑った。
「じゃあ、そうね、婚約祝いよ。それなら構わない?」
「マーデュリシィ様!!」
「はい、水晶」
ぽんと、マーデュリシィは空間転移で取り寄せた水晶をエスメラルダに渡した。
「貴女からフランヴェルジュ陛下への贈り物。そしてその貴女を最高に美しく飾り立てるのがわたくしから陛下へのプレゼント。髪も結わせて頂戴。貴女は次期王妃なのよ。完全に美しく、賢くあらなくてはならないわ」
エスメラルダはマーデュリシィの言葉を殆ど聞いていなかった。
あの屈辱的な経験の後で手に入れた水晶にはひびどころか曇り一つ見受けられない。
きっと、喜んで下さるわ。フランヴェルジュ様はきっと。
その時、唇に柔らかいものが触れた。
マーデュリシィが口づけたのだ。
「!!!!」
エスメラルダは絶句する。
小鳥が餌を啄ばむようなそんなキスであったけれども。
「正気に返って頂戴。わたくし一人喋っていて、まるで馬鹿みたいだわ」
「だっだっだ、だからといって口づけなんて! そんなの目茶苦茶すぎます!!」
「貴女の反応を見ていると丁度良い刺激だったように思われるわね。わたくしは、これは本当は口にしてはいけない事なのだけれども貴女には特別に教えてあげたい事があるの。ねぇ、貴女はさぞかし疑問に思ったのではなくて? 『審判』のあのやり方は……事情も知らぬ人間にはただの辱めにしか思えなかった事でしょうから」
ごくり、と、エスメラルダは唾をのんだ。
それは……確かに意味もなく辱められたのではないだろうとは思っていた。
けれどそれがどういう理由に基づいての事かと言われると見当すらつかなかった。
「お茶とお風呂で、今の技術力で可能な限り人間が持つあるものを抜くわ。汗だくになったでしょう? 汗と共に流れたのは老廃物と、人の穢れ。まぁ苦しんで暴れだしたという報告を受けていないという事は、貴女は人間なのにあまり穢れに縁がなかったのね」
熱くて熱くて、逆上せるなどという言葉では到底足りぬ入浴にそんな意味があったのかとエスメラルダは驚いた。
「次に全身に塗られた泥ね、あれは主から貴女の姿を隠すためのものなの。本来の対価を求められぬように泥で貴女の姿を隠し、貴女の身体にアーニャの地に繋がる魔法陣を描いた。貴女は隠さなければいけないけれど貴女の潔白を証明する為には貴女自身を魔法陣にする必要があったの。あのとんでもない格好も、魔法陣を正しく描くために必要だった」
眉を寄せて苦しげに言うマーデュリシィの言葉の中から、エスメラルダは一つを取り出した。
「本来の対価とは……何なのですか? 本当はあんなに恥ずかしい思いをしなくても別の対価があったという事ですか?」
「……決して他人に教えてはならないわよ、エスメラルダ。尤も、審判に関係する事は制約がかかるから殆ど口には出来ぬもの。本来の対価は……魂の消滅、なのよ」
エスメラルダは驚きの余り声が出ない。
魂の消滅?
「だって主にとってこの者の言葉は嘘か誠かなんかでしょっちゅう呼び出されてはたまったものではないという事よ。主は勿論その言葉の真偽はお教え下さる。けれど、まだ命を懸けるなら解らなくもないけれど魂だなんて。そんな大変なものを懸けさせられないわ。だからわたくし達は長い間試行錯誤を繰り返して今の形の『審判』へとたどり着いたの。偽りがあれども水晶が割れるにとどまる。まぁ、他の国では『審判』が禁止されていたり、相変わらず魂をかけて行ったり、そんな風にはなっているわね」
エスメラルダは震えが止められない。
酷い辱めだった。
だからこそ、今生きている。来世もある。
もし、もしもだ、メルローアの神殿の巫女や神官達が手探りで方法を探し求めてくれていなければ潔白を証明した自分は魂の消滅を受け入れざるを得なかったのか?
それではどうやっても愛しい男の隣に座る事など出来ぬではないか。
「後それから、沢山の立会人がいたと貴女は誤解しているようだけれども、ホトトルの白い泥に魔法陣を描いてしまうとね、魔力を持たない者にはその姿は見いだせないわ。沢山の人間にあの姿を見られたという事はないの。彼らの目に移ったのは光り輝く水晶だけ。貴女の記憶を見たのは貴女とわたくしだけ。安堵してもよくってよ」
その言葉にエスメラルダはほっと溜息を吐いた。
何人もの人間にフランヴェルジュにすら見せてない姿を見られたのかと、ずっと心に引っかかっていたのだ。
「さぁ、話はこれで終わり。髪を結わせて頂戴。貴女の髪は本当に見事ね。婚約者たる貴女が美しい姿で君臨すれば、それは陛下の誇りとなるでしょうね」
「フランヴェルジュ様の」
エスメラルダは大人しくマーデュリシィにされるがままになっていた。
大祭司であるのに髪結いの技術は素晴らしかった。ドレスは少し古典めいていたが、それでも上品で嫌味なところが少しもない。
「わたくしの実家はね、髪結い所だったの」
マーデュリシィがエスメラルダの豊かな黒髪に簪をさす。
「わたくしも髪結い女になるんだって信じていたわ。でも七歳の頃神殿から迎えが来て、わたくしは神殿に入った。神の存在は信じていたから信仰の道にはなんら問題はなかったのだけれどもね、髪結い女と大司祭だったらわたくしは髪結い女が良かったわ。貴女の髪は本当に素敵ね。艶やかで」
きゅっと音がする。
簪が挿される音。普通、そういう結い上げ方をしたら頭痛がする。だが、エスメラルダは頭痛を覚えなかった。結い方が上手いのだ。
「さぁ、終わった。綺麗?」
マーデュリシィの髪結いの腕は確かだが、とてつもなく素早くもあった。
鏡に映る自分は、自分で言うのもなんだがとても美しく見えると思い、エスメラルダは深く深く頷いた。
「素晴らしいですわ」
「真珠も受け取ってくれるわね? 尤も、受け取ってくれないなら命令するけれども」
「……有り難く頂戴致します」
エスメラルダの言葉にマーデュリシィは破顔する。
「バジリル、いるのでしょう? この可愛いひとを案内して頂戴。さぁ、エスメラルダ、お行きなさい。陛下の下へ」
そう言って、マーデュリシィはエスメラルダを送り出した。
そして彼女は溜息吐く。外を見ると嵐はやんでいた。
嫌な予感がするわ。
マーデュリシィはこういう時、困ってしまう。それは自分の予感が絶対に外れる事ない事を、知っているか故であった。
◆◆◆
エスメラルダの手には二つの品があった。
一つは緑の絹に金糸で刺繍した袋……辱めを甘んじて受け、手に入れた水晶が入っている……と漆蒔絵の書簡箱であった。その中には、誰の何についての『審判』が行われたかという事を仔細に記し、かつ結果をしたため、大祭司の文様が入った書簡が収められた大切な箱である。
フランヴェルジュにも自分にも身分がなかったらこんなものは必要ではなかった。
ただ惹かれ、恋をしただけなら。
それだけなら、決して必要ではなかった。
身分というものは自分達をがんじがらめにするので嫌いだとエスメラルダは思う。
それでも、フランヴェルジュが国王として差配する姿にも心奪われた自分がいるので、完全に身分について否定は出来ないが。
それにしても、悩みはもう一つあった。
ブランシール様。
あの口づけは何ですか?
貴方はレーシアーナの夫になるはずの御方。
それに。
あの口づけには悪意があった。怒りが、憎しみが、悲しみが、あった。
それは何故?
エスメラルダには解らない。解らないが、何か引っかかる。
それに自分にそのような仕打ちをしたということが許せなかった。
エスメラルダが受け入れたのではない。
ねじ込まれた口づけ。
あんな事、フランヴェルジュ様なら決してなさらないわ。
早急に二人っきりになる必要がある。
問いたださないとならない。
レーシアーナの幸せに関わるかもしれない。
ただ、今は他のものと二人っきりになりたかった。そう、カスラと。
「夜会の前にアユリカナ様にお会いしとうございます。御手数をおかけしますが『真白塔』へ馬車を走らせて頂けないでしょうか?」
「承りましてございます」
神殿からつけられた御者はすぐに答えると少しだけ方向転換した。
そしてすぐに塔に着く。
「ご苦労様です。すぐに戻ってきますのでそなたはここに待機していてもらえますか?」
「はっ!」
御者席から降り、エスメラルダが馬車から降りるのを手伝っていた御者は彼女の足が地に付いたのを見ると左胸を叩いた。
「では、お願いします」
エスメラルダは走り出したいのを必死で押さえ、アユリカナに袋と書簡箱を渡し、二階を借りた。
ブランシールが使っていたあの部屋である。
「カスラ」
一人きりであるのを確認し、エスメラルダは呼ぶ。
ふわりと風が動いたかと思うと、何時の間にか部屋の片隅でカスラは控えていた。
「我が主よ。如何なされました?」
「ファトナムールの使節にはハイダーシュ殿下がいらしたのでしょう? 詳しく会話を再現して頂戴」
「それが、ハイダーシュはまだ来ておりませぬ」
カスラのその言葉に、エスメラルダは眉をあげた。
「どういう事?」
「雪でございますよ、エスメラルダ様」
カスラが淡々と答える。
「ついさっきカリナグレイの南門に到着いたしました。明日のブランシール殿下とレイデン侯爵令嬢の婚儀には間に合いましょう」
「そう、レイリエは?」
「大人しくしております。今のところは」
その言葉に、エスメラルダは心底ほっとした。レイリエはどのように動くのか予想がつかない。
昔っからそうだった。
レイリエは予測不可能な敵だった。
「わたくしはお前の忠告を聞くべきだったのよね。だけれども、今更だわ。レイリエはファトナムール王宮の奥深くに大切に隠されている。下手に手出ししたらどうなるか」
「気弱な事を仰いますな。貴女様にはにはカスラと我が一族がついております故に。ただ、ハイダーシュは国王陛下に勝るとも劣らない剣技の持ち主です。くれぐれもご注意召されん事を」
「解ったわ。下がりなさい。そして明日の朝までかき集められるだけ情報をかき集めてきて頂戴」
「は!」
そう言うと、カスラは影の中に溶け込んだ。
さて、未来の母に礼を述べ夜会へ急がねば。
◆◆◆
夜会の流れを見守りながらフランヴェルジュは唇に笑みをたたえていた。
機嫌が悪いのである。
そういう時こそ明るい顔をしていなければならないと徹底的に叩き込まれた所為で、フランヴェルジュはその美しい顔の眉間に皺すら寄せない。
ブランシールが隣にいる事が救いだった。
ブランシールはレーシアーナに追い払われるようにして、今、フランヴェルジュの隣にいるのだった。
レーシアーナ曰く、「国王陛下の晴れの席に弟たる貴方様がいらっしゃらないのは精彩にかけますわ。どうぞ、わたくしにご遠慮なく。わたくしは一人で手配出来ますゆえに」との事だったが、ブランシールは自分が邪魔者のような気がその時既にしていたので、さっさと逃げだし兄の隣に来たのだ。
それにしても兄上はどうなさったか?
気にすまいと思いつつも、生まれた時からといっても良い位に兄に心酔し、そして全てを求めた事実はそう簡単に消えない。習慣のようになっているのかもしれないとブランシールは苦笑をかみ殺した。
きっと、僕が生きている間は、兄上の事が気にならなくなる日はこないであろう。
「兄上、表情筋が強張りますよ」
玉座の左横に立っていたブランシールがそっと兄に耳打ちする。
フランヴェルジュはしっしと手を振った。
「もうがちがちに固まっているんだ。今更どうにもこうにもしようがない」
「何がつまらないんです?」
「いや、全部」
夜会というだけあって飲み物は全ての客に行き渡り、人々は音楽にあわせダンスを楽しんでいた。
尤もこの夜会は昼間のパーティーとは違いメルローアの貴族達しか出席していない。
傍流の王族も雑じっており、人々はアクシデントに見せかけた恋の駆け引きを楽しんでいる。
だが、フランヴェルジュはそんな光景に飽きてしまった。
何故自分の生誕祭なのに自由に厠に行くことも許されないのか?
「もうそろそろかな」
フランヴェルジュはぼそりと呟いた。
見計らうタイミング。人々の熱意は最高潮。
そしてこれから慈善事業を行うのである。
これはメルローア建国以来、国王の生誕祭には必ず行われる事であった。
何のことはない。踊っている男女の間を、給仕が銀の籠を持って歩くのである。
客人は、その姿を見ると、身に着けていた宝石などをその籠の中に投げ入れるのだ。
その利益は孤児院や施療院に割り振られる事になっている。
そしてたっぷり歩いた給仕達が銀の籠を重そうに運んでくると玉座の足元に置いた。
フランヴェルジュが立った。
音楽が止まり、集る貴族たちは皆、国王の言葉を待つ。
「余が王に成って初めての生誕祭にこれ程の善意が寄せられた事、世は嬉しく思う。メルローアに光あれ!」
「「メルローアに光あれ!!」」
人々は一斉に叫んだ。籠は十だったが、どれも宝石などで溢れんばかりだ。
フランヴェルジュは母の影響で特に慈善事業に関心が強い。だから本当に有難かった。
人々は、フランヴェルジュの次の言葉を待つように彼を見詰める。だがフランヴェルジュには何もない。
その時、扉の開く音がして皆は一斉にそちらに視線を奪われた。フランヴェルジュもブランシールもその方角を見やる。
神官戦士の証の白い鎧に身を包んだ騎士達が守る娘に、人々の目は吸い寄せられた。
黒く豊かな髪に真珠の簪を挿し、少し古典めいた緑のドレスを着た娘はこの会場に集まっているどの令嬢よりも美しく、目にした者の心を縛り上げ魅了するだけの美しさがあった。
「余は」
何というタイミングで現れる事だろう! フランヴェルジュの婚約者は!!
「余の婚約を今日の善き日に皆に伝えん」
会場内が凍りついた。
エスメラルダも硬直する。
目立たないようにそっと入ってきたつもりの彼女は、思いっきり衆目を集めている自分に気付き失敗したと思いながらもフランヴェルジュと目が合ってしまい、もう笑うしかなかった。
「皆に紹介しようと思う、エスメラルダ・アイリーン・ローグ。此方へ」
エスメラルダはそっと足を進めた。人の波が割れる。そこを、エスメラルダは顎を引き、堂々と歩いて見せた。まさしく、王妃に相応しい風格であろう。
「陛下にこれを」
玉座の壇の下でエスメラルダは腰を折り、お辞儀した。そして水晶がはいった袋と書簡箱を捧げ持つ。
フランヴェルジュはそれを受け取った。胸がひどくうるさく鼓動を立てる。
これが、自分達二人の未来を求めるにあたって絶対に必要なもの。
袋の口を開けると、傷どころか濁りすらない完璧な水晶球が露わになった。
「ローグ家の娘の醜聞は余も伝え聞いておるところ。しかし、神はそのような醜聞は全くのでっち上げであると証言なされた。見よ、この全き水晶を」
人々のざわめきは消えない。
貴族の価値観では十六もとうに越えた娘が処女であることも信じがたい事であったし、事実婚のあるなしでレイリエの流した噂話に熱狂した事もまだ忘れてはおらず。
そう、この場に集まるメルローアの貴族達にとって次の一歩を間違えるわけには行かない勝負所に持っていかれたのだ。
フランヴェルジュはエスメラルダを壇上に招いた。エスメラルダは恥ずかしそうに従う。
「余が隣に座するはこの娘以外おらず」
フランヴェルジュは笑った。今度は本物の笑みだった。




